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2009/02/26

補遺「寝てかさめてか」

ついでながら、伊勢物語のこの段については、円地文子が「なまみこ物語」でものすごいこと(いやこれが国文の常識なのかしらないけれど)を書いておりましたね。ご存知の方には、お見苦しいかもしれませんが、抜粋いたします。

一体巫女は処女として神に仕えるのが習慣になっているが、実際には思いのほか、情事の多いもので、神事に身体の清浄を要求されるのも、女の不浄を厭うというよりも、男の要求に応じうる状態の女を神が好むと見るのが妥当な見解であるかも知れない。
『伊勢物語』の中の「狩りの使い」の件に、業平らしい男が伊勢の斎宮の屋形に伺候して、饗応を受けている中に、斎宮に愛情を求めるようになる。するとその夜半、男の寝ている部屋の御簾の外に女童(めのわらわ)をつれた女の影が透いて見えるので、内へ招じると、入って来たのは斎宮その人であった。業平はそこで斎宮と一夜の契りを込めたが、その翌朝は早朝に出立するので、斎宮と逢う暇もない。そこへ昨夜の女童が文を持って来た。あけて見ると、言葉書きはなくて、一首の和歌が斎宮の手蹟で記されていた。

 きみや来しわれやゆきけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか

これでみると皇女であり、伊勢神宮の斎宮という最高の巫女である貴婦人が自分の方から業平の閨をたずねて来ている。一体『伊勢物語』に描かれているのは、王朝も初期の時代で奈良時代の野生が貴族の行動の中にも可成り残っているのが興味深いのであるが、それにしても、神に仕える貴婦人自身が男の閨を訪ねて来るような積極的な態度は、他の物語には殆ど見られないようである。つまり、巫女というものは神前のほかには男との情交を公認されるとまでは行かないまでも、黙認される形になっていたのではないか。
一方から見れば、巫女に神が憑きうつるという状態も、精神と肉体の極度の緊張、恍惚、飽和という過程を辿るので、その間には性欲の本能も自然に満たされるわけであろう。つまり巫女は神憑りの状態に於いても、一種の性行為を行っているので、彼女達の女性は神によって閉じこめられるどころか、神によって、解放されたと言えるのである。

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