藤原秀能は、河内守秀宗の二男、藤原秀郷の後裔だといふ武の家に生まれた。通説に従へば、仁治元年五月二十一日に行年五十七歳を以て卒したといふから、それから逆算すれば、元歴元年の生まれとなる。元歴元年は即ち壽永三年である。木曾義仲が戦死し、一の谷の合戦に源氏が大勝した年である。秀能は、もと土御門通親の家人であつた。ところが、正治元年十六歳の時に、後鳥羽上皇の北面に召されたと尊卑分脈にある。彼の新しい運命はここから開けるのである。
小島吉雄「藤原秀能とその歌」
正治元年は西暦で言うと1199年、後鳥羽上皇が土御門天皇に譲位された翌年にあたる。
このとき後鳥羽院は二十歳くらい、俊成は八十五歳くらい、定家は三十七歳くらいの見当であります。
ちょうどこのころに俊成・定家親子のパトロンともいうべき九条家の跡目を継いだ藤原良経が政権の中央に返り咲きます。藤原良経についてはまえに記事を書いた。 (こちら)このとき三十歳くらい。いずれにしても、俊成を除けばみな若いね。こういう人々が、後鳥羽院の宮廷で、「院初度百首歌」だとか「六百番歌合」だとかいう催しをやっておられました。
いや、当時の院は、もうそれは和歌にご熱心で、じつは毎日のように歌会が開かれ、歌才あるものは身分によらず殿上の歌会に召されたのだそうな。
これはわたしの勝手な想像だが、どうもこのときは俊成が宮廷の「趣味の審判者」をつとめていた感がありますね。事実、当時の歌壇の中心勢力は藤原清輔の門流であったが、俊成門下の歌人が新興歌人として台頭したがために、後鳥羽宮廷においてかれらは凋落の一途をたどり、やがて御子左家がながく歌壇を支配することになるのでありました。
十六歳の藤原秀能が日夜侍うこととなった仙洞御所とは、こういう新興文学運動の拠点でもあったわけで、門前の小僧ではないが、かれもたちまち、和歌をよみ習うこととなった。
が、詩人は生まれながらに詩人なんでありますね、十七歳のとき歌会に上げられて詠んだのが——
「野亭秋有」の題にて
むさし野や草のいほりもまばらにて衣手さむし秋の夕ぐれ
「霞隔山雲」の第にて
やまのはにあさゐる雲をたちこめてふかくもみゆる春霞かな
いや、十七歳でこんな歌を詠まれてはかなわない。
たちまち、かれは後鳥羽院に見いだされる。
建仁元年八月三日の「影供歌合」には、武者所の平景光と組み合つて、六番のうち三番勝、二番持の成績をあげてゐるし、同年八月十五夜の「撰歌合」には、源通親、源具親、藤原隆信、藤原定家と番つて、通親、定家に負け、具親、隆信に勝つてゐる。この頃から歌人としての彼の地位は高まつて来たのであつて、以来、鴨長明と共に、歌會歌合の常連として詠進列席を許されるやうになつた。既に、この建仁元年の七月に和歌所が開かれ、十一人の寄人が補せられたのであるが、『家長日記』によれば、そののち鴨長明と藤原隆信とそしてこの秀能が更に寄人に追補せられたとある。
同上
歌人としての声望ももちろんだが、この男、武人としてのはたらきもなかなか優れておったようで、三十三歳のとき、防鴨河判官左衛門尉という役職であったが、東寺の仏舎利を盗んだ盗賊を追捕した功により、出羽守に兼任されたとか。
しかし前回書いたように、承久の乱でその栄光の人生は一変した。余生は後鳥羽上皇を慕い、感傷述懐の詠みぶりとなっていて、こちらはさほど感心しない。
読んで感心するのは、叙景歌だ。こういうきりっとしまった歌は今読んでもじつに感じがいい。
鐘のおとも明けはなれゆく山のはの霧にのこれる有明の月
足曳の山路の苔の露のうへにねざめ夜深き月をみるかな
さを鹿の鳴く音もいたく更けにけり嵐の後の山のはの月
草の庵あらしにゆめは絶えにしをおどろくほどにすめる月かな
やまのはにあさゐる雲をたちこめてふかくもみゆる春霞かな
ゆうひさす岡のあさぢはうらがれてとやまにうとき小男鹿のこゑ
奥山の峰の時雨を分けゆけばふかき谷よりのぼる白くも
のちに西下して、隠岐をのぞんでこんな歌を詠んだ。
いのちとは契らざりしを石見なるおきのしらしままた見つるかな
冒頭に引いた通り、五十七歳で世を去った。後鳥羽院の崩御に遅れること一年であつた。
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