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2009年5月

2009/05/31

藤原秀能、補遺

『後鳥羽院御口傳』に、藤原秀能について次のような記述がある。

秀能は身の程よりもたけありて、さまでなき歌も殊外にいでばヘするやうにありき。まことによみもちたる歌どもの中には、さしのびたる物どもありき。しか有を、近年定家無下の歌のよしと申ときこゆ。

定家の「無下の歌」というのは、要するにへたくそだという意味。

後鳥羽院は、この御口傳のなかで、定家については「左右なきものなり」と評価しながらも、「但引級の心になりぬれば、鹿をもて馬とせしがごとし。傍若無人、ことはりも過たりき」などと口をきわめて罵っておられる。秀能の歌は後鳥羽院の御心にかなうものだったのに、定家がこれを貶しているとお聞きになって、ムカついておられるわけだ。(笑)

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2009/05/30

藤原秀能のこと(承前)

藤原秀能は、河内守秀宗の二男、藤原秀郷の後裔だといふ武の家に生まれた。通説に従へば、仁治元年五月二十一日に行年五十七歳を以て卒したといふから、それから逆算すれば、元歴元年の生まれとなる。元歴元年は即ち壽永三年である。木曾義仲が戦死し、一の谷の合戦に源氏が大勝した年である。秀能は、もと土御門通親の家人であつた。ところが、正治元年十六歳の時に、後鳥羽上皇の北面に召されたと尊卑分脈にある。彼の新しい運命はここから開けるのである。
小島吉雄「藤原秀能とその歌」

正治元年は西暦で言うと1199年、後鳥羽上皇が土御門天皇に譲位された翌年にあたる。
このとき後鳥羽院は二十歳くらい、俊成は八十五歳くらい、定家は三十七歳くらいの見当であります。
ちょうどこのころに俊成・定家親子のパトロンともいうべき九条家の跡目を継いだ藤原良経が政権の中央に返り咲きます。藤原良経についてはまえに記事を書いた。 (こちら)このとき三十歳くらい。いずれにしても、俊成を除けばみな若いね。こういう人々が、後鳥羽院の宮廷で、「院初度百首歌」だとか「六百番歌合」だとかいう催しをやっておられました。
いや、当時の院は、もうそれは和歌にご熱心で、じつは毎日のように歌会が開かれ、歌才あるものは身分によらず殿上の歌会に召されたのだそうな。
これはわたしの勝手な想像だが、どうもこのときは俊成が宮廷の「趣味の審判者」をつとめていた感がありますね。事実、当時の歌壇の中心勢力は藤原清輔の門流であったが、俊成門下の歌人が新興歌人として台頭したがために、後鳥羽宮廷においてかれらは凋落の一途をたどり、やがて御子左家がながく歌壇を支配することになるのでありました。

十六歳の藤原秀能が日夜侍うこととなった仙洞御所とは、こういう新興文学運動の拠点でもあったわけで、門前の小僧ではないが、かれもたちまち、和歌をよみ習うこととなった。
が、詩人は生まれながらに詩人なんでありますね、十七歳のとき歌会に上げられて詠んだのが——

「野亭秋有」の題にて
むさし野や草のいほりもまばらにて衣手さむし秋の夕ぐれ

「霞隔山雲」の第にて
やまのはにあさゐる雲をたちこめてふかくもみゆる春霞かな

いや、十七歳でこんな歌を詠まれてはかなわない。
たちまち、かれは後鳥羽院に見いだされる。

建仁元年八月三日の「影供歌合」には、武者所の平景光と組み合つて、六番のうち三番勝、二番持の成績をあげてゐるし、同年八月十五夜の「撰歌合」には、源通親、源具親、藤原隆信、藤原定家と番つて、通親、定家に負け、具親、隆信に勝つてゐる。この頃から歌人としての彼の地位は高まつて来たのであつて、以来、鴨長明と共に、歌會歌合の常連として詠進列席を許されるやうになつた。既に、この建仁元年の七月に和歌所が開かれ、十一人の寄人が補せられたのであるが、『家長日記』によれば、そののち鴨長明と藤原隆信とそしてこの秀能が更に寄人に追補せられたとある。
同上

歌人としての声望ももちろんだが、この男、武人としてのはたらきもなかなか優れておったようで、三十三歳のとき、防鴨河判官左衛門尉という役職であったが、東寺の仏舎利を盗んだ盗賊を追捕した功により、出羽守に兼任されたとか。
しかし前回書いたように、承久の乱でその栄光の人生は一変した。余生は後鳥羽上皇を慕い、感傷述懐の詠みぶりとなっていて、こちらはさほど感心しない。

読んで感心するのは、叙景歌だ。こういうきりっとしまった歌は今読んでもじつに感じがいい。

鐘のおとも明けはなれゆく山のはの霧にのこれる有明の月

足曳の山路の苔の露のうへにねざめ夜深き月をみるかな

さを鹿の鳴く音もいたく更けにけり嵐の後の山のはの月

草の庵あらしにゆめは絶えにしをおどろくほどにすめる月かな

やまのはにあさゐる雲をたちこめてふかくもみゆる春霞かな

ゆうひさす岡のあさぢはうらがれてとやまにうとき小男鹿のこゑ

奥山の峰の時雨を分けゆけばふかき谷よりのぼる白くも

のちに西下して、隠岐をのぞんでこんな歌を詠んだ。

いのちとは契らざりしを石見なるおきのしらしままた見つるかな

冒頭に引いた通り、五十七歳で世を去った。後鳥羽院の崩御に遅れること一年であつた。

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2009/05/29

藤原秀能のこと

新古今集の歌人で藤原秀能と言われても、専門家でもなければ、あああの人ね、とすぐにわかる人はすくないだろう。これは当然で、ふつうわたしたちの和歌に関する知識は百人一首がベースになっているので、これからもれている人は、まあ、あんまり有名な人ではないわな、ということになってしまうのでありますね。
もちろんわたしも同様で、あまりえらそうなことは言えないのだけれど、この歌人にはちょっとした思い出があった。
もしかして、この人の名前には覚えがない方でも、この歌は、ああ知ってるよ、ということがあるのではないだろうか。

夕月夜しほみちくらし難波江の芦の若葉を越ゆる白波

2090528b 数年前のことだが、当時、四人でつづけていたプライベートな英会話クラスの先生が、故郷のオーストラリアのパースに帰ることになった。そのときもう30代の半ばだったけれど、論文の審査が通れば、大学の教員になれそうだということだった。
日本人の奥さんとのあいだにふたりの子どももいて、大阪にながく居をすえていた男だったから、記念にみんなでなにか贈るよ、と言うと、それじゃあ、日本の書を自分の部屋にかけたいからなにか書いてくれないか、と言った。
ということで、大阪暮らしの思い出にということで、難波が出てくる和歌を探して、この藤原秀能の一首を撰び、知り合いに色紙に書いてもらって贈ったのが写真の額であります。

小島吉雄の『新古今和歌集の研究・續篇』(この本については、また項をあらためて書くかもしれない)を読んでいたら、そのなかに附録として「藤原秀能とその歌」という論文があって、これがたいへんに面白かった。わたしも上記のような経緯で、この人の歌は頭に残りながら、じっさいにどういう人であったのかは、知らなかったのでありますね。

藤原秀能(「ひでよし」あるいは「ひでとう」)は、元暦元年(1184)の生まれ。藤原という苗字だが、北家などの貴族の血筋ではなくて平氏の流れをくむ北面の武家である。お兄さんである藤原秀康の方が歴史上は有名で、承久の乱(1221)で京方の総大将をつとめました。
なにしろ京方には後鳥羽上皇の院宣がありますから、執権北条義時はこれには逆らえないだろうと思いきや、例の北条政子が大演説、藤原秀康は君側の奸である、いまこそ故右大将頼朝の「海より深く山より高い恩」に報いるときぞ、ものども進撃せよ、とやったもんだから、鎌倉方は一致団結、一気に武家の世となった歴史的瞬間であります。可哀想なのは、藤原秀康で、水戸黄門の印籠のように院宣がきくと思っていたら、さんざんに討ちのめされて、あげくのはてに後鳥羽さんに見棄てられ、六波羅で斬られております。このとき、義時はもし後鳥羽院みずから出御の場合はいかにと政子に尋ね、そのときは全員弓弦を切って官軍に下るべしとの指示を受けていたといいますな。まあ、そんなことはありえない、というのが政子の読みだったのでしょう。

さて、藤原秀能も当然、このいくさには京方として出陣し、兄同様捕らえられてしまいますが、兄とちがって助命されています。歌詠みとしての声望により罪一等を減じられたということらしい。剃髪して如願という法号になりました。

「藤原秀能とその歌」によれば、この人の歌集として『如願法師集』というのがあるのだそうで、宮内省図書寮御本、近世初期の写本とおぼしき鳥の子胡蝶装の三冊本なんだとか。
この秀能が後鳥羽上皇の北面に召されたのは十六歳のときであった。
(つづく)

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2009/05/27

THE WHITE TIGER

Whitetig8 Aravind Adigaの『THE WHITE TIGER』を読む。
去年のブッカー賞をとった小説で、作者にとってはデビュー作だそうな。
ま、率直に言って、ブッカー賞とるほどの出来ではないわなと思うのだが、面白い小説であることは間違いない。だいたい、ブッカー賞というのは、一見これはエンターテインメント小説かね、と思うようなものが受賞することがありますな。この小説もその典型で、小説の構造はあっけないくらい単純。全部で7章に分かれるのですが、これがすべてホワイト・タイガーという通り名をもつ主人公が、中国の温家宝首相に宛てた手紙のかたちになっております。

両国の経済協力やなにやかやで、来週インドを視察にやってくる予定の温家宝閣下、どうぞ、ほんとうのインドを知っていただきたくて、このようなお手紙を差し上げます。
どうせ我が国のエリート連中は、この町のガラスの高層マンションだの、ブランド品であふれたショッピングモールだの、グローバル企業のコールセンターだのといったところを案内して、驚異の経済的な変貌を遂げつつあるインドをあなたに印象づけようとするでしょうが、そんなものはほんとうのインドではないのです。この町、バンガロールがエレクロニクスとIT産業のアウトソーシングの世界的な中心であることは事実ですが、これらが輝く光だとすれば、インドにはぞっとするほど深い闇の世界がいまなお存在するのです。そのことを温家宝閣下、わたしは自分の生い立ちと、運転手にして召使いという身分のときにうけた過酷で理不尽な体験、そしてわたしが犯した人殺しの物語でご説明しようと思うのです・・・

というような感じの物語なのでありますね。ただし、上に書いたような文面が実際に手紙に書かれているわけではありません。7章をつかって、こういう趣旨のことがわかるようになっているのであります。念のため。

今世紀中には超大国としてお互いに世界の覇権を争う気満々のインドと中国ですから、この設定は欧米で受けたことは想像にあまりある。なんでえ、中国は共産党の一党独裁国家だし、インドの民主主義なんて、ほとんど悪い冗談みたいな、いかれた社会だぜ。こんな連中が、ほんとうに世界支配に乗り出したら第三帝国の世界支配のほうがまだましじゃねえか、というような感想は、いくつか英語で書かれた書評を読んでも出ては来なかったけれど、わたしのみるところ、このブッカー賞にはそういう悪意が、無意識にせよ含まれておりますな。

なお、この作家の文章は平易でほとんど苦労なしにすらすら読めると思うのだが、ときどきこれは曼荼羅みたいな文体だなあ、なんておかしく思うことがあった。あるいは、こういう文体そのものが、ブッカー賞の評価につながっているという側面もあるかもしれない。
以下はその一例。主人公が、生まれ育った村(主人公にとって愛憎にみちたインドの深い闇そのもの)を、心の中で捨てる場面。このリズムの良さは、全編を通じて変わらない。

I put my foot down on the accelerator and drove right past all of them.
We went through the market square - I took a look at the tea shop: the human spiders were at work at the tables, the rickshaws were arranged in a line at the back, and the cyclist with the poster for the daily pornographic film on the other side of the river had just begun his round.
I drove through the greenery, through the bushes and the trees and the water buffaloes lazing in muddy ponds; past the creepers and the bushes; past the paddy fields; past the coconut palms; past the bananas; past the neems and the banyans; past the wild grass with the faces of the water buffaloes peeping through. A small, half-naked boy was riding a buffalo by the side of the road; when he saw us, he pumped his fists and shouted in joy - and I wanted to shout back at him: Yes, I feel that way too! I'm never going back there!

しかし、皮肉なのはLondon Review of Booksの書評にもあったが、温家宝首相と同様に英語が一言もしゃべれない(と1頁目に書いてある)はずの主人公が、自叙伝めいた告白を、このような歯切れのいい英語で語っていることだ。もちろんヒンディーで書かれてあっては小説が成り立たないわけだし、そこにあんまり意味を探しても不毛だとは思う。それでも、インドと中国が覇権を争うにせよ、ホモセクシャルを公認した欧米が少子化で勢力を失ったあと(と主人公は温家宝に持ちかけるのですね)この両国で世界を分割支配するにせよ、互いの意思表示は、どうやら英語でなければ行えないらしい、というあたりが、なんだか深読みしたくなるところではありますね。(笑)

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2009/05/26

ブックカバーの作り方

ふだんは本を読むときにはカバーをつけない。
図書館の本なら、たいていはブックコート処理がされているから、当然そのままの状態で読む。本屋さんで買った本は、ハードカバーも文庫本も、ラッパーをつけた状態だと読みにくいので、全部取っ払って読む。読み終えてから、ラッパーを元に戻す。

ただし例外がひとつだけあって、洋書のペーパーバックは手製のカバーをつけることにしております。

わたしの場合400ページくらいのペーパーバックを読み上げるのに、最低でも1週間から2週間くらいはかかるので、その間に表紙の四隅が折れ曲がったり、ひどい場合には背中が割れてしまったりするのですね。まあ、ぼろぼろのPBというのも風情があるのですが、何度も読み返してそうなるならともかく、一回読んだだけでくたびれた外観になるのはいくらなんでも情けないので、頑丈なカバーをかけることにしているわけです。

わたしの定番は、ショッピング・バッグの再利用。
紙が丈夫なので、かなり頑強なカバーになって、中身をしっかり保護してくれます。読み終えたら、ハサミでじょきじょきと切って、最終的にこのカバーは棄ててしまうのですが、カバーの中から新品同様のPBがゆで卵の殻を剥いたように現れるのが、わたし的には結構気に入っております。(笑)

20090526o

作り方

  1. 用意するもの:ショッピング・バッグは紙が厚手のもの。PBのサイズに合わせて上下の長さに折り返しの余裕が必要。カッターとカッター・シート。定規。太めの透明テープ。
  2. ショッピング・バッグをばらして、取っ手の紐の下あたりで切る。大きな長方形をつくるわけですね。
  3. ショッピング・バッグの「底の部分」と「サイドの部分」を利用して、本を写真のように合わせる。(ただし、このやりかただと、どちらか片方の表紙に折り目がついた状態になりますので、完成後の美観を重視するなら、PBのサイズに合わせて、自分で折り目をつける必要がありますね。わたしは、折り目は気にならないのでこのやり方ですけど)
  4. だいたいこんな感じになります。写真は、背表紙の下側の加工がまだ済んでいない状態。
  5. コツとしては、PBをひとつの立方体のブロックかなにかのように考えて、それをラッピングする要領で、折り目をきっちりつけていくこと。
  6. 太めの透明テープで固定して完成。慣れれば10分くらいの作業ですね。


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2009/05/20

本郷恵子『京・鎌倉 ふたつの王権』

小学館創立八五周年企画の「全集日本の歴史」は全十六巻である。
全部通して読むほどの馬力はもちろんないが、図書館でぱらぱらと見た感じでは中世史のあたりがなんだか面白そうな予感。
—というわけで第5巻の『躍動する中世』(五味文彦)と第6巻の『京・鎌倉 ふたつの王権』本郷恵子の二冊を続けて読む。

20090520 五味文彦さんの『躍動する中世』には、さほど心が躍らなかったけれど、本郷恵子さんの『京・鎌倉 ふたつの王権』はなかなかよかった。
本郷さんという方は、カバーに写真入りで紹介されているが、1960年生まれ、現在東京大学史料編纂所准教授とのこと。折り込みの「月報」にもインタビューが掲載されている。「子供の頃になりたかったものは?」の質問に「奥様(笑)そういうものだと思っていたので」とのお答え。はは、現実にはご主人も東京大学史料編纂所准教授(本郷和人氏)であり、なんと大学二年のゼミで知り合って(「恐ろしいことに」とは本人の弁)以来のカップルなんだそうな。うーむ。

この人の専門家としての評価がどのようなものなのか、わたしは素人だから知る由もないが、少なくとも、文章は読ませるね。読んでいて、面白く、読者を飽きさせない。

内容見本として、以下の文章を引いておく。
「はじめに」のところ。「年中行事絵巻」の世界を読み解くくだり。

人の世のすぐ隣に異界が広がり、巫女の力を借りてそちらと交渉することもあれば、望みもしないのにいきなり向こう側に連れ去られることもあった。いま生きている世界が、彼らにとってどれほど確かなものであったか、将来を予測することがどの程度意味のあることであったのか、私たちが簡単に想像することを許されないような隔たりが、現代と中世との間には広がっている。だからこそ『年中行事絵巻』に描かれた、毎年決まって行なわれる行事・儀礼がもっていた意味は、私たちが考える以上に重かったのではないだろうか。季節や時間の流れと連動して、年中行事だけは決まった手順で繰り返される―それらは中世の人々にとって、自分の位置を測る里程標としての意味をもっていたのではないだろうか―茫漠たる世界のなかで、はっきりとわからない時間の流れのなかで、いまにも終ってしまうかもしれない人生のなかで。

この時代について、視界が一気に晴れるような快感をもたらす好著であります。お薦め。
ただし、後半になると(とくに両統迭立あたりの流れ)若干、先を急ぎすぎたのか、教科書風になっているのが惜しまれる。

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2009/05/19

日本人はマスクがお好き

関西で一気に感染者が急増した昨日は、通勤電車の中はマスクだらけ。
コンビニでもスーパーでもマスクは売り切れとか。
混雑した車内で、くしゃみや咳をする人がいると、びくっとするのはやはり人情である。かく言うわたしも、通勤のときマスクをしているが、はたしてこんなもんですしづめ状態の満員電車の感染が防げるかどうかははなはだ疑問であります。

20090519re マスクと言えば、ジム・キャリーの映画の、その名もずばり「THE MASK」というのがありましたね。どうもふつうにつかわれる「マスク」という言葉は、英語の場合は、ああいった、自分の素顔を隠す「仮面」といった意味が第一義的らしい。タイガー・マスクとか月光仮面とかオペラ座の怪人とか、ジェイソンとかさ。(笑)
まあ、まっとうな人が公共の場で着用するような代物ではありませんな。
いまのわたしたちが意味している「マスク」は、厳密には「サージカル・マスク」という呼ぶのだそうで。

日本人はむかしから鼻と口を覆う目的のマスクが好きだったのかどうかしらないけれど、たまたま、読んでいた『京・鎌倉 ふたつの王権(全集日本の歴史 6)』(本郷恵子/小学館)のなかに、こんな絵を発見。(あ、この本、すごく面白いです)

20090519

「春日権現験記絵巻」のなかの一場面で、春日社神人(じにん)が、穢れた息がかからないように口を覆っているのだそうです。ふーん、ですね。まるで昨日の大阪駅構内の風景だ。
ま、いまわたしたちがやってるマスクは自分の「穢れ」をまき散らさないためのものというより、お前らの「穢れ」を、わしは吸い込むのは嫌だけんね、という心理の現れかもしれないから、この絵とは方向性がちょっと違うかもしれないけれど、すくなくとも中世からすでに日本人がマスクをしていたという貴重な図像であります。

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2009/05/12

瀬戸正洋さんの俳句

2009_0512b6 ある方から瀬戸正洋さんの『俳句と雑文A』(邑書林)という本を貸していただく。
この瀬戸さんという方のプロフィールも、俳句歴も、最近の句業も、わたしはなにひとつ知るところがないのだが、俳句はたいへん面白かった。俳句でオリジナリティをもつことは、むつかしい。いわゆる俳句の骨法というやつが幅を利かせているものだから、結社や句会で鍛えられれば、誰が詠んでも、一応それなりにサマにはなるが、そういうのは要は現代俳句版の月並みに過ぎない。どれも似たり寄ったりであまり面白くないのでありますね。
だから、この人の俳句を読むと、独特の方法で、一種の爽快さを感じる。ははあ、ずいぶんやりたいようにやってるなあ、と喝采を贈りたくなる。ただし、言葉の感覚は、一見乱暴なように見えて、決してそうではない。これも俳諧の精神を背骨にもっている。

ところで邑書林の場合、セレクション俳人シリーズであれば、作者の年譜や略歴、複数の作家論などがあって、理解を助けてくれるのだけれども、本書については、そういうものを意図的に排してつくられている、いたって素っ気ない本だ。なにしろタイトルからして『俳句と雑文A』である。「少女A」かあんたは、と思わず突っ込みを入れたくなりますね。(笑)
「雑文」というのはもちろん謙遜だろうが、正直なところ、「俳人A」でいくなら、これらはないほうがずっとよい。ストレートに句集として出したほうが好感がもてますな。

この俳人のある傾向を強調するために十句ばかり抜いてみた。もちろん、こういうものばかりではないが、俳句に慣れた方なら、たぶん「おいおい」と言いたくなると思います。ま、そこをどう考えるかですな。
なお、帯の文章が非常によくできているので、書き写した。俳句を楽しんだあとで、あわせてお読みください。

市税県税国税菜飯食ひにけり

倒産廃業リストラ減給春埃

拉致と核と餓死と憎悪と朧月

サンドウィッチと珈琲二百十日かな

鶴千代豆千代若宮大路朧かな

ブロッコリと豚の角煮と泡盛と

サーファーと湘南電車と蜜柑かな

月下美人とジャズピアニストと潮騒と

勝ち組と負け組と雁渡りけり

ぶだう酒と仏蘭西麺麭と朧月

頭痛薬胃薬睡眠薬と葱

「日本酒、泡盛、スコッチ、ワインと種類を問わず酒を飲み、つまみは蚕豆や浅蜊、天ぷら、角煮と、どこか日本的である。満身創痍の薬漬けになりながら、通勤快速で毎日職場と家を往復する。そんな中年男が自らの文学的拠り所を探りつつ、十七音に物と物とのミスマッチを刻み、現代人の病理を抉るように予想だにしない哀愁を滲み出させる。きわめて特異でどこまでも俳諧的な新句集!」

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2009/05/03

賽は投げられよ(下)

今日の話は昨日の続き。
わたしはこれまで、ルビコンを前にしたカエサルが「ここまで来た以上ためらっていてもしかたがない。賽は投げられたのだ。もう引き返せはしない。さあ行こう」といった感じの演説をして兵を進めたのだ、と思っておりました。もしかすると多くの人がそう思っておられるのではなかろうか。

「賽は投げられた」はラテン語の原文では「ヤクタ・アーレア・エスト(iacta alea est)」というのだそうな。
以下は柳沼重剛の『語学者の散歩道』(岩波現代文庫)からの引用。

alea が「賽」で、iacta est が「投げられた」(「投げる」という動詞の現在完了受動相三人称単数)、だから合わせて「賽は投げられた」になる。現在完了という文法事項が、これほど感覚としても痛切に分かるように思える例はあまりないのではなかろうか。

「賽は投げられた」という現在完了形が意味するのは、たったいま、この瞬間、サイコロは振られて宙にある。どんな目が出るかは、神のみぞ知る、てな感じのように思えます。すると、この言葉がもっともふさわしいのは、川を渡る前ではなく、渡りきった瞬間なんじゃないか。だって、ルビコンを前にしてカエサルは迷いに迷うわけですよね。いまならまだなかったことにできる、と言っているわけですから。つまりまだサイコロを振っていないはず。

すこし、整理してみます。

  1. カエサルは軍装の兵士を率いたままルビコン川の小さな橋にさしかかる。
  2. 川を渡る決心がつかず「いまならまだ引き返せる、なにもなかったことにできる」と友人に語る。
  3. 神々の使いがラッパを吹きながら川を渡る。
  4. 「さあ行こう、賽は投げられた」と言う。

こうして見てみると、賽は投げられた、というかれの台詞は、具体的には神々の使いが川を渡ったことで、かれの心の迷いが晴れたことを指しているように思えます。

ところがですね、ここにもうひとつ面白い話があります。
それは、スエトニウスの『ローマ皇帝伝』のここの箇所には、写本間の異なった読みを示す脚注があって、それによれば「iacta alea est」と「iacta alea esto」のふたつの読みがあるというのですね。最後の 「est」 に「o」がつくか、つかないかというだけの違いですが、意味はこれによって大きく違ってくる。ふたたび、『語学者の散歩道』から。

こう読むと、esto というのは be動詞の命令法三人称単数で、三人称の命令法というのは「—をして、・・・せしめよ」という意味だから、今の場合、「賽をして iacta という状態にならしめよ」、つまり「賽をして投げられしめよ」となって「賽は投げられた」と断言するのとはちょっと様子が違うことになる。

ちなみにこの「esto」という読みはエラスムスによるものだそうな。なんでも、カエサルはこの台詞をギリシア語で語ったそうで(ブルータスお前もか、もそうでしたね)、ギリシアの慣用句に、なにかことを始めるときに「賽を投げよう」というのがあってこれをカエサルは使い、スエトニウスはこれをラテン語に訳したときに間違ったのだろうということらしい。エラスムスは中世きっての碩学ですからギリシアもラテンも目が届く。

なお河野与一訳の『プルターク英雄伝(九)』(岩波文庫)を見ますと、こうなっておりますね。

・・・アルプスの内側のガリアとイタリアの他の部分との境界を流れてゐるルービコーと呼ばれる河に達すると、思案に耽り始め大事に臨んで冒険の甚しさに眩暈を覚えて速力を控へた。遂に馬を停めて長い間黙ったまま心の中にあれかこれかと決意を廻らせて時を過ごした際には計畫が幾變轉を重ね、アシニウス、ポルリオーも含めて居合わせた友人たちにも長い間難局について語り、この河を渡ることが、すべての人々にとつてどれ程大きな不幸の源になるか、又後世の人人にどれ程多くの論議を残すかを考慮した。しかし結局、未來に對する思案を棄てた人のやうに、その後誰でも見當のつかない偶然と冒険に飛込むものが弘く口にする諺になつた、あの『賽は投げることにしよう』といふ言葉を勢よく吐いて、河を渡る場所に急ぎ、それから後は駈足で進ませ、夜が明ける前にアリーミヌムに突入してこれを占領した。

うん、どうもこのほうがすっきりするようで。

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2009/05/02

賽は投げられよ(上)

ヘーゲルは、一八二二−二三年の冬、ベルリン大学で『歴史哲学』の講義を行なった。抽象的で謎めいた話し方にもかかわらず、ヘーゲルは、歴史上の偉大な革命的人物は、たんにみずからの意志だけで山をも動かすような類い稀な人物であるばかりでなく、さまざまな社会集団がそれぞれ意識していない目的を達成するにあたっての代理人である、という確固たる考えを打ち出していた。たとえば、ユリウス・カエサルはもちろん、彼の敵を倒して独裁者としての地位を手に入れるためにローマの憲法を無効にしようとしたが、世界にとっての彼の重要性は、彼が独裁をつうじてのみ可能なローマ帝国の統治という避けられぬ偉業をなした事実にある、とヘーゲルは述べた。

『フィンランド駅へ』
エドマンド・ウィルソン

カエサルが権力を奪取する最大の山場は、言うまでもなくルビコン川を渡ったときであります。当時の元老院は宿敵ポンペイウスに牛耳られていました。カエサルが単独で帰国すれば、かれは殺されてしまうかもしれない。しかし、身の安全のために、かれに忠誠を誓う兵士たちを連れて帰国もできない。なぜなら、当時の憲法では、外地に派遣された軍の指揮官はローマに帰還するにあたっては、属州で軍隊を解散してからでなければ、国内に入ることができないとされていたからなのですね。(まあ、この規定自体がカエサルを狙ったものだったということらしいのですが)

ローマ本国とガリアを分ける境界線がルビコン川であります。だから、これを兵士と一緒に渡るということは、すなわちローマに対する叛逆を意味する。川を渡ったそのときから、かれらは反乱軍になるわけですから、あとはこのクーデタを成功させて権力を奪い取るしか生き残る道はないのである。権力奪取か全員死刑かのバクチをカエサルは部下に強いたことになるのですね。

ここで出てくるのが有名な「賽は投げられた」です。
ふつうこれは、川を渡る前にカエサルが、「もはや引き返すことはできぬ。賽は投げられたのだ。ものども、さあ渡れ」と号令をかけたように理解されていると思います。

しかし、状況はちょっとちがうようですね。

たとえばスエトニウスの『ローマ皇帝伝』「カエサル」第32節が、この言葉の出典ですが、ここではカエサルはルビコン川の前で逡巡に逡巡を重ねるのでありますね。そして、友人に「今からでもまだ引き返すことはできる。だがもしこの小さな橋を渡ってしまえば、今後は一切が武力で決められることになるだろう」なんて弱気なことを言ったりしている。かれが決意するのは、そのとき忽然と美しい偉丈夫が現れ、兵士のラッパを奪ってこれを鳴らしながら川を渡るという世にも不思議なことがおこったからで、これを神託と受け止めて、「さあ、行こうではないか、神々のお示しとわれらの敵の呼ぶ所へ。賽は投げられたのだ」と言ったことになっています。

(以下次号)

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2009/05/01

4月に読んだ本

『現代俳句の海図 昭和三十年世代俳人たちの行方』小川軽舟(2008/角川学芸出版)
『淡酒亭断片帖』草間時彦(邑書林/1999)
『時の基底—短歌時評98‐07』大辻隆弘(六花書林/2008)
『新古今和歌集の研究 正篇』小島吉雄(和泉書院; 増補版版/1993)
『山の手の子 町ッ子—獅子文六短篇随筆集』(木鶏社 /1996)
『文学がこんなにわかっていいかしら』高橋源一郎(福武文庫/1993)
『斜光』泡坂妻夫(扶桑社文庫/2001)
『チーム・バチスタの栄光(上下)』海堂尊(宝島社文庫/2007)
『ナイチンゲールの沈黙(上下)』海堂尊(宝島社文庫/2008)
『ジェネラル・ルージュの凱旋(上下)』海堂尊(宝島社文庫/2009)
『螺鈿迷宮(上下)』海堂尊(角川文庫/2008)
『人形佐七捕物帳』横溝正史(光文社文庫/2003)〈再読〉
『麦車/芝不器男句集』(ふらんす堂文庫/2002)

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4月に見た映画

ザ・マジックアワー
監督:三谷幸喜
出演:佐藤浩市、妻夫木聡、深津絵里、綾瀬はるか、西田敏行、小日向文世、寺島進、戸田恵子、伊吹吾郎

ジェイン・オースティン・コレクション 1  エマ
監督:ディアムイド・ローレンス
出演:ケイト・ベッキンセイル、サマンサ・モートン、マーク・ストロング、サマンサ・ボンド

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