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2009/05/02

賽は投げられよ(上)

ヘーゲルは、一八二二−二三年の冬、ベルリン大学で『歴史哲学』の講義を行なった。抽象的で謎めいた話し方にもかかわらず、ヘーゲルは、歴史上の偉大な革命的人物は、たんにみずからの意志だけで山をも動かすような類い稀な人物であるばかりでなく、さまざまな社会集団がそれぞれ意識していない目的を達成するにあたっての代理人である、という確固たる考えを打ち出していた。たとえば、ユリウス・カエサルはもちろん、彼の敵を倒して独裁者としての地位を手に入れるためにローマの憲法を無効にしようとしたが、世界にとっての彼の重要性は、彼が独裁をつうじてのみ可能なローマ帝国の統治という避けられぬ偉業をなした事実にある、とヘーゲルは述べた。

『フィンランド駅へ』
エドマンド・ウィルソン

カエサルが権力を奪取する最大の山場は、言うまでもなくルビコン川を渡ったときであります。当時の元老院は宿敵ポンペイウスに牛耳られていました。カエサルが単独で帰国すれば、かれは殺されてしまうかもしれない。しかし、身の安全のために、かれに忠誠を誓う兵士たちを連れて帰国もできない。なぜなら、当時の憲法では、外地に派遣された軍の指揮官はローマに帰還するにあたっては、属州で軍隊を解散してからでなければ、国内に入ることができないとされていたからなのですね。(まあ、この規定自体がカエサルを狙ったものだったということらしいのですが)

ローマ本国とガリアを分ける境界線がルビコン川であります。だから、これを兵士と一緒に渡るということは、すなわちローマに対する叛逆を意味する。川を渡ったそのときから、かれらは反乱軍になるわけですから、あとはこのクーデタを成功させて権力を奪い取るしか生き残る道はないのである。権力奪取か全員死刑かのバクチをカエサルは部下に強いたことになるのですね。

ここで出てくるのが有名な「賽は投げられた」です。
ふつうこれは、川を渡る前にカエサルが、「もはや引き返すことはできぬ。賽は投げられたのだ。ものども、さあ渡れ」と号令をかけたように理解されていると思います。

しかし、状況はちょっとちがうようですね。

たとえばスエトニウスの『ローマ皇帝伝』「カエサル」第32節が、この言葉の出典ですが、ここではカエサルはルビコン川の前で逡巡に逡巡を重ねるのでありますね。そして、友人に「今からでもまだ引き返すことはできる。だがもしこの小さな橋を渡ってしまえば、今後は一切が武力で決められることになるだろう」なんて弱気なことを言ったりしている。かれが決意するのは、そのとき忽然と美しい偉丈夫が現れ、兵士のラッパを奪ってこれを鳴らしながら川を渡るという世にも不思議なことがおこったからで、これを神託と受け止めて、「さあ、行こうではないか、神々のお示しとわれらの敵の呼ぶ所へ。賽は投げられたのだ」と言ったことになっています。

(以下次号)

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