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2009/05/29

藤原秀能のこと

新古今集の歌人で藤原秀能と言われても、専門家でもなければ、あああの人ね、とすぐにわかる人はすくないだろう。これは当然で、ふつうわたしたちの和歌に関する知識は百人一首がベースになっているので、これからもれている人は、まあ、あんまり有名な人ではないわな、ということになってしまうのでありますね。
もちろんわたしも同様で、あまりえらそうなことは言えないのだけれど、この歌人にはちょっとした思い出があった。
もしかして、この人の名前には覚えがない方でも、この歌は、ああ知ってるよ、ということがあるのではないだろうか。

夕月夜しほみちくらし難波江の芦の若葉を越ゆる白波

2090528b 数年前のことだが、当時、四人でつづけていたプライベートな英会話クラスの先生が、故郷のオーストラリアのパースに帰ることになった。そのときもう30代の半ばだったけれど、論文の審査が通れば、大学の教員になれそうだということだった。
日本人の奥さんとのあいだにふたりの子どももいて、大阪にながく居をすえていた男だったから、記念にみんなでなにか贈るよ、と言うと、それじゃあ、日本の書を自分の部屋にかけたいからなにか書いてくれないか、と言った。
ということで、大阪暮らしの思い出にということで、難波が出てくる和歌を探して、この藤原秀能の一首を撰び、知り合いに色紙に書いてもらって贈ったのが写真の額であります。

小島吉雄の『新古今和歌集の研究・續篇』(この本については、また項をあらためて書くかもしれない)を読んでいたら、そのなかに附録として「藤原秀能とその歌」という論文があって、これがたいへんに面白かった。わたしも上記のような経緯で、この人の歌は頭に残りながら、じっさいにどういう人であったのかは、知らなかったのでありますね。

藤原秀能(「ひでよし」あるいは「ひでとう」)は、元暦元年(1184)の生まれ。藤原という苗字だが、北家などの貴族の血筋ではなくて平氏の流れをくむ北面の武家である。お兄さんである藤原秀康の方が歴史上は有名で、承久の乱(1221)で京方の総大将をつとめました。
なにしろ京方には後鳥羽上皇の院宣がありますから、執権北条義時はこれには逆らえないだろうと思いきや、例の北条政子が大演説、藤原秀康は君側の奸である、いまこそ故右大将頼朝の「海より深く山より高い恩」に報いるときぞ、ものども進撃せよ、とやったもんだから、鎌倉方は一致団結、一気に武家の世となった歴史的瞬間であります。可哀想なのは、藤原秀康で、水戸黄門の印籠のように院宣がきくと思っていたら、さんざんに討ちのめされて、あげくのはてに後鳥羽さんに見棄てられ、六波羅で斬られております。このとき、義時はもし後鳥羽院みずから出御の場合はいかにと政子に尋ね、そのときは全員弓弦を切って官軍に下るべしとの指示を受けていたといいますな。まあ、そんなことはありえない、というのが政子の読みだったのでしょう。

さて、藤原秀能も当然、このいくさには京方として出陣し、兄同様捕らえられてしまいますが、兄とちがって助命されています。歌詠みとしての声望により罪一等を減じられたということらしい。剃髪して如願という法号になりました。

「藤原秀能とその歌」によれば、この人の歌集として『如願法師集』というのがあるのだそうで、宮内省図書寮御本、近世初期の写本とおぼしき鳥の子胡蝶装の三冊本なんだとか。
この秀能が後鳥羽上皇の北面に召されたのは十六歳のときであった。
(つづく)

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