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2009/05/03

賽は投げられよ(下)

今日の話は昨日の続き。
わたしはこれまで、ルビコンを前にしたカエサルが「ここまで来た以上ためらっていてもしかたがない。賽は投げられたのだ。もう引き返せはしない。さあ行こう」といった感じの演説をして兵を進めたのだ、と思っておりました。もしかすると多くの人がそう思っておられるのではなかろうか。

「賽は投げられた」はラテン語の原文では「ヤクタ・アーレア・エスト(iacta alea est)」というのだそうな。
以下は柳沼重剛の『語学者の散歩道』(岩波現代文庫)からの引用。

alea が「賽」で、iacta est が「投げられた」(「投げる」という動詞の現在完了受動相三人称単数)、だから合わせて「賽は投げられた」になる。現在完了という文法事項が、これほど感覚としても痛切に分かるように思える例はあまりないのではなかろうか。

「賽は投げられた」という現在完了形が意味するのは、たったいま、この瞬間、サイコロは振られて宙にある。どんな目が出るかは、神のみぞ知る、てな感じのように思えます。すると、この言葉がもっともふさわしいのは、川を渡る前ではなく、渡りきった瞬間なんじゃないか。だって、ルビコンを前にしてカエサルは迷いに迷うわけですよね。いまならまだなかったことにできる、と言っているわけですから。つまりまだサイコロを振っていないはず。

すこし、整理してみます。

  1. カエサルは軍装の兵士を率いたままルビコン川の小さな橋にさしかかる。
  2. 川を渡る決心がつかず「いまならまだ引き返せる、なにもなかったことにできる」と友人に語る。
  3. 神々の使いがラッパを吹きながら川を渡る。
  4. 「さあ行こう、賽は投げられた」と言う。

こうして見てみると、賽は投げられた、というかれの台詞は、具体的には神々の使いが川を渡ったことで、かれの心の迷いが晴れたことを指しているように思えます。

ところがですね、ここにもうひとつ面白い話があります。
それは、スエトニウスの『ローマ皇帝伝』のここの箇所には、写本間の異なった読みを示す脚注があって、それによれば「iacta alea est」と「iacta alea esto」のふたつの読みがあるというのですね。最後の 「est」 に「o」がつくか、つかないかというだけの違いですが、意味はこれによって大きく違ってくる。ふたたび、『語学者の散歩道』から。

こう読むと、esto というのは be動詞の命令法三人称単数で、三人称の命令法というのは「—をして、・・・せしめよ」という意味だから、今の場合、「賽をして iacta という状態にならしめよ」、つまり「賽をして投げられしめよ」となって「賽は投げられた」と断言するのとはちょっと様子が違うことになる。

ちなみにこの「esto」という読みはエラスムスによるものだそうな。なんでも、カエサルはこの台詞をギリシア語で語ったそうで(ブルータスお前もか、もそうでしたね)、ギリシアの慣用句に、なにかことを始めるときに「賽を投げよう」というのがあってこれをカエサルは使い、スエトニウスはこれをラテン語に訳したときに間違ったのだろうということらしい。エラスムスは中世きっての碩学ですからギリシアもラテンも目が届く。

なお河野与一訳の『プルターク英雄伝(九)』(岩波文庫)を見ますと、こうなっておりますね。

・・・アルプスの内側のガリアとイタリアの他の部分との境界を流れてゐるルービコーと呼ばれる河に達すると、思案に耽り始め大事に臨んで冒険の甚しさに眩暈を覚えて速力を控へた。遂に馬を停めて長い間黙ったまま心の中にあれかこれかと決意を廻らせて時を過ごした際には計畫が幾變轉を重ね、アシニウス、ポルリオーも含めて居合わせた友人たちにも長い間難局について語り、この河を渡ることが、すべての人々にとつてどれ程大きな不幸の源になるか、又後世の人人にどれ程多くの論議を残すかを考慮した。しかし結局、未來に對する思案を棄てた人のやうに、その後誰でも見當のつかない偶然と冒険に飛込むものが弘く口にする諺になつた、あの『賽は投げることにしよう』といふ言葉を勢よく吐いて、河を渡る場所に急ぎ、それから後は駈足で進ませ、夜が明ける前にアリーミヌムに突入してこれを占領した。

うん、どうもこのほうがすっきりするようで。

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コメント

今日は「観る俳句」展にご来場くださり、ありがとうございました。
かわうそ亭さんとのツーショットをさっそくブログにアップしました。岩淵さんにも添付で送りました。かわうそ亭さんのブログにあるかわいいお人形は奥さんの作品なのですね。

投稿: 水夫清 | 2009/05/04 17:44

今日はどうもありがとうございました。
たのしい個展でした。夏石さんの句につけらた俳画や海外の haiku との取り合わせが面白かった。
Cor van den Heuvel さんのことなどを知ることができて(野球ファンなんですね)よかったです。

投稿: かわうそ亭 | 2009/05/04 22:01

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