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2009/05/31

藤原秀能、補遺

『後鳥羽院御口傳』に、藤原秀能について次のような記述がある。

秀能は身の程よりもたけありて、さまでなき歌も殊外にいでばヘするやうにありき。まことによみもちたる歌どもの中には、さしのびたる物どもありき。しか有を、近年定家無下の歌のよしと申ときこゆ。

定家の「無下の歌」というのは、要するにへたくそだという意味。

後鳥羽院は、この御口傳のなかで、定家については「左右なきものなり」と評価しながらも、「但引級の心になりぬれば、鹿をもて馬とせしがごとし。傍若無人、ことはりも過たりき」などと口をきわめて罵っておられる。秀能の歌は後鳥羽院の御心にかなうものだったのに、定家がこれを貶しているとお聞きになって、ムカついておられるわけだ。(笑)

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コメント

お久しぶりです。
御子左家は親鎌倉の九条流ですから、後鳥羽院とは政治的立場が反対です。承久の変の時は既にない俊成は別として、後鳥羽院が定家に対して面白くないのは当然でしょう。定家はそれは充分に承知していたのではないか?
それにしては定家は、隠岐の島の後鳥羽院を含めた文(ふみ)による「歌会」を開いていたように記憶しています(「ヴァーチャル歌会」ですね)。御子左家が歌壇で伸びて来た影に、優れたセンスを持つ後鳥羽院の庇護があったことは忘れていなかったのでしょう。
歌の話に限るとはいえ、流罪中の後鳥羽院に通じるのはかなりの冒険であったようにも思えます。しかも定家は、世俗的栄達に恬淡としていたわけではない。
サラリーマンが、出世もしたい、義理も果たしたい、(家業の繁栄を通じて)子孫の幸せもと、あちこち願う気持ちに通じるような気がします。

投稿: 我善坊 | 2009/06/01 09:55

サラリーマンとしては身につまされるお話で。
それまで地位や名誉や富とは無縁だった定家の運がめぐってきたのは、皮肉なことに承久の乱の後でしたものね。
後鳥羽の蜂起の計画を鎌倉方に内通した西園寺公経は定家の義弟(定家の妻が公経の姉という関係)で、この関東申次は乱のあと太政大臣に就任しますから、定家も一気に従二位、正二位と昇進する。
むかし目をかけてもらった創業社長が代表権を取り上げられて、女房の弟が外資系の投資顧問会社の指名で社長をやることになり、万年係長が一気に筆頭専務になったようなものか。創業社長の古いセンスにはいい加減うんざりしてよくぶつかったものだが、いまでも、こっそり夜はいっしょに酒を飲んでるらしいなんて噂。(笑)

投稿: かわうそ亭 | 2009/06/01 22:54

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