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2009年6月

2009/06/28

中村稔『私の昭和史・戦後編(上)』

中村稔の『私の昭和史・戦後編』の上巻を読む。
武田百合子が二ヶ所に登場する。ひとつは中村と親しかった八木柊一郎の小説「放心の手帖」のなかに描かれた女のモデルとして。もうひとつは、書肆ユリイカを立ち上げようとしていた伊達得夫が打ち合わせで使っていた神保町のランボーのウエイトレスとして。
ふたつとも、年月にさらされてモノトーンとなった著者の記憶によって構成される回想録のなかでも、きらりと耀く宝石のような印象を残して面白い。

もうひとつ、おや、と思った箇所がある。意外な人物の若き日の武勇伝。『二十歳のエチュード』を残して命を絶った原口統三にかかわる話だ。
昭和20年一高入学の都留晃が書いた回想を中村の本から孫引きする。

原口統三は優しさと厳しさをあわせ持った圧倒的な存在感のある男だった。彼のことは知る人も多いから、ひとつだけエピソードを紹介する。親元が満洲の原口には送金がとだえ、家庭教師などのバイトだけが頼り、そこで布団などを換金しようとしたのだが、渋谷で闇市にいたやくざっぽい男にだまし取られて口惜しがっていた。当時布団は、今では想像もつかない貴重品であった。そこで「許さん」ということで、布団の取り返しに男の家に乗りこんだのが小柴昌俊と小生。交渉にあたっての小柴の権幕と啖呵はすさまじいもので、さすがのやくざが土下座して許しを乞うた程。今でもありありと思い出す。

小柴昌俊って、あのノーベル賞の小柴さんですよね。天体物理学、ニュートリノ、カミオカンデ。あの温厚そうな先生が、若いときは、そういう友情に厚い猛者であったというのは、ちょっと心あたたまる話でありますな。

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2009/06/23

芭蕉ノート(3)

江戸の街なかに住み疲れて、住所を深川村の川べりに移します。権力も財産もない者は生きていくのが難しいといいますが、なるほどそう言った昔の人はもっともだと感じるのは、私の身に才能が乏しいからでしょか。

と光田和伸さんは「柴の戸」のこの箇所を現代文に直しておられる。そしてこの文章に対して「何か大きな運命に押されて」いるような印象をうけると書かれておりますね。
わたしが思うに、もともと権力にも財産にも縁のない者は、こんないじけたものの言い方はしない。権力や財産を人生の目標にし、もう少しでこれに手が届くと思っていた人間が、不幸にも挫折してしまったときに、往々にしてこういうものの言い方をするのであります。
芭蕉さんどうしちゃったんでしょうね、てな感じですが、ここで光田さんが注目したのが、この延宝八年(1680)五月に四代将軍家綱が亡くなって、同年八月に綱吉が五代将軍宣下となる一連の政変である。

家綱という人は生まれつき虚弱体質だったとか、あんまり聡明でなかったとか言われていますが、それはそれとして問題はお世継ぎがなかったことである。この家綱は家光の長男で将軍になったのはわずか十一歳だったんですが、さいわいこのころにはまだ叔父の保科正之や家光時代からの重臣たちがよく政務を補佐した—というか、まあ、任せっきりで問題なかった。ところが、これらの「寛永の遺老」と呼ばれた酒井忠勝、松平信綱、阿部忠秋などという人たちが世を去って、四十歳の家綱が危篤となったころに、残っていたのは大老の酒井雅楽頭忠清(うたのかみ・ただきよ)のみとなっておりました。

この酒井雅楽頭は別名「下馬将軍」。江戸城登城の際の下馬札の前の広大な角地に居を構えて、将軍様より実権はこちらにあったという江戸庶民の皮肉でもある。

さて、家綱危篤となったときに、この最高実力者がどうしたかというと、いや、驚きますね、なんと鎌倉の先例(実朝のあとの宮将軍ですな)にならい、京から将軍をお迎えしようとしたというのであります。将軍家をお飾りにして執権体制で行こうぜ、ということでありましょうか。なにしろ、民主党の小沢サンの一声みたいなもんですから、大勢はこれできまりと思われた。
ところが、ここに奇怪なことがあって、家綱が最期の息を引き取るその夜、老中末席の保田正俊という大名が、上州館林二十五万石の松平綱吉(家綱の弟)を家綱に密かに面会させ、綱吉を末期養子にして家綱から綱吉へ将軍の指名が行われたと言い張った。なにしろほかに証人はいない、綱吉が、わしはたしかに本人から「あとはお前にたのむ」と遺言を受けたのだ言い、堀田がいかにも左様でござった、この耳でしかと聞きましたと言い張ればこれは仕方がない。堀田の大逆転サヨナラ・ホームランみたいな手柄でありますね。雅楽頭のほうは詰めが甘かった。男の器量はこういうときに現れるのですなあ、御同輩。(笑)

当然、綱吉は酒井雅楽頭を許しませんよね、これは。ただちに下馬札場所の一等地から追い出し、その後には将軍宣下の最大功労者、堀田正俊を入れました。
憤懣やるかたない酒井雅楽頭は、それから一年もしないうちに死にますが、さてこれが自然死なのか、あてつけの切腹なのかは誰でもとうぜん頭にうかぶ。もし切腹であれば、公儀への歴然たる反抗ですから、これは確実に酒井家お取り潰しであります。綱吉は、墓を暴いて調べろとまで言いつのったとか。
そして、話が例によって長くなったが、ここに登場するのが芭蕉の後見でもあるところの藤堂家である。じつは酒井雅楽頭忠清の女婿が藤堂家の三代当主の藤堂高久であった。いやこれは病死で間違いござらんと使者の検分を見事にはねのけてみせた。これまた男である。

しかし、これによって藤堂家もまた酒井家とともに政権中枢からは目をつけられて逆風にさらされます。この政変が、芭蕉にも及んだんだ、というのが光田さんの考え。

前回、書いたように、藤堂家からひとつよろしくという挨拶を受けて、伊奈家は杉風や其角を弟子に紹介したり、神田上水工事をまわしてやったりしていたのですが、藤堂家に便宜をはかるのは危険となりましたので、ここで伊奈家は芭蕉の支援を打ち切らざるを得なくなっただろうというのですね。
しかし、このときには芭蕉には、寿貞という妻もおり子供もできていた。
困窮した芭蕉に、伊奈関東郡代の手の者が申し出たのが、陸軍中野学校ならぬ隠密養成所の講師ではなかったかと、これはやや空想がふくらみすぎるきらいはあるが、そういうストーリーであります。

隠密として旅して回り、諸国に根付いた情報源から最新の各国の動向を聞き取るという役目の人々の隠れ蓑としては、薬売り、商人、絵師、などいろいろな職業があるが、かれらが俳諧をたしなむ人々ならば一夜集まって俳諧興行などいたすのは、表向きにも十分に名目がたつ。しかし、それが単なるカムフラージュで、俳諧にはまったく不案内では諸藩の治安を担当する役人につけ込まれ、摘発をうけることであろう。だから、かれらはいちおうそれなりの俳諧の素養を持っていなければならなかったはずだ。
生活に困窮した、芭蕉先生などこういうスパイ養成学校の俳諧コースの専任講師にうってつけ。さらに、場合によっては、上級の幕府隠密を随行させたかたちで旅をしてもらおうじゃないの、というのがお上が芭蕉に提示した条件ではなかったか。
かくして、芭蕉は、文芸上芸術史上の評価は別として、当時の権力機構のなかで隠密の一員として扱われた可能性は十分にあるかも知れませんな、たしかに。

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2009/06/22

芭蕉ノート(2)

ひきつづき『芭蕉めざめる』光田和伸(青草書房)から覚えとして。
ただし、あんまり中味を紹介しすぎて営業妨害になってはいけない。(笑)今回は、もうちょっとだけよ、にしておきます。なにしろ面白いので、ぜひ先生の本のほうをお読みくださいませ。

さて芭蕉が深川に「隠棲」したのは、前回書いたように延宝八年(1680)のことですが、江戸で俳諧宗匠として立机もし、それなりに名前も売れ出した男が、なぜまた急に市中を捨てたのかについて、以前からさまざまな説がありました。
俳諧宗匠などという、金と欲の浅ましい世界に絶望した芭蕉の、芸術上、思想上の選択だった、というのがいちばんお行儀のよい説ですが、近年は甥の桃印と妻の寿貞が不義密通をして、これを糊塗するための苦渋の選択だったなんて説も出て来ておりますね。たしか嵐山光三郎の『悪党芭蕉』がこの田中善信の新説を取り込んでいたかと記憶する。

じつはよく知られているように、この深川隠棲の三年程前から芭蕉は、俳諧の世界のシティ派宗匠と同時に、神田上水改修工事の監督をつとめております。このあたり、長々書くと先に進まないので端折って言えば、芭蕉というのは伊賀上野の藤堂新七郎家という名門の係累で、前回書いたように、この一門は藤堂高虎の流れを汲む土木屋さんですから、新興土木集団である伊奈家に対しても割とコネが利く。芭蕉が江戸に下ったとたんに幕府御用達の富裕な商人である杉風だとか、幕閣の一角をしめる本多家の御用医師の息子の其角を弟子にとることができたのも、そういうコネがバックにあったというのであります。
つまり、藤堂家から、こいつをひとつよろしくという挨拶が伊奈家にあって、わかりましたそれじゃひとつ俳諧のほうでも、土木事業のほうでもなんとか身が立つように世話をしてあげましょうということになったのではないか、と言うのですね、はやい話。

ということで、この深川隠棲の直前まで芭蕉は、オシャレな都会の芸能人にして、ゼネコンでそれと知られたビジネスマンというような感じの人で、どっちかというと後年の清らかだけどビンボーなのよね、というわたしたちのイメージの芭蕉とはちと異なるような気がする。

ではご本人が、このあたりをどう語っているかを見てみましょう。

九年の春秋市中に住み侘びて居を深川のほとりに移す。「長安は古来名利の地空手にして金なきものは行路難し」と言ひけむ人の賢く覚えはべるはこの身の乏しきゆゑにや。

  柴の戸に茶を木の葉掻く嵐かな ばせを     

「柴の戸」より

くたびれたので、つづきは明日。

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2009/06/21

芭蕉ノート(1)

光田和伸さんの『芭蕉めざめる』から、覚えとして。

深川の最初の芭蕉庵は、幕府御用達の川魚問屋である弟子の杉風が提供したと思われております。川魚問屋と言うのはおそらく鯉や鮒などを江戸城や諸大名屋敷に納めていたのでしょうね、杉山杉風、本名鯉屋市兵衛の敷地内には、たとえば今朝方、荒川で捕ってきた大きな魚などを入れておくための池もあった。この池の番小屋が明いていたので杉風さん、「先生どうぞお使いください」と提供したのが第一次芭蕉庵である、とだいたいはそういう風にみなさん空想しているわけであります。わたし自身もそうである。さらに放恣なファンタジーに遊ぶ向きは、うん、そこにある日、蛙が飛び込んで、水の音がしたんだよね、なんて見てきたようなことを言う。(笑)

ところが、これはどうやら真っ赤なウソ、レッドへリングであるらしいよ。

芭蕉が小田原町より深川に隠棲したのは延宝八年(1680)冬。だからこの頃の芭蕉と書信のやりとりをしていた人の書付を見れば芭蕉庵の場所は特定できる。なにしろ、宛名を書いて飛脚に持たせれば芭蕉にその手紙が届いたのだからこれほどはっきりした証拠もないのでありますね。
さいわいそういう書付をちゃんと残していた人がおりました。
尾張国鳴海の下里寂照という造り酒屋の主人ですが、この人俳号を知足といいまして、蕉門の弟子として芭蕉と手紙のやりとりを何度もしておりました。それによると、芭蕉庵の場所は「深川元番所森田惣左衛門殿屋敷内」というところにあったことが確かめられる。

この元番所というのは、もちろん元々ここには番所がありましたよという意味ですが、どんな番所があったかというと、これは南の河口から隅田川を遡って府内に上ってくる船を改める船番所という幕府の役所があったのですね。いまで言えば水上警察署てなもんでしょうか。そして、江戸の古地図というのは各年代でわりとよくのこっていますので、この当時、すなわち芭蕉さんが三十七歳、延宝八年の古地図を引っ張り出してくれば、この元番所の持ち主が誰であるかはすぐにわかる。
延宝八年の江戸地図には深川元番所の場所には伊奈半十郎と書かれてあります。伊奈半十郎とは誰か。これは関東代官頭の伊奈家の当主が代々名乗る名前である。この当時の伊奈家の当主は四代目伊奈半十郎忠篤。(正確にはこの年九月に三代目忠常から家督をゆずりうけたばかり)

芭蕉さんはどうもこの伊奈関東代官頭の屋敷―ということは当時のことですから、私邸であると同時に、配下の家来の長屋もあるような広大な敷地を意味しますが―のなかの森田惣左衛門という武士の長屋か何かにいたことになります。つまり、芭蕉庵の実態は、風流な川魚問屋の番小屋などではなくて、もと治安警察の跡地に館を構える公儀の大物の敷地内の長屋住まいであったのだというのでありますね。

ではこの関東郡代伊奈家というのがいかなる一族であるかというのが問題になるが、これは河川土木の専門家であった。尭舜の故事をひくまでもなく、古来、河川の流れをコントロールすることは、国を治める根本であります。
戦国時代には治水や築城などの高度な大規模土木を専門分野とする武家集団が三つあった。ひとつは武田信玄の霞堤などの築堤技術。二つ目は熊本城などの加藤清正の築城技術。そして、もうひとつは、これは芭蕉とも縁の深い藤堂高虎の土木技術。伊奈代官家はこれよりあとの新興の土木関係の勢力であります。
ご承知のように家康も、関東平野の治水にはこころをくばりました。利根川の東遷、荒川の西遷というつけかえ工事により、関東平野の河の流路を定め、沼沢地を新田にかえて米の増産をはかり、また水の悪い市中に神田上水を引き入れて人口の増大をはかった。そのときに頼りにされたのがほかならぬ伊奈一族の長、伊奈忠治という腹心の部下であった。

この伊奈代官家は、家禄四千石と大名たちに比べればたいしたことないが、これには裏があって、伊奈家は河川工事で開発した新田で得られるようになった石高の一割を収入にできた。実質の実入りは三万石はくだらなかった。しかし、家禄はあくまで四千石であるから、出費はいたって少ない。大名ほどのインカムがありながら、大名のような威儀を維持する必要経費がない。ということは、ここに金がどんどんたまるわけであります。もちろんこういう仕組みは幕府の公認のものであります。こういう一種の裏金を自由に使えて、しかも神君家康公以来代々の腹心の家がどういう役割を担うかといえば、誰がどう考えても、答えはひとつしかない。公然と表立っては出来ないインテリジェンス専門の仕事であろうと、これはきまっている。
なお関東代官家は勘定奉行の支配であるから本来は幕閣からは遠いはずであるが、蛇の道はヘビであります。実は伊奈関東郡代は、幕府の文書、資料をつかさどる奥祐筆関係の職務を兼任する慣例で、この職分で老中とも勘定奉行の頭越しに面会ができのだそうな。ああ、こりゃやっぱりスパイの家だわ。

ということで、これから先の展開はもうおわかりになったであろう。そう芭蕉隠密説は正しかったというオハナシになるのでありますね。
ただし、これにはまだまだ面白い材料がたくさんありまして、芭蕉隠密説を固めていくので、この話、もう少し続けます。

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2009/06/16

The Wrestler

中学生のときキャメルクラッチをまともに受けて(プロレスごっこをしていたのですね)数日首がまったく動かなかったことがある。へたをするとおおごとだったかもしれないが、まあ、世の中おおらかであったな。いずれにしてもプロレスの技だけはホンモノだと体にしっかりと刻みつけたことであります。

映画「レスラー」は、三沢光晴の悲報とほとんど時を同じくして日本で公開された。偶然に過ぎないといえばそれまでだが、わたしが映画館に足を運んだのも気持ちのどこかに弔意を表すような思いがあったのかもしれない。観客もけっこう多かった。

Mick_r

この映画、ミッキー・ロークが演じるランディ〈ザ・ラム〉ロビンソンは、ひたすらリアルだ。リング上の試合も悪くないが、むしろ控え室の光景がいい。リング上で過去の怨恨や因縁を演じて見せるレスラー同士が、打ち解け合っている家族的なあたたかさはなんだかうらやましい。
しかし、わたしがこの映画でいちばん好きなシーンをあげるなら、それはプロレスとはまったく関係がない。ランディが自宅にしているトレーラー・ハウスのベッドに寝転んで、冴えない眼鏡をかけて、おぼつかない様子で、よれよれのペーパーバックを読んでいる光景だ。何を読んでいるのかは、わからない。読書が趣味というわけでもないだろう。いやむしろ、本を読むというのはもっとも意外なかれの姿だと思う。そこが面白い。不器用で無防備で孤独で、しかし人生を投げてしまったわけでもない中年男の等身大の姿がそこにあるように思う。

全盛期は満員のマジソン・スクウェア・ガーデンで「世紀の一戦」を戦ったこともある栄光のプロレスラー、ランディ・ザ・ラム。同業者やファンにとっては伝説の男だが、いまや地元ニュージャージーの小さな会場でどさ回りのプロレス興行では、たいしたギャラも稼げない。家賃が滞ると貧乏臭いトレーラーハウスからさえ大家に閉め出され、さびれたスーパーマーケットのアルバイトがむしろ生活費の支えだ。たまに立ち寄るストリップバーが唯一の気休め。痛み止め、ステロイド、抗生物質、クスリの大量摂取と試合でいためた体はもうぼろぼろだ。鼓膜をやられたのだろう、片方の耳には補聴器をつけ、ふだんは長髪(ハルク・ホーガンがひとつのモデルなのね)をお団子にして、着ているダウン・コートにはガムテープ、ひたすら80年代を懐かしむ・・・・

この映画、「ロッキー」のようなおとぎ話ではない。世の中、そんなに甘くない。だが、男というのは、こころのどこかに破滅への衝動を抱えている。燃え尽き、老いぼれ、負け犬と呼ばれる男に、むしろ聖なる光を見る。賢い生き方をしているよお前は、と言われると心やましく、ひたすら恥じ入る気持ちになる。しかし、もうとことんやってやろうじゃないかという気概はなくしてしまった。
これはそういう男たちのための映画だ。
泣ける。

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2009/06/13

落ちゆく男

911の報道写真でいまでも鮮やかに記憶に残っているのは、ひとりの男が頭からまっすぐに落ちていく姿だ。細部は思い出せないけれど、わたしの記憶では、それはよい身なりをした中年の黒人だった。服をきちんと着て、靴を履き、両腕を脇にぴたりとつけて、こころなし片膝を曲げた姿勢で、レンズにとらえられていた。不思議なのは、かれは失神している様子もないのに、恐怖で手を振り回したり、絶叫しているようには見えないことで、そこには運命を神にゆだねた人のような威厳があるように思えた。

テロ攻撃直後の新聞にはこの写真をふくめて、ワールド・トレード・センターから飛び出して地上に落ちてゆく人々を収めた写真が多く出回っていた。その後、遺族の心情をおもんぱかったり、普通の人々(とくに幼い子どもたち)に与える恐怖を考慮したのだろう、これらの写真は公表されないようになったはずである。

つぎつぎにノースタワーから人が落ちてくる。その数はいったいどれほどであったのか。メディアがさまざまな目撃証言や映像証拠から推定したところでは、少なくて80人、多いところでは数百人という結論だという。
数字があいまいなのは、ひとつには宗教的な理由もある。
もし、かれらが自ら身を投げたのなら、それは自殺と見なさざるを得ないという立場だってあるだろう。すると敬虔なカソリックの人々は、かれらの父親や母親や息子や娘を失っただけでなく、かれらの魂が未来永劫救われないことに耐えねばならないのだろうか、というわけだ。

身投げした人など、ひとりもおらん。すべて炎や煙に追われて、はじきだされた犠牲者だ、ばかもん、という専門家も少なからずいる。

ビデオ・クリップで捉えられた目撃者の音声にはこんなものもあった。
ああ、なんてこと!あんなところからジャンプしてる。ああ、神様、かれらの魂を救い給え。

地上の野次馬がムービー・カメラで落下する犠牲者を映しているのを、警官ががなりつけてやめさせようとする。
やめんか、きさまらには人間らしい思いやりの心はないのか!

この落ちていく男の写真を撮ったのは、リチャード・ドリューというAPのカメラマンだ。
その日、ブライアント・パークで妊婦のファンッション・ショーの取材なんて仕事をしていたかれの携帯にデスクからの一報が飛び込んだ。機材をかき集めて現場に向かったかれが撮ったなかの一枚がこの「落ちゆく男」だった。社にもどったリチャードは、デジカメのデータをノートパソコンに吸い上げてざっと目を走らせると、ほかの写真には目もくれず、この一枚だけを社のサーバーに移した。すぐに写真は、全国の新聞、全世界の新聞に転載され、人々の記憶に焼き付けられることになった。
しかし、この写真を大手の報道機関がもう一度使用することはない。歴史に残る911の記録写真かもしれないがいまなお封印されているのだ。デジカメのデータには、2001年9月11日午前9時41分15秒が記録されている。

この落ちて行く男は、鮮明に写っている。当然、この犠牲者の身元はすぐにわかっただろうと思うのだが、かならずしもそうではない。はじめはノースタワーの106階のレストラン[ウィンドウズ・オン・ザ・ワールド]のシェフであるノーベルト・フェルナンデスだろうと思われた。黒人ではなく、色の浅黒いラテン系の大柄な男。
身元の探索を行なったトロント・グローヴ・アンド・メールの記者ピーター・チェニィが、遺族のもとを訪ねると、家族はだれもあの写真はもうみたくないのと言った。あの人は身を投げたんじゃないわ、わたしたちのところへ帰るつもりだったはず、わたしにはわかるの。かれの娘は、そのクソ写真を見せないで、これはパパじゃない、と記者に吐きつけた。

その後、かれの着ていた衣類の特色から、トップ・フロアにあるレストランやカフェテリアの従業員であることは確からしく思われたが、あの男じゃないか、いや別の男だろうと4、5人の名前があがった。最終的には、黒人のジョナサン・ブライリーがよくドレス・シャツの下にオレンジ色のTシャツを着ていたことが決め手となって、ほぼこの犠牲者はジョナサンだろうということになったようだ。

この決定的瞬間を撮ったリチャードは叩き上げのジャーナリストだが、33年前、21歳のときにも重要な写真を撮っている。
1968年6月5日、ロサンジェルスのアンバサーダー・ホテル。公式の行事を終えてホテルを退出するさいに人目をさけて調理場を通り抜けようとしたロバート・ケネディが撃たれた。リチャードはボビーの右後ろにいた。飛び散った血でシャツが血まみれになったが、とっさに料理台の上に飛び乗り、大きく見開かれた上院議員の眼から生命の光が失われていくのを撮った。
エセル・ケネディは夫に覆いかぶさってカメラマンたちに叫んだ。とくにリチャードに懇願した。
やめて。この人を撮らないで。やめて、お願い—

リチャードはやめなかった。そのあとも、ずっと。

歴史に刻むべき事件の報道写真は、その家族にとっては耐え難いものだということが多いだろう。それでも、歴史の証拠としてこれらは必要だという立場もある。アウシュビッツやヒロシマ、ナガサキを考えてみればそのことはだれも否定できないだろう。
やがて、時がたてば、911のあの写真が再びわたしたちの目にふれるようになるのだろうか。

20090613 今回の話は、『The Best American Magazine Writing 2004』収録の「The Falling Man」という記事(TomJunod)に拠った。

この本、他にもたくさん印象に残る記事があったが、その代表として。
初出は2003年の『EAQIRE』。

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2009/06/03

短歌6月号

6月号の「短歌」(角川書店)から目にとまった歌。

葉桜よ平和の繁るトポスにて草薙剛をいじめて遊ぶ

マスクの人に囲まれながら歩き出す我は連行さるるならねど

六十五歳超えたるわれは老次として二万円の金子賜る       老次(おいなみ)

   佐佐木幸綱「月の鼠」より


黄あやめに静かな雨が降り出だし深泥池対岸灰緑となる

うつらうつらと千年ほどが過ぎたのよ風にそよぎし竹たちが言ふ

美しく歳を取りたいと言ふ人をアホかと思ひ寝るまへも思ふ

   河野裕子「母系」

なお河野裕子さんの「母系」は第43回迢空賞受賞作。(石川不二子さんと同時受賞)「短歌」で読んだのはその「抄」だが、どれもこころに沁みるいい歌だった。「アホかと思う」はいいなあ。そうだよねえ。(笑)

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2009/06/01

5月に読んだ本

『Limitations』Scott Turow(Picador/2006)
『中国という世界—人・風土・近代』竹内実(岩波新書/2009)
『躍動する中世 日本の歴史 5』五味文彦(小学館 /2008)
『謎解き 広重「江戸百」』原信田実(集英社新書/2007)
『ポスト戦後社会—シリーズ日本近現代史〈9〉』吉見俊哉(岩波新書/2009)
『俳句と雑文A』瀬戸正洋(邑書林/2009)
『宇宙論入門—誕生から未来へ』佐藤勝彦(岩波新書/2008)
『ティファニーで朝食を』トルーマン・カポーティ/村上春樹訳(新潮社/2008)
『京・鎌倉 ふたつの王権 日本の歴史 6』本郷恵子(小学館 /2008)
『黙読の山』荒川洋治(みすず書房/2007)
『The White Tiger』Aravind Adiga(Atlantic Books/2009)
『新古今和歌集の研究・續篇』小島吉雄(新日本圖書/1946)
『セレクション俳人14中田剛集』(邑書林/2003)

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5月に見た映画

奇跡のシンフォニー August Rush
監督:カーステン・シェリダン
出演:フレディ・ハイモア、ケリー・ラッセル、 ジョナサン・リース=マイヤーズ、テレンス・ハワード、ロビン・ウィリアムズ

モンテーニュ通りのカフェ
FAUTEUILS D'ORCHESTRE
監督:ダニエル・トンプソン
出演:セシル・ドゥ・フランス、ヴァレリー・ルメルシェ、アルベール・デュポンテル、クロード・ブラッスール、クリ
ストファー・トンプソン、シドニー・ポラック

プライスレス 素敵な恋の見つけ方
HORS DE PRIX/PRICELESS
監督:ピエール・サルヴァドーリ
出演:オドレイ・トトゥ、ガド・エルマレ、マリー=クリスティーヌ・アダム

インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国
監督:スティーブン・スピルバーグ
出演:ハリソン・フォード、シャイア・ラブーフ、ケイト・ブランシェット、カレン・アレン

ウォンテッド
監督:ティムール・ベクマンベトフ
出演:ジェームズ・マカヴォイ、アンジェリーナ・ジョリー、モーガン・フリーマン

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