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2009/06/23

芭蕉ノート(3)

江戸の街なかに住み疲れて、住所を深川村の川べりに移します。権力も財産もない者は生きていくのが難しいといいますが、なるほどそう言った昔の人はもっともだと感じるのは、私の身に才能が乏しいからでしょか。

と光田和伸さんは「柴の戸」のこの箇所を現代文に直しておられる。そしてこの文章に対して「何か大きな運命に押されて」いるような印象をうけると書かれておりますね。
わたしが思うに、もともと権力にも財産にも縁のない者は、こんないじけたものの言い方はしない。権力や財産を人生の目標にし、もう少しでこれに手が届くと思っていた人間が、不幸にも挫折してしまったときに、往々にしてこういうものの言い方をするのであります。
芭蕉さんどうしちゃったんでしょうね、てな感じですが、ここで光田さんが注目したのが、この延宝八年(1680)五月に四代将軍家綱が亡くなって、同年八月に綱吉が五代将軍宣下となる一連の政変である。

家綱という人は生まれつき虚弱体質だったとか、あんまり聡明でなかったとか言われていますが、それはそれとして問題はお世継ぎがなかったことである。この家綱は家光の長男で将軍になったのはわずか十一歳だったんですが、さいわいこのころにはまだ叔父の保科正之や家光時代からの重臣たちがよく政務を補佐した—というか、まあ、任せっきりで問題なかった。ところが、これらの「寛永の遺老」と呼ばれた酒井忠勝、松平信綱、阿部忠秋などという人たちが世を去って、四十歳の家綱が危篤となったころに、残っていたのは大老の酒井雅楽頭忠清(うたのかみ・ただきよ)のみとなっておりました。

この酒井雅楽頭は別名「下馬将軍」。江戸城登城の際の下馬札の前の広大な角地に居を構えて、将軍様より実権はこちらにあったという江戸庶民の皮肉でもある。

さて、家綱危篤となったときに、この最高実力者がどうしたかというと、いや、驚きますね、なんと鎌倉の先例(実朝のあとの宮将軍ですな)にならい、京から将軍をお迎えしようとしたというのであります。将軍家をお飾りにして執権体制で行こうぜ、ということでありましょうか。なにしろ、民主党の小沢サンの一声みたいなもんですから、大勢はこれできまりと思われた。
ところが、ここに奇怪なことがあって、家綱が最期の息を引き取るその夜、老中末席の保田正俊という大名が、上州館林二十五万石の松平綱吉(家綱の弟)を家綱に密かに面会させ、綱吉を末期養子にして家綱から綱吉へ将軍の指名が行われたと言い張った。なにしろほかに証人はいない、綱吉が、わしはたしかに本人から「あとはお前にたのむ」と遺言を受けたのだ言い、堀田がいかにも左様でござった、この耳でしかと聞きましたと言い張ればこれは仕方がない。堀田の大逆転サヨナラ・ホームランみたいな手柄でありますね。雅楽頭のほうは詰めが甘かった。男の器量はこういうときに現れるのですなあ、御同輩。(笑)

当然、綱吉は酒井雅楽頭を許しませんよね、これは。ただちに下馬札場所の一等地から追い出し、その後には将軍宣下の最大功労者、堀田正俊を入れました。
憤懣やるかたない酒井雅楽頭は、それから一年もしないうちに死にますが、さてこれが自然死なのか、あてつけの切腹なのかは誰でもとうぜん頭にうかぶ。もし切腹であれば、公儀への歴然たる反抗ですから、これは確実に酒井家お取り潰しであります。綱吉は、墓を暴いて調べろとまで言いつのったとか。
そして、話が例によって長くなったが、ここに登場するのが芭蕉の後見でもあるところの藤堂家である。じつは酒井雅楽頭忠清の女婿が藤堂家の三代当主の藤堂高久であった。いやこれは病死で間違いござらんと使者の検分を見事にはねのけてみせた。これまた男である。

しかし、これによって藤堂家もまた酒井家とともに政権中枢からは目をつけられて逆風にさらされます。この政変が、芭蕉にも及んだんだ、というのが光田さんの考え。

前回、書いたように、藤堂家からひとつよろしくという挨拶を受けて、伊奈家は杉風や其角を弟子に紹介したり、神田上水工事をまわしてやったりしていたのですが、藤堂家に便宜をはかるのは危険となりましたので、ここで伊奈家は芭蕉の支援を打ち切らざるを得なくなっただろうというのですね。
しかし、このときには芭蕉には、寿貞という妻もおり子供もできていた。
困窮した芭蕉に、伊奈関東郡代の手の者が申し出たのが、陸軍中野学校ならぬ隠密養成所の講師ではなかったかと、これはやや空想がふくらみすぎるきらいはあるが、そういうストーリーであります。

隠密として旅して回り、諸国に根付いた情報源から最新の各国の動向を聞き取るという役目の人々の隠れ蓑としては、薬売り、商人、絵師、などいろいろな職業があるが、かれらが俳諧をたしなむ人々ならば一夜集まって俳諧興行などいたすのは、表向きにも十分に名目がたつ。しかし、それが単なるカムフラージュで、俳諧にはまったく不案内では諸藩の治安を担当する役人につけ込まれ、摘発をうけることであろう。だから、かれらはいちおうそれなりの俳諧の素養を持っていなければならなかったはずだ。
生活に困窮した、芭蕉先生などこういうスパイ養成学校の俳諧コースの専任講師にうってつけ。さらに、場合によっては、上級の幕府隠密を随行させたかたちで旅をしてもらおうじゃないの、というのがお上が芭蕉に提示した条件ではなかったか。
かくして、芭蕉は、文芸上芸術史上の評価は別として、当時の権力機構のなかで隠密の一員として扱われた可能性は十分にあるかも知れませんな、たしかに。

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コメント

なるほど、酒井失脚は芭蕉の人生まで変えてしまいましたか!面白いですねえ。
藤堂家はそもそも初代の高虎以来、講釈でも有名な世渡り上手で、浅井、織田、豊臣、徳川と主人を変えて生き延びてきた家(尤も戦国乱世には当然のことではありますが)。改易旋風は一段落したとはいえ酒井失脚に連座する可能性もあって、この時もヒヤヒヤものだったでしょうね。芭蕉の面倒まで見切れなかったのでしょう。
ついでながら、酒井忠清が有栖川宮を將軍に迎えようとしたのは、当時の幕閣が一致して綱吉を忌避ていたからという説があります。かたや家綱の側室の一人が懐妊していたので、もし男子が生まれたらゆくゆくは将軍を嗣がせたい。綱吉の次兄で人望の高かった綱重の遺児綱豊(後の家宣)も既に成人している。そこで一時京都からリリーフを呼び、将来は家綱の子か綱豊に嗣がせ、宮さんには京都に帰ってもらうという筋書き。確かに綱吉では、一旦將軍にしてしまったら後から都合で「お辞め下さい」とは言えませんものね。(この辺りは三田村鳶魚が書いていますが、鳶魚自身がそれから200年も後の人ですから、古い噂話を書き残しているに過ぎませんが)
しかしそれほど嫌われていた綱吉なら、將軍になったら憎い反対派を一掃したのも分かります。
家綱が子をなさずに死んだことが『奥の細道』を生んだというわけですね。

投稿: 我善坊 | 2009/06/23 23:00

ああ、なるほど綱吉を将軍にしないための緊急避難ですか。そのほうが執権北条氏に酒井雅楽頭をなぞらえるより腑におちますね。
この酒井氏はのちに前橋藩から姫路藩へ移って幕末に至るわけですが、姫路に移って二代目となる藩主の忠以(ただざね)は有名な茶人ですし、その弟の忠因(ただなお)は言うまでもなく酒井抱一そのひとですので、なんとなく親しみが持てるんですよね。
酒井抱一は小品は見たことがあるんですが、京都国立あたりで大規模な展覧会をやってくれないかしら。

投稿: かわうそ亭 | 2009/06/24 09:38

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