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2009/06/21

芭蕉ノート(1)

光田和伸さんの『芭蕉めざめる』から、覚えとして。

深川の最初の芭蕉庵は、幕府御用達の川魚問屋である弟子の杉風が提供したと思われております。川魚問屋と言うのはおそらく鯉や鮒などを江戸城や諸大名屋敷に納めていたのでしょうね、杉山杉風、本名鯉屋市兵衛の敷地内には、たとえば今朝方、荒川で捕ってきた大きな魚などを入れておくための池もあった。この池の番小屋が明いていたので杉風さん、「先生どうぞお使いください」と提供したのが第一次芭蕉庵である、とだいたいはそういう風にみなさん空想しているわけであります。わたし自身もそうである。さらに放恣なファンタジーに遊ぶ向きは、うん、そこにある日、蛙が飛び込んで、水の音がしたんだよね、なんて見てきたようなことを言う。(笑)

ところが、これはどうやら真っ赤なウソ、レッドへリングであるらしいよ。

芭蕉が小田原町より深川に隠棲したのは延宝八年(1680)冬。だからこの頃の芭蕉と書信のやりとりをしていた人の書付を見れば芭蕉庵の場所は特定できる。なにしろ、宛名を書いて飛脚に持たせれば芭蕉にその手紙が届いたのだからこれほどはっきりした証拠もないのでありますね。
さいわいそういう書付をちゃんと残していた人がおりました。
尾張国鳴海の下里寂照という造り酒屋の主人ですが、この人俳号を知足といいまして、蕉門の弟子として芭蕉と手紙のやりとりを何度もしておりました。それによると、芭蕉庵の場所は「深川元番所森田惣左衛門殿屋敷内」というところにあったことが確かめられる。

この元番所というのは、もちろん元々ここには番所がありましたよという意味ですが、どんな番所があったかというと、これは南の河口から隅田川を遡って府内に上ってくる船を改める船番所という幕府の役所があったのですね。いまで言えば水上警察署てなもんでしょうか。そして、江戸の古地図というのは各年代でわりとよくのこっていますので、この当時、すなわち芭蕉さんが三十七歳、延宝八年の古地図を引っ張り出してくれば、この元番所の持ち主が誰であるかはすぐにわかる。
延宝八年の江戸地図には深川元番所の場所には伊奈半十郎と書かれてあります。伊奈半十郎とは誰か。これは関東代官頭の伊奈家の当主が代々名乗る名前である。この当時の伊奈家の当主は四代目伊奈半十郎忠篤。(正確にはこの年九月に三代目忠常から家督をゆずりうけたばかり)

芭蕉さんはどうもこの伊奈関東代官頭の屋敷―ということは当時のことですから、私邸であると同時に、配下の家来の長屋もあるような広大な敷地を意味しますが―のなかの森田惣左衛門という武士の長屋か何かにいたことになります。つまり、芭蕉庵の実態は、風流な川魚問屋の番小屋などではなくて、もと治安警察の跡地に館を構える公儀の大物の敷地内の長屋住まいであったのだというのでありますね。

ではこの関東郡代伊奈家というのがいかなる一族であるかというのが問題になるが、これは河川土木の専門家であった。尭舜の故事をひくまでもなく、古来、河川の流れをコントロールすることは、国を治める根本であります。
戦国時代には治水や築城などの高度な大規模土木を専門分野とする武家集団が三つあった。ひとつは武田信玄の霞堤などの築堤技術。二つ目は熊本城などの加藤清正の築城技術。そして、もうひとつは、これは芭蕉とも縁の深い藤堂高虎の土木技術。伊奈代官家はこれよりあとの新興の土木関係の勢力であります。
ご承知のように家康も、関東平野の治水にはこころをくばりました。利根川の東遷、荒川の西遷というつけかえ工事により、関東平野の河の流路を定め、沼沢地を新田にかえて米の増産をはかり、また水の悪い市中に神田上水を引き入れて人口の増大をはかった。そのときに頼りにされたのがほかならぬ伊奈一族の長、伊奈忠治という腹心の部下であった。

この伊奈代官家は、家禄四千石と大名たちに比べればたいしたことないが、これには裏があって、伊奈家は河川工事で開発した新田で得られるようになった石高の一割を収入にできた。実質の実入りは三万石はくだらなかった。しかし、家禄はあくまで四千石であるから、出費はいたって少ない。大名ほどのインカムがありながら、大名のような威儀を維持する必要経費がない。ということは、ここに金がどんどんたまるわけであります。もちろんこういう仕組みは幕府の公認のものであります。こういう一種の裏金を自由に使えて、しかも神君家康公以来代々の腹心の家がどういう役割を担うかといえば、誰がどう考えても、答えはひとつしかない。公然と表立っては出来ないインテリジェンス専門の仕事であろうと、これはきまっている。
なお関東代官家は勘定奉行の支配であるから本来は幕閣からは遠いはずであるが、蛇の道はヘビであります。実は伊奈関東郡代は、幕府の文書、資料をつかさどる奥祐筆関係の職務を兼任する慣例で、この職分で老中とも勘定奉行の頭越しに面会ができのだそうな。ああ、こりゃやっぱりスパイの家だわ。

ということで、これから先の展開はもうおわかりになったであろう。そう芭蕉隠密説は正しかったというオハナシになるのでありますね。
ただし、これにはまだまだ面白い材料がたくさんありまして、芭蕉隠密説を固めていくので、この話、もう少し続けます。

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コメント

だからこの頃の芭蕉と書信のやりとりをしていた人の書付を見れば芭蕉庵の場所は特定できる。なにしろ、宛名を書いて飛脚に持たせれば芭蕉にその手紙が届いたのだからこれほどはっきりした証拠もないのでありますね。

という箇所、続きに興味深深です。
確かに、そういうことになりますね。

投稿: 岩淵喜代子 | 2009/06/22 01:14

芭蕉スパイ節があることは知っていましたが、さあ、どのような展開になるのでしょう。ちょっと楽しみです。

投稿: 水夫清 | 2009/06/22 16:06

岩淵喜代子さん
水夫清さん

どうもです。芭蕉隠密説というのは、以前からあるオハナシで、それだけとってみれば、別に目新しくもなんともないのですが、この本のよさは、たぶんいろいろな史料や史実などへの目の配り方がさすがに素人とは雲泥の差がありますから、思わぬ発見がつぎつぎに読者に訪れることにあるようです。あんまり内容を書いちゃいけないことに気がつきましたが、ま、個人的なノートをとっているということでご勘弁いただきましょう。(笑)

投稿: かわうそ亭 | 2009/06/22 22:56

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