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2009/06/22

芭蕉ノート(2)

ひきつづき『芭蕉めざめる』光田和伸(青草書房)から覚えとして。
ただし、あんまり中味を紹介しすぎて営業妨害になってはいけない。(笑)今回は、もうちょっとだけよ、にしておきます。なにしろ面白いので、ぜひ先生の本のほうをお読みくださいませ。

さて芭蕉が深川に「隠棲」したのは、前回書いたように延宝八年(1680)のことですが、江戸で俳諧宗匠として立机もし、それなりに名前も売れ出した男が、なぜまた急に市中を捨てたのかについて、以前からさまざまな説がありました。
俳諧宗匠などという、金と欲の浅ましい世界に絶望した芭蕉の、芸術上、思想上の選択だった、というのがいちばんお行儀のよい説ですが、近年は甥の桃印と妻の寿貞が不義密通をして、これを糊塗するための苦渋の選択だったなんて説も出て来ておりますね。たしか嵐山光三郎の『悪党芭蕉』がこの田中善信の新説を取り込んでいたかと記憶する。

じつはよく知られているように、この深川隠棲の三年程前から芭蕉は、俳諧の世界のシティ派宗匠と同時に、神田上水改修工事の監督をつとめております。このあたり、長々書くと先に進まないので端折って言えば、芭蕉というのは伊賀上野の藤堂新七郎家という名門の係累で、前回書いたように、この一門は藤堂高虎の流れを汲む土木屋さんですから、新興土木集団である伊奈家に対しても割とコネが利く。芭蕉が江戸に下ったとたんに幕府御用達の富裕な商人である杉風だとか、幕閣の一角をしめる本多家の御用医師の息子の其角を弟子にとることができたのも、そういうコネがバックにあったというのであります。
つまり、藤堂家から、こいつをひとつよろしくという挨拶が伊奈家にあって、わかりましたそれじゃひとつ俳諧のほうでも、土木事業のほうでもなんとか身が立つように世話をしてあげましょうということになったのではないか、と言うのですね、はやい話。

ということで、この深川隠棲の直前まで芭蕉は、オシャレな都会の芸能人にして、ゼネコンでそれと知られたビジネスマンというような感じの人で、どっちかというと後年の清らかだけどビンボーなのよね、というわたしたちのイメージの芭蕉とはちと異なるような気がする。

ではご本人が、このあたりをどう語っているかを見てみましょう。

九年の春秋市中に住み侘びて居を深川のほとりに移す。「長安は古来名利の地空手にして金なきものは行路難し」と言ひけむ人の賢く覚えはべるはこの身の乏しきゆゑにや。

  柴の戸に茶を木の葉掻く嵐かな ばせを     

「柴の戸」より

くたびれたので、つづきは明日。

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