エラスムス号のこと(上)
数世紀にわたってキリスト教的、ヨーロッパ的世界は、カトリック教徒対プロテスタント、北欧対南欧、ゲルマン民族対ラテン民族に分割される。この瞬間にあたってドイツの、また西欧の人間に与えられているのは、ただ一つの選択,ただ一つの決断、すなわち教皇派となるかルター派となるか、鍵の力(教皇の権能)か福音かなのである。だがエラスムスは—この点が記憶に値する彼の行為なのだ—時代の指導者たちのなかでただ一人、党派にくみすることを拒否する。
彼はローマ教会の側にもつかなければ、宗教改革の側にもつかない。なぜなら、彼は両方に結びついている。福音派の教義に結びつくのは、彼がそれをまっ先に、確信に基づいて要求し促進したからであり、カトリック教会に結びつくのは、彼がそのなかに、転覆する一つの世界の最後の精神的統一形式を擁護したからである。だが右にも過激、左にも過激があり、右にも狂信、左にも狂信がある以上、彼は不屈不変の反狂信的人間として、いずれの過激にも仕えようとはせず、ひたすら彼の永遠の節度である公正だけに仕えようとする。むだとは知りながら、彼は汎人間的なもの、共通の文化財をこの不和から救うために、仲介者としてその中間に、したがって最も危険な場所に身を置くのである。
ツヴァイク『エラスムスの勝利と悲劇』
1598年に建造されたその船ははじめエラスムス号と命名された。
同年6月ロッテルダムを出航した五隻のオランダ艦隊の副旗艦に編入されたときにリーフデ号と改められた。リーフデ(Liefde)とは「愛」という意味である。旗艦がホープ(希望)、第三艦がヘローフ(信仰)、第四艦がトラウ(忠誠)、第五艦がフライデ・ボートスハップ(良い予兆)というようにこの艦隊の命名方式にしたがったのかもしれない。
あるいは死後すでに60年になっていたが、エラスムス号などという艦名のままでは剣呑だということであったのか。スペインの無敵艦隊はすでに1588年にアルマダの海戦で海賊上がりのイギリス海軍に大敗し、制海権は失っていたとはいえ、新教国のオランダ艦隊は絶好の標的であっただろうと思われる。
艦隊の任務は大西洋をわたり、マゼラン海峡を経て、極東へ赴くというものであった。
だが航海は辛酸をきわめた。
東インド諸島で第四艦と第五艦はスペイン、ポルトガルに拿捕され、第三艦は艦隊からはぐてれ途中でオランダ本国へ引き返した。(無事ロッテルダムに帰還した唯一の船となった)
旗艦ホープ号とリーフデ号の二隻はマゼラン海峡を抜けて太平洋に入ったが、このあたりは猛烈な時化が続く海域である。悪天候に翻弄され、ホープ号は転覆、最後に残ったリーフデ号のみが航海を続けたが、110人いた船員も悪天候による事故死や水と食料補給で寄港した南アメリカで原住民に殺されたり、赤痢、壊血病などの病死が続き、生き残っていたのは24人に過ぎなかったというから、航海というより実質的には太平洋を漂流していたような塩梅であったかも知れぬ。
1600年3月に、豊後国臼杵に漂着した。日本の年号では慶長五年、10月には関ヶ原の戦いがおこなわれることになる。
よく知られていることだか、このリーフデ号の乗組員のウィリアム・アダムス(この人は英国人)とヤン・ヨーステンは、当時豊臣家の五大老首座であった家康と大坂城の西丸で謁見し、のちにその外交顧問になる。前者が三浦按針と名をかえ、いまでも日本橋には按針通りという名前が残っているはず。後者は、もっと身近な名前の八重洲としてその屋敷跡の名前が伝わる。
さて、このリーフデ号、九州は豊後(いまの大分県)に漂着後、大坂に回航され、それから浦賀に回航されたというこだが、おそらくその間に沈没してしまったらしい。だが、船に装備されていた二十門ともいわれる大砲は取り外されて家康に没収されていた可能性が高い。関ヶ原にこれが使用されたという説もあるようだが実際のところは不明。
ほかにも、積載の貨物や艤装なども多く奪われていたことは疑いないだろう。
リーフデ号、建造時はエラスムス号だが、この船尾に飾られていたエラスムスの立像がいまに伝わることはたしか司馬遼太郎も書いていたかと記憶する。
しかし、わたしはこのエラスムス像がどのように伝わってきたかということは知らなかった。—というあたりを次回に続けて書いておきます。
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