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2009年9月

2009/09/30

読めない日本語

Yosinokuzu_3 インターネットがあれば、たいていのことはわかるようになって便利な時代である。
出先であっても電子辞書ひとつで国語辞典も古語辞典も漢和も英和も和英もほぼ間に合う。なにしろアレには歳時記だってついているのだからまいるね。
ところが今日のこと、あらためてこれは紙ベースの辞典類じゃないとわからないかもしれないなあと痛感した調べものが出て来た。

大谷崎の『吉野葛』を読もうと図書館で借り出した本が昭和14年の創元選書版だったのはいいのだが、作中の手紙文のくずし字(でいいのかな)が読めない。(泣)まあ、そんなに細かいことは気にしなくてもいいのだろうが、こういうのはちょっとひかかると先に進めないのですね。
ちょっとまえに古本屋で古文書の用例、くずし字の読み方などをまとめた本があって、買おうかどうか迷ったのだが、結局、買わずにいたのが悔やまれる。
喉元まで出かかっているのだが、読み方がわからない。ほんの70年ばかりむかしの本読みには苦もなく読めた(だから谷崎もこれを文中につかう)日本語が、わたしにはもう読めない。お恥ずかしいことであります。
ああ、こういうときに年寄りがいてくれたら—って、よく考えたら、そろそろオレがその年寄りじゃん、いよいよ日本語あやうしでありますよ。(笑)

写真の箇所を引用しておこう。伏字の○がA、●がBである。文脈から考えると●は「候」じゃないかと思う。○のほうは「度く」であろうと推理。違っておりましたら、教育的指導のほどよろしく願い上げ奉り候。

此度其身の孝心をかんしん致●ゆへ文して申遺し○左●へば日にまし寒さに向い●共いよいよかわらせなく相くらされ此かたも安心いたし居●とゝさんと申すかゝさんと申・・・・

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2009/09/24

俵万智のいつも恋

俵万智の短歌はむかしから好きで、新しい歌集が出ればかならず目を通して来たし、月刊の短歌雑誌をぱらぱらと拾い読みするときも、彼女の作品を見つけたら手をとめてゆっくり読み始めることが多い。ああ、うまいよなあ、といつも思うのだ。
もっとも、短歌は好きだが、作者のほうは、わざわざややこしい生き方を選んで、それを売り物にしているように見える(実際はもちろん違うのでしょうが)ところがあまり好きになれない。そういう生き方をしても似合うような人と、そういうタイプじゃない人が世の中にはいて、この人はどうみても、外見的にはそういうタイプの人ではないと思うので、なんだかイタいのでありますね。すみません。

デビュー以来の歌をまとめた自選歌集『会うまでの時間』と、息子の誕生と子育てをテーマにした『プーさんの鼻』が出たのが2005年の10月。とくにプーさん以後は、微笑ましい子育て短歌を雑誌などで読ませてもらって、まあそういう境地も悪くはないかと愛読者としては思って来た。
この間の作品としては、たまたまノートに書き写したものがあったので、ここにまとめておく。
まず「短歌研究」の2007年6月号から抜いたもの。題名は不明。

ボタンはめようとする子を見守ればういあういあと動く我が口

「オレはジャイアン、オレはジャイアン」と歌えどもどこから見てもおまえはのび太

子どもだましにだまされるのが子どもにてタコさんウィンナーうさぎのリンゴ

子の声で神の言葉を聞く夕べ「すべてのことに感謝しなさい」

トランポリンがそんなに好きかいつまでもとらんぽりんと五月を弾む

つぎは2008年の1月頃のノートから。やはり短歌誌から抜いたものだろうと思う。これはいったい誰かなあ、と想像し、歌壇に多少の知己のあるらしき人から、じつは○○らしいよ、と言われ、へえ、じゃあ、この子が大きくなってまた歌人になったらすごいね、なんて話したが、これはどうもガセらしくも思われる。まあ、そんなことはどうでもいいことだが。

静かなる時満ちて幼児洗礼の儀式はつづく朝の光に

この子の洗礼望みし人は今病床にあり、秋は青空

最後は、ただ一首のみをノートに書き写している。ほかはあんまり気に入らなかったのか。2008年の7月頃の筆記である。

我が腕に溺れるようにもがきおり寝かすとは子を沈めることか

昨日、ちとカフェで時間をつぶすことになり、手元に読むものがなかったので、本屋で「歌壇」(本阿弥書店)の10月号を買った。
「レインシャワー」という題で俵万智が20首発表していた。
読んで驚いた、ありゃありゃママいったいどうしたの、というような大胆な恋の歌であります。

それは五月、三宿の小さなフレンチの窓際の席予約するなり

約束の時間に向かって秒針が前のめりなる円を描くよ

金曜の世田谷通り紫のプラダの靴が似合う君なり

つま先にコバルトブルーのペディキュアを隠して夏の到来を待つ

雨垂れを模したるシャワーの水やさし君を遠くに連れてゆきたし

ミルク色のシルクのシャツを着ておれば「ヨゴシテミタイ」と動く唇

面痩せて眠る横顔 泥つきの茗荷のような男と思う

遊園地 どこにも行けぬ乗り物を乗り継いでゆく秋の一日

Rainshoer 題名の「レインシャワー」はたぶん五首めの「雨垂れを模したるシャワー」ですが、最新のシティホテルなどで使われているちょっとした贅沢なやつですか。なんだか、一気にバブルの頃のいけいけカムバックみたいな短歌だなあ。
作品と作者の実生活を混同するアホな読者がいると嗤われそうですが、それにしてもこの間のシングル・ママと坊やのやや翳りのあるほのぼの短歌にひそかな応援を送っていたお父さんとしては、ちと複雑な心境なのよね、ホント。(笑)

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2009/09/22

有明の主水(下)

「木枯の巻」の発句、脇、第三は、なんといっても初回の芭蕉と尾張俳壇の連衆の顔合わせであるから、それぞれの句は、詩としての情景や感興を打ち出すとともに、やはり裏に挨拶を含んでいると見るのがいいと思う。

狂句 こがらしの身は竹斎に似たる哉
発句は芭蕉。冬の当季。こがらしに追われやってきたわたしは竹斎物語の主人公のような諸国をさすらい歩く風狂者でございます。よくぞまあこんなわたしを、みなさんあたたかくお迎え下さいました。

たそやとばしるかさの山茶花
脇はこの歌仙興行を行った家の主人である野水がつとめた。岡田野水は尾張の呉服商、このとき二十七歳。季は冬。笠にサザンカを飛び散らせておられるお方は、いったいどなたでしょう。それだけでもその方がゆかしく思われてなりません。ようこそお越し下さいました。

有明の主水に酒屋つくらせて
第三を名古屋連衆のなかでは年長者である医者の山本荷兮が代表してつとめる。このとき三十七歳くらいでしょうか。挨拶はここまでである。大胆に月の座をここに引き上げて秋に転じた。あの有明の主水に、こともあろうに酒屋をつくらせるようなことでお恥ずかしい限りですが、今宵はどうぞよろしくご指導をお願い致します。

というような挨拶の流れがあると考えるとわりとすっきりするような気がしますがどうでしょうか。
さて、となると、問題はやはり第三の有明の主水が誰であるかということですね。安東次男がとっている幕府の京御大工頭家である中井家(代々主水名)というのも、この文脈では悪くない。江戸の大宗匠にわが一座の歌仙興行の捌きをお願いするなぞ、一流の大工頭に酒屋をつくらせるようなものでございますね、と笑いをさそっているわけであります。
しかし、それならもっといい人物がいるんじゃないか、という「発見」をしました、というのがじつは今回のお話。(もっともわたしが知らないだけで、たぶんすでにこの説も論文などで発表されているに違いないとは思いますけどね)

きっかけは久野治さんという方の『千利休より古田織部へ』(鳥影社)という本でした。著者は多治見市にお住まいの古田織部研究家。ただし古俳諧についての言及はこの本にはまったくありませんで、村田珠光、北向道陳、武野紹鴎から千利休へ、そして利休からいわゆる利休七哲とよばれる人々への流れをたどり、かれらを翻弄する歴史のエピソードを茶の湯の世界と道具類を交えて語ったような内容であります。
そして、このなかに主水をみつけたときにわたしは、「あっ、これだ」と思いましたね。

その主水は、名を上田宗箇という。
永禄6年(1563)に丹羽長秀家臣の上田重光の長男として尾張国星崎(現在の名古屋市南区星崎町)に生まれた。父が十歳のときに亡くなったので、禅寺に入ったが、長秀のもとで武芸にはげみ、本能寺の変の武功で一躍名をあげた。長秀没後は秀吉に仕え、二十八歳のときに秀吉の媒酌で北政所の従妹を娶った。このころより利休に茶の湯をまなび、文禄2年(1593)に明の特使沈惟敬を九州の名護屋城に迎えときは、利休自刃(1591)のあとの茶頭である古田織部とともに接待役をつとめた。
その後、上田宗箇は従五位下主水正(もんどのかみ)に叙せられますが、秀吉亡き後の関ヶ原の合戦で、かつての旧主である丹羽家が豊臣方についていたため、西軍の側で戦い戦後は領地を取り上げられてしまいます。
しかし、利休の門弟という高名な茶人であり、また作庭についての名人でもあることから、徳島藩主蜂須賀家政に召されたり、紀州和歌山城主浅野幸長に迎えられたりし、それぞれそこでいまに伝わる名園をつくっているが、最後は浅野家が加増をうけて安芸に移ったので、その地で慶安3年(1650)に没しています。広島には、いまでも上田宗箇流の家元がおられるとのこと。
なお、宗箇はかつては秀吉に仕えたほどの武芸の誉れ高い武将であり、また茶人としても知らぬ者はいないほどの本格派である。幕閣にも知人は多い。その処遇には藩主も手を焼いたと思われます。出仕に応じなかったり、剃髪したり、また還俗したりと、なかなか一筋縄ではいかない武辺者であった様子。なお、宗箇は名古屋城の二の丸、三の丸の庭園の設計を浅野家に命じられて行っていますが、このときは還俗して上田主水と称していたと思われます。

ということで、「木枯の巻」興行の貞享元年(1684)は上田主水こと宗箇が没してからまだ三十数年、名古屋の生まれで、しかも名古屋城の庭園までつくっているような一流の茶人である。これほどの茶人に、どうかひとつわたくしどもの酒屋をつくってはいただけないか、ともちかけているような塩梅のお粗末な一座でございます、と荷兮が言っているとするとこれはまた品のあるおかしみがよく利くのではあるまいか。

また有明ということばですが、かならずしも上田宗箇にちなんだ言葉ではないかもしれませんが、いかにも茶道具にありそうな名前でありますよね。たとえば、お茶をなさる方はよくご存知のことだと思いますが、秀吉から細川三斎、家康、津田秀政へとつたわり、さまざまな挿話を有する(維新後は益田鈍翁が偶然に入手したことでも有名)茶壺は安国寺肩衝という大名ものですが、最初の名前は有明でした。
だから荷兮はこの有明にもちろん季としての有明の月をかかげながら、茶の湯の象徴としてここでつかっているのではないかと思います。
いうまでもなく、芭蕉も茶の湯に無関心ではなかった。たとえば、上田宗箇と同じく古田織部ともかかわりの深かった小堀遠州の妻は、芭蕉とも縁の深い藤堂高虎の養女であります。
そして、たぶん、芭蕉と茶の湯といえば、多くの方が、「ああ、あれが」と思い出されるはず。
さよう、「笈の小文」ですね。

西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於ける、利休が茶における其の貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。思ふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化に帰れとなり。

というわけで、この有明の主水は、大工頭なんて人を頭に描いては駄目ですね。ここはまず大茶人の主水さんということで、みごとにジグソーパズルがはまるような気がしますが、いかがでしょうか。

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2009/09/21

有明の主水(上)

笠は長途の雨にほころび、帋衣(かみこ)はとまりとまりのあらしにもめたり。侘つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂哥の才士、此國にたどりし事を、不圖おもひ出て申侍る   

狂句 こがらしの身は竹斎に似たる哉  芭蕉  

たそやとばしるかさの山茶花       野水

有明の主水に酒屋つくらせて       荷兮

芭蕉七部集のひとつ「冬の日」は貞享元年(1684)『野ざらし紀行』の旅の途中で尾張の俳諧連衆と巻いた歌仙五巻。その最初の興行、すなわち芭蕉と名古屋俳人とがその力量をさぐりあい、やがて互いを信頼して詩興の丁々発止たる交歓にいたるみごとな歌仙が「木枯の巻」であります。これによって芭蕉は名古屋での地歩を固めたにとどまらず談林調を完全に捨てて蕉風の確立をすることができた。
山本健吉は次のように書いている。

「木枯」の歌仙は、芭蕉にとっても、正風の歴史に取っても、更に日本文藝の歴史の上に於ても、記念碑的なものであった。そこでは句々の響の中に読み取ることの出来る生の緊張の持続は、少しも生のこわばりを齎すことがなかった。むしろ反対に、それは生の自発性—あらゆる自由さ、柔軟さ、弾力を伴い、生の凝縮を解放った際のこの上ない躍動と流露を見せている。
「木枯の風狂」
『山本健吉俳句読本第四巻』

七部集の最初の歌仙ということ、それから、これがすぐれた作品だということだろう、「木枯の巻」については評釈も多い。そこでわりと問題になるのが、第三の「有明の主水」というのはいったい何だろうということだ。
最新の国文学研究なんてことはまったく不案内なので、あるいは画期的な新説が出ているのかもしれないが、管見のおよぶ限りではこれについての解釈は以下の三つに分かれる。

 (A)実在の人物である
 (B)架空の人物である
 (C)人物を指す言葉ではない

(A)の実在の人物であるという説のひとつは、京都六條本願寺役人に明石主水という人物がいたということから、この人物を酒屋になぞらえたという説のあったことを露伴が紹介した上でこれを「しからず」と否定している。
安東次男は当時の中井正知という人物を特定し以下のように述べる。

抑も尾張名古屋城の造営に際し、小堀遠州と組んで本丸御殿を作った中井大和守正清は、家康が京で召し抱えた法隆寺棟梁であるが、その子孫は代々幕府の京御大工頭となり、当代は中井正知従五位下主水正であった。この正知は法隆寺の元禄修理を手がけた人物であり、またさまざまな禁中作事、城の修理も手がけており、名古屋へ下ることもあったろう。

なるほど、これはこれでなかなか説得力があります。

(B)の架空の人物であるというのは、代表的には幸田露伴の解釈ですね。いちいち、具体的な誰それをここに当てはめようとするのは愚かである。詩の上のフィクショナルな登場人物として味わうのがいいのだというのであります。いわく—

眞の人名にあらず、此句の世に出でたる時、はじめて生まれたるものにして、しかも其の人の如何なる者なるかの誰人にも解せらるゝは、有明の主水といふ八音におのづからなる意の見ゆればなり。

うーん、これまた、露伴学人にこうまで断言されると、とても異を唱えようなどと空恐ろしいことはできそうにない。(笑)

(C)の人物をさす言葉ではないという説は、たとえばこれも露伴が紹介している(そしてただちに退けている)解釈ですが、京都堀川姉小路に店を構える譽田屋という酒屋に有明という銘酒があったことに因んでいるのだとか、有明村に主水という酒屋があって天子様に酒を献したことがあったことに因るとかいうものがありますな。
面白いのはたしか上野洋三の七部集評釈だったと思うのだが(これはすこし自信がない)有明の主水というのは、星の名前で初冬の明け方にこの星が見えるころ新酒の仕込みに入るのだという蘊蓄であります。へえ、とは思うが、あんまりぴんとこない。

わたし自身は露伴の解釈でよいと思うのだけれど、ただ、この時代の俳諧連衆には有明の主水といえば、「ああ、あの主水ね」という共通の理解がやはりあったのではないかという疑いは残る。
(続く)

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2009/09/16

保田與重郎の短歌

ある方が保田與重郎文庫の『木丹木母集』を貸してくださる。自分で探して読もうとすることは今後もまずないと思うので、これもやはり縁であります。
本書は保田の(おそらく)唯一の歌集。
本書の「あとがき」の一部をひく。

この、「木丹木母集」は、昭和改元當時から、昭和四十五年迄の作歌を集めたもので、その殆どは今度初めて印刷に附すものである。(中略)歌に對する私の思ひは、古の人の心をしたひ、なつかしみ、古心にたちかへりたいと願ふものである。方今のものごとのことわりを云ひ、時務を語るために歌をつくるのではない。永劫のなげきに貫かれた歌の世界といふものが、わが今生にもあることを知つたからである。現在の流轉の論理を表現するために、わたしは歌を醜くしたり、傷つけるやうなことはしない。さういう世俗は私と無縁のものである。私は遠い祖先から代々をつたへてきた歌を大切に思ひ、それをいとしいものに感じる。私にとつては、わが歌はさういふ世界と観念のしらべでありたいのである。

わたしは部外者だから気楽なことを言うが、現代の歌壇は、まさに「方今のものごとのことわりを云ひ、時務を語るために歌をつくる」人々とその人々が主宰する結社のものであるようにも思える。だから保田のこの歌集は、今読むとひたすらになつかしく、同時に(皮肉なことに)新鮮で個性的なものに思える。
気に入ったものをいくつか抜く。

押坂の古川岸のねこやなぎぬれてやさしき春の雪かな

さゝなみの志賀の山路の春にまよひ一人ながめし花ざかりかな

山かげを立のぼりゆくゆふ烟わが日の本のくらしなりけり

けふもまたかくてむかしとなりならむわが山河よしづみけるかも

夜もすがら ふゞきし雨の 朝あけて松葉にたまり しづくする音

猪飼野にいさゝ秋風風立てば生きざらめやも生きてありしを

短夜のはやばやしらむ木下闇目にしみてしるきくちなしの花

解説の山川京子によれば「木丹」は梔子、「木母」は梅と教えられたとのこと。解説の結びは次のようになっている。

「くちなし」は若くして亡くなられた三男直日さんの象徴であり、典子夫人の歌集の題名なのです。

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2009/09/13

鉄拳制裁『博物館の裏庭で』

『博物館の裏庭で』ケイト・アトキンソン(新潮社)を読む。
1995年のウィットブレッド賞の受賞作ということで期待して読み始めたのだが、どうもいけない。

ウィットブレッド賞(Whitbread Book Awards)は、1971年に創設された文学賞で、よく話題になるブッカー賞が1968年の創設だから、ほぼ同じくらいの歴史を有する。児童文学についてもジャンルを設けて授賞していることや、どちらかといえば娯楽性にとんだ作品にウェイトがかかっているというのが特色らしい。
2006年からはコスタ賞(Costa Book Awards)と改称している。スポンサーシップがウィットブレッド社からコスタ・コーヒーに移ったためだが、もともとコスタ・コーヒーはウィットブレッド社の子会社なんだって。なんかよくわからん。いずれにしても、日本だと権威ある文学賞といえば出版社が設けているのとちょっと違っているのがまあ面白いといえば面白い。そのうちスターバックス賞なんてのが出てくるのかもしれないね。
そう言えば先ごろ読んだセバスチャン・バーリイの『The Secret Scripture』が、昨年度のコスタ賞のBook of the Yearだったのだが、ちょっとした種明かしが陳腐なメロドラマみたいで、わたしはあんまり買わなかった。ま、この賞、そういう路線なのかもしれない。

とは言うものの、ウィットブレッド賞といえば、一応ブッカー賞と並ぶ英国の文学賞でもあり、またこのケイト・アトキンソンの受賞作は、処女作にしてその年のBook of the Yearである。鴻巣友希子も新聞書評でこれを推していた。発行はこれまでほとんど外れのない新潮クレストブックの一冊であります。カバーの推薦文は辻原登で、いわく「僕らはこんな小説を夢想してきた!『紅楼夢』と『百年の孤独』が、英国女流小説の系譜のなかで実現することを。」
なかなか、そそるでしょ。(笑)これはわるいものであるはずがない、と普通は思うよね。
実際、小説の構成は100年以上にわたる家族の歴史をいろいろなエピソードを積み重ねるように語っていくというスタイルで、これまたわたし好みの本に違いないのであります。

ですが、これはダメだぁ。
わたしは少々、怒っている。

問題は翻訳です。
わたしは、海外小説の翻訳のよしあしという事柄については、かなり寛大で、あんまり悪口めいたことは書かないようにしてきたつもりですが、それはこの職能に対する敬意と感謝(労多いわりに報われない)からである。しかし本書については、ちといい加減さが目にあまる。
具体的に書きましょう。次の文章を読んでください。

子供たちの運命のほうはどうだろう—ロレンスは十四歳で家を出たきり、だれ一人二度と会わなかった。トムはメイベルという女の子と結婚して、事務弁護士のところの事務員になり、アルバートは第一次大戦で戦死した。エイダはかわいそうに、十二のときジフテリアに罹って死んだ。リリアンは長命で、いささか数奇な運命を送り、ネルは—この暑かった日にはまだ生まれていなくて、人生はこれからというわけだったが—いずれあたしの祖母になるものの、何が何だかわからないまま、そのお産で死んでしまう(これでまた女が一人、けっきょく死んだのだ)。

このパラグラフ、翻訳478ページの本文のなかで、44ページ目、第一章の補注の最後に出てくる文章です。くわしいことはもちろん、これだけではわからないでしょうが、これから始まる長大な物語を予言のように、あるいは鳥瞰図のように見渡す、ものすごく重要な箇所だとわたしは思う。
しかるに、「ネルは」以下の最後のセンテンスですが、これがまったく意味をなしていない。日本語として気持ちの悪いへたくそな文章であるということは、とりあえずおくとしても、これはまったくへんな文章です。この44ページまでに、ネルは重要な登場人物の一人としてすでに登場し、子供を五人産み育て、何人もの孫をもつおばあちゃんとして語り手の「あたし」に紹介されているのですね。
しかし、このほとんど日本語とも思えない文章を、何度読んでも(ほんとに苦痛ですが、たぶんなにか深い意味があるんだろうと思うじゃないですか)、そこで読み取れるのは、次のふたつの可能性だけだと思う。

  1. ネルは自分の子供を生むときに死んでしまった
  2. ネルは生まれるときに死んでしまった

そして言うまでもなく、どちらもあり得ないことは明白です。ちなみにネルが老衰で死ぬのは294ページで出てきますが、このときわたしの計算が正しければ彼女は75歳のはず。

こういうのは、どうなんだろう。実際の翻訳はだれか院生かなんかにさせて翻訳者は名前だけを貸しているのかしら。それでも日本語としての最終責任は訳者にあるはず。その人は、こんな日本語書いて、本にして、気持ち悪くならないのだろうか。またこんな原稿貰って、中身を読んで「ありゃ、これはなんじゃろ?」と編集者は疑問に思わないのだろうか。それとも忙しいから中身も見ずに印刷所にまわすのかしら。

まあ、こういうのは、意外にも最後の最後でアクロバチックに論理的に解明されるということもあり得ないことではないから、一応最後まで読みましたが、(そしてこういう箇所はここだけにとどまらないので、いらいらしたのですが)そういう「びっくり」もなく、ひたすら、この「なんじゃろうね、このいいかげんな仕事ぶりは」という不信感は消えない。

翻訳者は小野寺健である。「訳者あとがき」によれば、「訳了するまでお世話になった須貝利恵子さん、佐々木一彦さん、それにさぞかしご苦労をかけたにちがいない校閲部の方々」もいらしたそうであります。みなさんには釈明があればぜひともお聞きしたい。(怒)
原著をお持ちの方は、ここの英語がどうなっているかお教えいただければ幸せであります。
こんなひどい日本語訳でなければ、この作品、きっとすごくいい小説だと思うだけに残念。

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2009/09/08

保田與重郎「日本の橋」

『保田與重郎全集第四巻』(講談社/1986)を読む。
本巻には初版の『日本の橋』と『改版 日本の橋』の両方が収録されている。
『日本の橋』は1936年(昭和11年)に芝書店から出版された保田の処女作。これにより第一回池谷信三郎賞を受賞し、実質的な文壇デビューとなった。
02238986 『改版 日本の橋』は初版の発行から三年後の1939年に東京堂より出版、棟方志功の装幀。古書展でこの本を入手されたという黒岩比佐子氏がそのブログに写真を掲載しておられたので、参考にここに掲載させていただいた。なんとも気迫に満ちた本でありますね。当時の出版事情はよくわからないが、こういう本のつくり方からみても日本浪曼派の中心イデオローグとしての全盛期ということがうかがえる。
改版を出すにあたっての保田の「はしがき」を引く。

この本にをさめた四つの文章のうち、誰ケ袖屏風と日本の橋の二篇は、舊版の日本の橋にもくみ入れたものであり、古い版が無くなつてからすでに年月をへたところ、ふたゝび人に見えるのは如何になどの思ひもされたが、愛惜するまゝにこゝの巻初においた。いづれもおなじ有羞の執着を満すために、人の嘲りをくりかへし、後の悔を慮らぬことともならうか。しかるに新しく思ふところあつて、舊い措辞を正したり、あるひは心づくことがらをつけ足すうちに、あらかた面目の異るさまになつた。

保田與重郎を読むのは、わたしはこれが初めて。正直あんまり興味の持てる人物ではなかった。きっかけは川村二郎の『イロニアの大和』というすぐれた大和紀行で、ふらりと新しい領域に足を踏み入れたような塩梅。

とりあえず全集の一冊だけを通読して出て来た率直な感想は、いやはや聞きしに勝る悪文、というものなのであるけれども(笑)、これは別にこの人物が、国策としての侵略戦争遂行に対して思想面から積極的にこれを支持したとかなんとかいう見方とは関係がない。むしろ文章のスタイルに対する趣味の問題でありますね。まあ、こういう日本語もかつては国民に好まれたことがあるんだなあ、と思っておけばいいのでしょう。もちろん、あと70年もすれば、村上春樹の文体だって気持ち悪いというような感想をみんなが抱くようになる可能性だってありますわな。ま、それまで日本語が滅びることがなければですが。

それはともかく、この巻の中心はなんといっても「日本の橋」という評論である。そして、この評論自体が上に述べたように、旧版と改版というふたつのかたちで載せてあるのはもちろん、そのほかにもこの評論のいちばん最初の稿であるところの「裁断橋擬宝珠銘のこと」というエッセイも収録されている。この稿が掲載されたのは『四季』第十三号(1935)だという。

長くなるがすべての「日本の橋」のモチーフとなったこの裁断橋擬宝珠銘というのがなんであるのか、最後に引用しておきたい。いい話であります。文体の好悪を離れて、保田の「愛惜」、「有羞の執着」を味わってください。ちなみに引用は「改版」のほうからです。

日本の橋の一つの美しい現象を終わりに語つて、現象が象徴となつた、雅名の起源を述べたいと思ふのは、これも乏しい日本の橋のためである。名古屋熱田の町を流れてゐる精進川に架せられた裁断橋は、もう昔のあとをとゞめないが、その橋の青銅擬寶珠は今も初めのまゝのものを残し、その一つに美しい銘文が鏤られてゐるのである。和文と漢文とで同様の意味のことが誌されてゐるが、漢文の方はしばらく措き、その和文の方は本邦金石文中でも名文の第一と語りたいほどに日頃愛誦に耐へないものである。

てんしやう十八ねん十八日に、をたはらへの御ぢんほりをきん助と申、十八になりたる子をたゝせてより、又ふためともみざるかなしさのあまりに、いまこのはしをかける成、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんじやうぶつし給へ、いつかんせいしゆんと、後のよの又のちまで、此のかきつけを見る人は、念佛申給へや、卅三年のくやう也。

銘文はこれだけの短いものである。小田原陣に豊臣秀吉に従って出陣戦死した掘尾金助といふ若武者の三十三囘忌の供養のために、母が架けたという意味を書き誌したものだが、短いなかにきりつめた内容を語つて、しかも藝術的氣品の表現に成功してゐる點申し分なく、なほさらこの銘文はその象徴的な意味に於ても深く架橋者の美しい心情とその本質としてもつ悲しい精神を陰影し表情してゐるのである。此岸より彼岸へ越えてゆくゆききに、たゞ情思のゆゑにと歌はれたその人々の交通を思ひ、それのもつ永劫の悲哀のゆゑに、「かなしみのあまりに」と語るこの女性の聲は、たゞに日本の秀れた橋の文學の唯一つのものといふのみでなく、その女性の聲こそこの世にありがたい純粋の聲が、一つと巧まなくして至上叡智をあらはしたものであらう。教育や教養をことさら人の手からうけた女性でもあるまいが、世の教養とはかゝる他を慮らない美しい女性の純粋の聲を私らの蕪れた精神に移し、あるひは魂の一つの窓ひらくためにする営みに他ならぬ。三十三年を經てなほも切々盡きない思ひを淡くかたつてなほさらきびしい、かゝる至醇と直截にあふれた文章は、近頃詩文の企て得ぬ本有のものにのみみちてゐる。はゝの身には落涙ともなり、と讀み下してくるとき、我ら若年無頼のものさへ人間の孝心の發するところを察知し、古の聖人の永劫の感傷の美しさを了解し得るやうで、さらに昔の吾子の俤をうかべ「即身成佛し給へ」とつゞけ、それが思至に檄して「逸岩世俊と念佛申し給へや」と。「このかきつけを見る後の世の又後の世の人々」にまで、しかも果無いゆきづり往来の人々に呼びかけた親心を思ふとき、その情愛の自然さが、私らの肺腑に徹して耐へがたいものがある。逸岩世俊禪定門といふのは金助の戒名である。

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2009/09/05

iPod

会社への行き帰り、電車を待ったり車中にいる間は、本を読んでいることが多いのだけれど、歩く時間もけっこうあって、この間はもちろん本を読むわけにはいかないので、ポッド・キャスティングの英語ニュースなどをiPodで聴いている。
休日に小一時間ばかり近所を散歩するときも同様だ。

毎日のこととて、すぐに聞き飽きてくる音楽よりも、ほとんどこのポッド・キャスティング専用機みたいな使い方だから、容量もさほど必要ない。というわけで1ギガの「iPod shuffle」で十分なのであります。ただ問題は、この機種はあんまり長持ちしないことで、ある日とつぜんうんともすんとも言わなくなって閉口する。

先週もふたつめの「iPod shuffle」が駄目になってしまった。最初に買ったのもたしか1年くらいでおしゃかになったと思うのだが、今回のもたぶんそれくらいの寿命だっただろうか。手帖にでもいつから使い始めたか記しておけばよかったのだが、結局どれくらいもったのか、よくわからない。まあ定価で5800円だから、1年もてば一月当たり480円、消耗品と考えればそんなもんかなという気もする。今回のやつはこうして、ここに記しておくので何日もったかが正確にわかるはずである。

Shafflea5 さて仕方がないのでまた買い換えようと会社帰りに梅田のヨドバシカメラをのぞいたのだが、いままで使っていたタイプが見当たらない。最新の「iPod shuffle」はいままでよりさらに半分くらいの大きさの4ギガのモデルである。ちっちゃいねこれは。ほとんどネクタイピンである。値段は8800円。利点は容量もさることながら複数のプレイリストの選択ができることであろうか。
しかし、先に述べたように、わたしの用途はポッド・キャスティングを聴くためのただの「ラジオ」みたいなものだから、これは別に魅力的ではないんだなあ。むしろ今度の「iPod shuffle」は操作を本体じゃなくて、イヤホンのケーブルの側でやるので、サードパーティのイヤホンが使えないんじゃないかな。(よくはわからんけど)

どの販売店にも旧タイプが見当たらなかったのでやむを得ずネットで注文することにした。
もともとそんなに高い商品じゃないから価格コムなどをみてもさほど安くなるものではないようだ。それなら、定価だけどアップルのストアで無料刻印したものを買うのもいいかなと思った。
なるほど、このサービスは定価でネット販売する策かとやっと意味がわかったことであります。(笑)

刻印は「Time heals what reason cannot」とした。セネカね。

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2009/09/02

谷川健一全歌集

『谷川健一全歌集』(春風社)を通読する。ちと重い読後感。

谷川健一は『魔の系譜』、『白鳥伝説』、『うたと日本人』などを読んだ。熱心な読者とは言えないが好きな著述家のひとりだ。弟の詩人谷川雁などとともに水俣の開業医の家に生まれた。

この人については今年の宮中歌会始の召人に選ばれたことを新聞の記事で知った。
水俣は谷川の故郷だから、1998年刊の第3歌集『海境(うなさか)』に「水俣」と題する連作がある。
二首だけ抜いてみる。

かしこきやわがふるさとの海やまに血塗られし手の匂ひは消えず

春の日のうつつにおもふそらまめの花のごとき上村智子

上村智子(かみむら・ともこ)はユージン・スミスの写真で知る人は知るであろう。いまはこの写真は公式には使われない。(こちら
歌会始の召人は今上が指名すると聞いているが、東宮妃の母方の祖父がチッソ社長の江頭豊であること、そして谷川が上記のような歌を詠んでいることを考えると、なにかぼんやりとおかしな考えも浮かんでくるのだが、まあ、妄想であろう。

『海境』の「あとがき」にはこのようにある。

前歌集の『青水沫』(一九九四年七月刊)を上梓してから四年の歳月が経っているが、その間、日本の状態は悪化し、私の身辺にも不幸があり、本歌集全体にどこか挽歌の雰囲気がただよっている。

その日本への挽歌が、読後の重い気分をさそう。

秋雨に木犀重く匂ふ夜は矢野玄道の歎きをおもふ

木犀の金のかをりの重さにも比へる日本の誇死にたり

日本の誇消ゆる日わが胸の奥処に雪崩とどろきやまず

稲妻と差し違へつつ辛酉の年にかへれと虹に叫びぬ

飛鳥仏ほほゑむ春を繭ごもりひそかにうたふ日本挽歌

日本の命運もはや尽きたるかと問ふがにつくつく法師頻き鳴く

わが庭の青樹を枯らす蝉時雨いまこそ日本挽歌をうたへ

日本のその日ぐらしの夜の果に馬鹿なひぐらしの声聞くは憂し

日本といふ異土にわが死すひぐらしの死骸ころがるそのまた上に

ひとつきのたそがれの酒なさけあり日本の命運しばし忘れむ

大麦の黒穂の芒に刺され死ぬ王のいのちを予言す虹は

黒き虹月呑むときに現はるる世紀の蝕ははや始まれり

さらば祖国睫毛に張りし薄氷のとけざる間に別れを告げむ

さらば祖国真黒き魚のはらわたを踏みゆく日々に別れを告げむ

ローマもまたかく滅びしか冬の日に季節はずれの南風の吹けば

これらの「挽歌」からすでに10年以上がすぎた。
今年の歌会始(題「生」)で谷川健一が詠んだのはこんな歌であった。

陽に染まる飛魚の羽きらきらし海中に春の潮生れて

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2009/09/01

8月に読んだ本

『かくれ里』白洲正子(新潮社/1971)
『鬼平犯科帳 2』池波正太郎(文春文庫)〈再読〉
『孕むことば』鴻巣友季子(マガジンハウス/2008)
『ローマの哲人 セネカの言葉』中野孝次(岩波書店/2004)
『しみじみ読むイギリス・アイルランド文学』阿部公彦編(松柏社/2007)
『最後の波の音』山本夏彦(文春文庫/2006)
『鬼平犯科帳 新装版〈3〉』池波正太郎(文春文庫/2002)〈再読〉
『ミーナの行進』小川洋子(中公文庫/2009)
『鬼平犯科帳 4』池波正太郎(文春文庫)〈再読〉
『雨を見たか—髪結い伊三次捕物余話』宇江佐真理(文春文庫/2009)
『鬼平犯科帳 新装版〈5〉』池波正太郎(文春文庫/2006)〈再読〉
『鬼平犯科帳 6』池波正太郎(文春文庫)〈再読〉
『アダム・スミス—『道徳感情論』と『国富論』の世界』堂目卓生(中公新書/2008)
『鬼平犯科帳 新装版〈7〉』池波正太郎(文春文庫/2008)〈再読〉
『きつねのはなし』森見登美彦(新潮文庫/2009)
『鬼平犯科帳 新装版〈8〉』池波正太郎(文春文庫/2008)〈再読〉
『獣の奏者〈1〉闘蛇編』上橋菜穂子(講談社文庫/2009)
『獣の奏者〈2〉王獣い編』上橋菜穂子(講談社文庫/2009)
『鬼平犯科帳 新装版〈9〉』池波正太郎(文春文庫/2008)〈再読〉
『獣の奏者〈3〉探求編』上橋菜穂子(講談社/2009)
『獣の奏者〈4〉完結編』上橋菜穂子(講談社/2009)

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