有明の主水(上)
笠は長途の雨にほころび、帋衣(かみこ)はとまりとまりのあらしにもめたり。侘つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂哥の才士、此國にたどりし事を、不圖おもひ出て申侍る
狂句 こがらしの身は竹斎に似たる哉 芭蕉
たそやとばしるかさの山茶花 野水
有明の主水に酒屋つくらせて 荷兮
芭蕉七部集のひとつ「冬の日」は貞享元年(1684)『野ざらし紀行』の旅の途中で尾張の俳諧連衆と巻いた歌仙五巻。その最初の興行、すなわち芭蕉と名古屋俳人とがその力量をさぐりあい、やがて互いを信頼して詩興の丁々発止たる交歓にいたるみごとな歌仙が「木枯の巻」であります。これによって芭蕉は名古屋での地歩を固めたにとどまらず談林調を完全に捨てて蕉風の確立をすることができた。
山本健吉は次のように書いている。
「木枯」の歌仙は、芭蕉にとっても、正風の歴史に取っても、更に日本文藝の歴史の上に於ても、記念碑的なものであった。そこでは句々の響の中に読み取ることの出来る生の緊張の持続は、少しも生のこわばりを齎すことがなかった。むしろ反対に、それは生の自発性—あらゆる自由さ、柔軟さ、弾力を伴い、生の凝縮を解放った際のこの上ない躍動と流露を見せている。
「木枯の風狂」
『山本健吉俳句読本第四巻』
七部集の最初の歌仙ということ、それから、これがすぐれた作品だということだろう、「木枯の巻」については評釈も多い。そこでわりと問題になるのが、第三の「有明の主水」というのはいったい何だろうということだ。
最新の国文学研究なんてことはまったく不案内なので、あるいは画期的な新説が出ているのかもしれないが、管見のおよぶ限りではこれについての解釈は以下の三つに分かれる。
(A)実在の人物である
(B)架空の人物である
(C)人物を指す言葉ではない
(A)の実在の人物であるという説のひとつは、京都六條本願寺役人に明石主水という人物がいたということから、この人物を酒屋になぞらえたという説のあったことを露伴が紹介した上でこれを「しからず」と否定している。
安東次男は当時の中井正知という人物を特定し以下のように述べる。
抑も尾張名古屋城の造営に際し、小堀遠州と組んで本丸御殿を作った中井大和守正清は、家康が京で召し抱えた法隆寺棟梁であるが、その子孫は代々幕府の京御大工頭となり、当代は中井正知従五位下主水正であった。この正知は法隆寺の元禄修理を手がけた人物であり、またさまざまな禁中作事、城の修理も手がけており、名古屋へ下ることもあったろう。
なるほど、これはこれでなかなか説得力があります。
(B)の架空の人物であるというのは、代表的には幸田露伴の解釈ですね。いちいち、具体的な誰それをここに当てはめようとするのは愚かである。詩の上のフィクショナルな登場人物として味わうのがいいのだというのであります。いわく—
眞の人名にあらず、此句の世に出でたる時、はじめて生まれたるものにして、しかも其の人の如何なる者なるかの誰人にも解せらるゝは、有明の主水といふ八音におのづからなる意の見ゆればなり。
うーん、これまた、露伴学人にこうまで断言されると、とても異を唱えようなどと空恐ろしいことはできそうにない。(笑)
(C)の人物をさす言葉ではないという説は、たとえばこれも露伴が紹介している(そしてただちに退けている)解釈ですが、京都堀川姉小路に店を構える譽田屋という酒屋に有明という銘酒があったことに因んでいるのだとか、有明村に主水という酒屋があって天子様に酒を献したことがあったことに因るとかいうものがありますな。
面白いのはたしか上野洋三の七部集評釈だったと思うのだが(これはすこし自信がない)有明の主水というのは、星の名前で初冬の明け方にこの星が見えるころ新酒の仕込みに入るのだという蘊蓄であります。へえ、とは思うが、あんまりぴんとこない。
わたし自身は露伴の解釈でよいと思うのだけれど、ただ、この時代の俳諧連衆には有明の主水といえば、「ああ、あの主水ね」という共通の理解がやはりあったのではないかという疑いは残る。
(続く)
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