鉄拳制裁『博物館の裏庭で』
『博物館の裏庭で』ケイト・アトキンソン(新潮社)を読む。
1995年のウィットブレッド賞の受賞作ということで期待して読み始めたのだが、どうもいけない。
ウィットブレッド賞(Whitbread Book Awards)は、1971年に創設された文学賞で、よく話題になるブッカー賞が1968年の創設だから、ほぼ同じくらいの歴史を有する。児童文学についてもジャンルを設けて授賞していることや、どちらかといえば娯楽性にとんだ作品にウェイトがかかっているというのが特色らしい。
2006年からはコスタ賞(Costa Book Awards)と改称している。スポンサーシップがウィットブレッド社からコスタ・コーヒーに移ったためだが、もともとコスタ・コーヒーはウィットブレッド社の子会社なんだって。なんかよくわからん。いずれにしても、日本だと権威ある文学賞といえば出版社が設けているのとちょっと違っているのがまあ面白いといえば面白い。そのうちスターバックス賞なんてのが出てくるのかもしれないね。
そう言えば先ごろ読んだセバスチャン・バーリイの『The Secret Scripture』が、昨年度のコスタ賞のBook of the Yearだったのだが、ちょっとした種明かしが陳腐なメロドラマみたいで、わたしはあんまり買わなかった。ま、この賞、そういう路線なのかもしれない。
とは言うものの、ウィットブレッド賞といえば、一応ブッカー賞と並ぶ英国の文学賞でもあり、またこのケイト・アトキンソンの受賞作は、処女作にしてその年のBook of the Yearである。鴻巣友希子も新聞書評でこれを推していた。発行はこれまでほとんど外れのない新潮クレストブックの一冊であります。カバーの推薦文は辻原登で、いわく「僕らはこんな小説を夢想してきた!『紅楼夢』と『百年の孤独』が、英国女流小説の系譜のなかで実現することを。」
なかなか、そそるでしょ。(笑)これはわるいものであるはずがない、と普通は思うよね。
実際、小説の構成は100年以上にわたる家族の歴史をいろいろなエピソードを積み重ねるように語っていくというスタイルで、これまたわたし好みの本に違いないのであります。
ですが、これはダメだぁ。
わたしは少々、怒っている。
問題は翻訳です。
わたしは、海外小説の翻訳のよしあしという事柄については、かなり寛大で、あんまり悪口めいたことは書かないようにしてきたつもりですが、それはこの職能に対する敬意と感謝(労多いわりに報われない)からである。しかし本書については、ちといい加減さが目にあまる。
具体的に書きましょう。次の文章を読んでください。
子供たちの運命のほうはどうだろう—ロレンスは十四歳で家を出たきり、だれ一人二度と会わなかった。トムはメイベルという女の子と結婚して、事務弁護士のところの事務員になり、アルバートは第一次大戦で戦死した。エイダはかわいそうに、十二のときジフテリアに罹って死んだ。リリアンは長命で、いささか数奇な運命を送り、ネルは—この暑かった日にはまだ生まれていなくて、人生はこれからというわけだったが—いずれあたしの祖母になるものの、何が何だかわからないまま、そのお産で死んでしまう(これでまた女が一人、けっきょく死んだのだ)。
このパラグラフ、翻訳478ページの本文のなかで、44ページ目、第一章の補注の最後に出てくる文章です。くわしいことはもちろん、これだけではわからないでしょうが、これから始まる長大な物語を予言のように、あるいは鳥瞰図のように見渡す、ものすごく重要な箇所だとわたしは思う。
しかるに、「ネルは」以下の最後のセンテンスですが、これがまったく意味をなしていない。日本語として気持ちの悪いへたくそな文章であるということは、とりあえずおくとしても、これはまったくへんな文章です。この44ページまでに、ネルは重要な登場人物の一人としてすでに登場し、子供を五人産み育て、何人もの孫をもつおばあちゃんとして語り手の「あたし」に紹介されているのですね。
しかし、このほとんど日本語とも思えない文章を、何度読んでも(ほんとに苦痛ですが、たぶんなにか深い意味があるんだろうと思うじゃないですか)、そこで読み取れるのは、次のふたつの可能性だけだと思う。
- ネルは自分の子供を生むときに死んでしまった
- ネルは生まれるときに死んでしまった
そして言うまでもなく、どちらもあり得ないことは明白です。ちなみにネルが老衰で死ぬのは294ページで出てきますが、このときわたしの計算が正しければ彼女は75歳のはず。
こういうのは、どうなんだろう。実際の翻訳はだれか院生かなんかにさせて翻訳者は名前だけを貸しているのかしら。それでも日本語としての最終責任は訳者にあるはず。その人は、こんな日本語書いて、本にして、気持ち悪くならないのだろうか。またこんな原稿貰って、中身を読んで「ありゃ、これはなんじゃろ?」と編集者は疑問に思わないのだろうか。それとも忙しいから中身も見ずに印刷所にまわすのかしら。
まあ、こういうのは、意外にも最後の最後でアクロバチックに論理的に解明されるということもあり得ないことではないから、一応最後まで読みましたが、(そしてこういう箇所はここだけにとどまらないので、いらいらしたのですが)そういう「びっくり」もなく、ひたすら、この「なんじゃろうね、このいいかげんな仕事ぶりは」という不信感は消えない。
翻訳者は小野寺健である。「訳者あとがき」によれば、「訳了するまでお世話になった須貝利恵子さん、佐々木一彦さん、それにさぞかしご苦労をかけたにちがいない校閲部の方々」もいらしたそうであります。みなさんには釈明があればぜひともお聞きしたい。(怒)
原著をお持ちの方は、ここの英語がどうなっているかお教えいただければ幸せであります。
こんなひどい日本語訳でなければ、この作品、きっとすごくいい小説だと思うだけに残念。
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コメント
偶然、私もこの本を読み始めたところでした。
同じところで、「え?」と思い、自分の理解が悪いのかと思っていました。何しろクレストブックなので…
投稿: mimo | 2009/09/15 00:51
底本とした1995年のDoubledayの原文を見なければ、この箇所の訳がお粗末なミスかどうかは断言できないわけですが、まあ、常識的に考えて文節をひとつくらい飛ばしているのではないかと思うなあ。
本書については新潮社の公式サイトで情報を公開しているのですから、もし新潮社のほうでもミスに気づいているなら、正誤表を掲載してくれればいいのにね。
http://www.shinchosha.co.jp/book/590069/
投稿: かわうそ亭 | 2009/09/15 07:32
はじめまして。先日本屋さんで興味のあったケイト・アトキンソンの新刊を読み始めました。
Started Early, Took My Dogは、ちょっとブラックユーモアを交えた現代人の姿を浮き彫りにして、ミステリーなのに、暗すぎず、笑える箇所があります。
ところで、↑↑まだ読んでいないので何とも言えないのですが、日本で翻訳されているのが「博物館の裏庭で」一冊だけなのは、やはりケイトさんの簡潔で無駄のない文章を日本語へ置き換えるのは非常に、難しいことなのかもしれないですね。
美しく、わかりやすい日本語で訳すのは困難であっても、できるだけ読み手が違和感を感じない文章にしあげるのが訳者と編集者の仕事だと思います。
私は、以前英語~日本語へ訳す(もしくは逆)という仕事をしていました。
詩を日本語に直すというのは不可能に近いのです。アルファベットのリズム感というのがあって、それは日本語では表現しにくい。
またスラングもその文化が日本になければ、
トンチンカンな意味になってしますし。。。
私は、訳すとき、ネイティブで音楽、映画と文学に造詣が深い人に何度もチェックしてもらいました。
↑の稚拙な文章がそのまま印刷されてしまったことは、翻訳者としてはかなり恥ずかしいことですよね。
後日、何らかの形でお詫びと訂正箇所を挙げて、読者に渡すべきなのではないでしょうか?
しかし、今は翻訳者の給与が落ち込み、「やってらんねー」ってことで、手抜きの訳をしたのかもしれないですけどww
投稿: Kemeko | 2011/11/17 14:40
Kemeko さま
コメントどうもありがとうございます。そういえば、ここの原文を大きな洋書売り場で確認しなければ、と思っていたのを、すっかり忘れておりました。今度、丸善ジュンク堂あたりでチェックしよ。
投稿: かわうそ亭 | 2011/11/17 22:20