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2009/09/22

有明の主水(下)

「木枯の巻」の発句、脇、第三は、なんといっても初回の芭蕉と尾張俳壇の連衆の顔合わせであるから、それぞれの句は、詩としての情景や感興を打ち出すとともに、やはり裏に挨拶を含んでいると見るのがいいと思う。

狂句 こがらしの身は竹斎に似たる哉
発句は芭蕉。冬の当季。こがらしに追われやってきたわたしは竹斎物語の主人公のような諸国をさすらい歩く風狂者でございます。よくぞまあこんなわたしを、みなさんあたたかくお迎え下さいました。

たそやとばしるかさの山茶花
脇はこの歌仙興行を行った家の主人である野水がつとめた。岡田野水は尾張の呉服商、このとき二十七歳。季は冬。笠にサザンカを飛び散らせておられるお方は、いったいどなたでしょう。それだけでもその方がゆかしく思われてなりません。ようこそお越し下さいました。

有明の主水に酒屋つくらせて
第三を名古屋連衆のなかでは年長者である医者の山本荷兮が代表してつとめる。このとき三十七歳くらいでしょうか。挨拶はここまでである。大胆に月の座をここに引き上げて秋に転じた。あの有明の主水に、こともあろうに酒屋をつくらせるようなことでお恥ずかしい限りですが、今宵はどうぞよろしくご指導をお願い致します。

というような挨拶の流れがあると考えるとわりとすっきりするような気がしますがどうでしょうか。
さて、となると、問題はやはり第三の有明の主水が誰であるかということですね。安東次男がとっている幕府の京御大工頭家である中井家(代々主水名)というのも、この文脈では悪くない。江戸の大宗匠にわが一座の歌仙興行の捌きをお願いするなぞ、一流の大工頭に酒屋をつくらせるようなものでございますね、と笑いをさそっているわけであります。
しかし、それならもっといい人物がいるんじゃないか、という「発見」をしました、というのがじつは今回のお話。(もっともわたしが知らないだけで、たぶんすでにこの説も論文などで発表されているに違いないとは思いますけどね)

きっかけは久野治さんという方の『千利休より古田織部へ』(鳥影社)という本でした。著者は多治見市にお住まいの古田織部研究家。ただし古俳諧についての言及はこの本にはまったくありませんで、村田珠光、北向道陳、武野紹鴎から千利休へ、そして利休からいわゆる利休七哲とよばれる人々への流れをたどり、かれらを翻弄する歴史のエピソードを茶の湯の世界と道具類を交えて語ったような内容であります。
そして、このなかに主水をみつけたときにわたしは、「あっ、これだ」と思いましたね。

その主水は、名を上田宗箇という。
永禄6年(1563)に丹羽長秀家臣の上田重光の長男として尾張国星崎(現在の名古屋市南区星崎町)に生まれた。父が十歳のときに亡くなったので、禅寺に入ったが、長秀のもとで武芸にはげみ、本能寺の変の武功で一躍名をあげた。長秀没後は秀吉に仕え、二十八歳のときに秀吉の媒酌で北政所の従妹を娶った。このころより利休に茶の湯をまなび、文禄2年(1593)に明の特使沈惟敬を九州の名護屋城に迎えときは、利休自刃(1591)のあとの茶頭である古田織部とともに接待役をつとめた。
その後、上田宗箇は従五位下主水正(もんどのかみ)に叙せられますが、秀吉亡き後の関ヶ原の合戦で、かつての旧主である丹羽家が豊臣方についていたため、西軍の側で戦い戦後は領地を取り上げられてしまいます。
しかし、利休の門弟という高名な茶人であり、また作庭についての名人でもあることから、徳島藩主蜂須賀家政に召されたり、紀州和歌山城主浅野幸長に迎えられたりし、それぞれそこでいまに伝わる名園をつくっているが、最後は浅野家が加増をうけて安芸に移ったので、その地で慶安3年(1650)に没しています。広島には、いまでも上田宗箇流の家元がおられるとのこと。
なお、宗箇はかつては秀吉に仕えたほどの武芸の誉れ高い武将であり、また茶人としても知らぬ者はいないほどの本格派である。幕閣にも知人は多い。その処遇には藩主も手を焼いたと思われます。出仕に応じなかったり、剃髪したり、また還俗したりと、なかなか一筋縄ではいかない武辺者であった様子。なお、宗箇は名古屋城の二の丸、三の丸の庭園の設計を浅野家に命じられて行っていますが、このときは還俗して上田主水と称していたと思われます。

ということで、「木枯の巻」興行の貞享元年(1684)は上田主水こと宗箇が没してからまだ三十数年、名古屋の生まれで、しかも名古屋城の庭園までつくっているような一流の茶人である。これほどの茶人に、どうかひとつわたくしどもの酒屋をつくってはいただけないか、ともちかけているような塩梅のお粗末な一座でございます、と荷兮が言っているとするとこれはまた品のあるおかしみがよく利くのではあるまいか。

また有明ということばですが、かならずしも上田宗箇にちなんだ言葉ではないかもしれませんが、いかにも茶道具にありそうな名前でありますよね。たとえば、お茶をなさる方はよくご存知のことだと思いますが、秀吉から細川三斎、家康、津田秀政へとつたわり、さまざまな挿話を有する(維新後は益田鈍翁が偶然に入手したことでも有名)茶壺は安国寺肩衝という大名ものですが、最初の名前は有明でした。
だから荷兮はこの有明にもちろん季としての有明の月をかかげながら、茶の湯の象徴としてここでつかっているのではないかと思います。
いうまでもなく、芭蕉も茶の湯に無関心ではなかった。たとえば、上田宗箇と同じく古田織部ともかかわりの深かった小堀遠州の妻は、芭蕉とも縁の深い藤堂高虎の養女であります。
そして、たぶん、芭蕉と茶の湯といえば、多くの方が、「ああ、あれが」と思い出されるはず。
さよう、「笈の小文」ですね。

西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於ける、利休が茶における其の貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。思ふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化に帰れとなり。

というわけで、この有明の主水は、大工頭なんて人を頭に描いては駄目ですね。ここはまず大茶人の主水さんということで、みごとにジグソーパズルがはまるような気がしますが、いかがでしょうか。

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コメント

御説、じつに刺激的です。
 ちなみにたまたま部屋を片付けていて東明雅『連句入門』(中公新書)と橋閒石『俳諧余談』(白燕俳句会)を発掘したのですが、前者は大工頭の中井主水説、後者は「要するに前句の潔い勢いの呼吸から現れた虚の面影で、実と思わす俳諧の妙技と云おうか」というスタンスですね。

投稿: 三島ゆかり | 2009/09/23 00:43

三島ゆかりさん こんにちわ。
(上)のほうにも書きましたが、わたし自身は基本的には橋閒石や露伴がいうように詩的な虚構で立ち現れる人物というのがよい読み筋であろうと思います。ただし、その人物は小堀遠州クラスの茶人にして作庭家で、有明という茶道具で有名な架空の人物とするのが荷兮のたくらみと思いたい。ちなみに当夜の主人、野水は茶人でもあったように書いてある資料もみましたので、あるいは芭蕉をむかえて、庭を見せながら茶の一服くらいは供したはずです。そのときの一座の談話に、上田主水の話題くらいは出ていてもおかしくはないという気もしますね。
ところで、「週刊俳句」に三島さんが以前寄稿された「さくら友蔵を読む」は楽しい記事でした。
未読の方はどうぞこちらを。↓
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/09/blog-post_16.html

投稿: かわうそ亭 | 2009/09/23 09:50

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