浅瀬で生まれた水の膜
「行く河の流はたえずしてしかも本の水にあらず」とか「年々歳々花相似たり歳々年々人同じからず」とか、目の前にわたしたちが見ているうつつの相はじつは流れ去りゆく時間のなかのたまゆらにすぎないというような思想をわたしたちは古人から教えられ育ってきた。
大きく言えばそれは歴史ということにかかわる思想であろうし、もっと身近なことにひきよせれば、それは自分の人生にかかわることだろう。
しかし、その古人たちも、たとえば自分の手をじっと見て、ああ、この手は半年前の手に似てはいるがあのときの手とはもう同じではないのだなあ、なんてことは思わなかったのではないだろうか。
なるほど、ツメや髪や髭ならば、いつも手入れして同じ外観に保っていても、それは下から伸びてきた部分と入れ替わったものである。しかし、手足や目玉や心臓などは、新しいのがどんどん生えてくるわけではない。まあ垢を落とせば新しい表皮はでてくるが、自分の体の主要な部分は再生するものではない。死ぬまで大事に使っていくのだよ、敢えて毀傷せざるは孝の始めなり、てなもんであります。
ところが、いまから70年ばかり前に、ルドルフ・シュタイナーというユダヤ系の分子生物学者がとんでもないことを発見した。これは福岡伸一の『生物と無生物のあいだ』や『動的平衡』に詳しく書かれておりますけれども、この先生、ナチスを逃れて亡命したアメリカで、マウスにアイソトープ標識をつけたアミノ酸を三日間あたえて、それがどうなるか追跡したのであります。かれは、アミノ酸はマウスの体内で燃やされてエネルギーとなり、呼気や尿として排出されるだろうと思っていた。ところが、驚いたことに標識アミノ酸はあっというまにマウスの体中に運ばれて、脳や筋肉やありとあらゆる細胞組織をつくっているタンパク質に置き換わっていったというのですね。なんとマウスは一週間ほどで、全身の細胞のタンパク質を新しく食物からとったアミノ酸分子で構成するようになることがわかった。言い換えると、マウスは一週間で物質としては別のモノに変るということです。
ヒトの場合は、だいたい数ヶ月で物質としては入れ替わってしまう。
食事というのは、体をうごかすエネルギーを取り入れる働きとして我々は考えがちだが、じつは細胞をつくっている物質をたえず入れ替えていくための営みであるという見方もできる。また、われわれの体は、映画フィルムの早回しのような見方をすれば、外から新しい物質がやってきて体内の物質をたえず押し出している流れのようなものだということもできるかもしれない。
たとえば、こんなふうに考えてみよう。
小さい頃に、浅瀬で石を並べて遊んでいると、ふとした拍子に、石を乗り越えていく水が、薄い膜をつくって、しばらく同じかたちを保ち、やがて消えていく、そんな光景を見たことが誰でもあるのではないか。数秒か数分か、その水の膜はたしかに同じかたちで存在していた。きらきらと光を撒き散らして。
もしも、この水の膜に意識があって、生まれてからずっと俺は俺だった、そいつは確かなことだ、なんて思っているとしたら、なんともあわれで滑稽だとわたしたちは思うだろう。なるほどお前さんは、ここ数分はほとんどかたちを変えてはいない。けれど、お前さんのかたちをつくっていた水は一瞬も同じじゃなかった。たえず流れて入れ替わっていたんだよ、と。
しかし人間のからだも(そして意識も)、物質が通過していくあいだに保たれている「かたち」に過ぎないとしたら、それはこの浅瀬で生まれて消えていく水の膜と本質的な違いはないのではないか。
そう考えると、なにか自分の心がゆっくりとほどけてゆくような気がするのは、わたしだけあろうか。
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