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2009年10月

2009/10/26

浅瀬で生まれた水の膜

「行く河の流はたえずしてしかも本の水にあらず」とか「年々歳々花相似たり歳々年々人同じからず」とか、目の前にわたしたちが見ているうつつの相はじつは流れ去りゆく時間のなかのたまゆらにすぎないというような思想をわたしたちは古人から教えられ育ってきた。
大きく言えばそれは歴史ということにかかわる思想であろうし、もっと身近なことにひきよせれば、それは自分の人生にかかわることだろう。
しかし、その古人たちも、たとえば自分の手をじっと見て、ああ、この手は半年前の手に似てはいるがあのときの手とはもう同じではないのだなあ、なんてことは思わなかったのではないだろうか。
なるほど、ツメや髪や髭ならば、いつも手入れして同じ外観に保っていても、それは下から伸びてきた部分と入れ替わったものである。しかし、手足や目玉や心臓などは、新しいのがどんどん生えてくるわけではない。まあ垢を落とせば新しい表皮はでてくるが、自分の体の主要な部分は再生するものではない。死ぬまで大事に使っていくのだよ、敢えて毀傷せざるは孝の始めなり、てなもんであります。

ところが、いまから70年ばかり前に、ルドルフ・シュタイナーというユダヤ系の分子生物学者がとんでもないことを発見した。これは福岡伸一の『生物と無生物のあいだ』や『動的平衡』に詳しく書かれておりますけれども、この先生、ナチスを逃れて亡命したアメリカで、マウスにアイソトープ標識をつけたアミノ酸を三日間あたえて、それがどうなるか追跡したのであります。かれは、アミノ酸はマウスの体内で燃やされてエネルギーとなり、呼気や尿として排出されるだろうと思っていた。ところが、驚いたことに標識アミノ酸はあっというまにマウスの体中に運ばれて、脳や筋肉やありとあらゆる細胞組織をつくっているタンパク質に置き換わっていったというのですね。なんとマウスは一週間ほどで、全身の細胞のタンパク質を新しく食物からとったアミノ酸分子で構成するようになることがわかった。言い換えると、マウスは一週間で物質としては別のモノに変るということです。
ヒトの場合は、だいたい数ヶ月で物質としては入れ替わってしまう。
食事というのは、体をうごかすエネルギーを取り入れる働きとして我々は考えがちだが、じつは細胞をつくっている物質をたえず入れ替えていくための営みであるという見方もできる。また、われわれの体は、映画フィルムの早回しのような見方をすれば、外から新しい物質がやってきて体内の物質をたえず押し出している流れのようなものだということもできるかもしれない。

たとえば、こんなふうに考えてみよう。

小さい頃に、浅瀬で石を並べて遊んでいると、ふとした拍子に、石を乗り越えていく水が、薄い膜をつくって、しばらく同じかたちを保ち、やがて消えていく、そんな光景を見たことが誰でもあるのではないか。数秒か数分か、その水の膜はたしかに同じかたちで存在していた。きらきらと光を撒き散らして。
もしも、この水の膜に意識があって、生まれてからずっと俺は俺だった、そいつは確かなことだ、なんて思っているとしたら、なんともあわれで滑稽だとわたしたちは思うだろう。なるほどお前さんは、ここ数分はほとんどかたちを変えてはいない。けれど、お前さんのかたちをつくっていた水は一瞬も同じじゃなかった。たえず流れて入れ替わっていたんだよ、と。
しかし人間のからだも(そして意識も)、物質が通過していくあいだに保たれている「かたち」に過ぎないとしたら、それはこの浅瀬で生まれて消えていく水の膜と本質的な違いはないのではないか。
そう考えると、なにか自分の心がゆっくりとほどけてゆくような気がするのは、わたしだけあろうか。

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2009/10/21

『利休 茶室の謎』の謎(下)

「不愉快だったこと」という小見出しで始まる一節の肝心な部分は次のようなものである。

韓国の牙山郡に「待庵」にそっくりな民家があること、「高麗カコイ」は「コマ」と読み、のちの「小間」に変化したのではないかと思いついたこと、そうしたさまざまなことがらから利休の美意識の中には、朝鮮からきたものがあるという発想、それらはわたしの「発見」であり「創案」である。
ところが、共同で研究していたつもりの方々の中から、「発見者」のわたしを無視して、あたかも自分が「発見」したかのように、公言し文章化される方が出てきたのだ。
人の仕事を尊重する姿勢、人がやったことをきちんと評価し認めてゆくのは研究者でなくても当たり前のことであろう。
口頭で、直接あるいは人を介して、抗議したり、訂正をお願いしたりしたが、ほとんど結果的にはわたしの希望のようにはならなかった。(中略)
わたしは共同研究者だと思っていたのに、その信頼を裏切られ、どうしていいかわからなくなった。
悲しかった。(p.126)

この人物が誰であるかは「あとがき」によれば、本書に付された参考文献に名前が出て来て、しかもこの「不愉快だったこと」にいたる文章で判ることだと書かれています。ところが困ったことにわたしの読解力があまりよくないためでしょうけれども、可能性がありそうな方が二人いらして、たぶんこっちの方であろうとわたし自身は理解しているのですが、この人物であると遺稿を託された方が名指しておられない以上、断言はできないのでありますね。問題があると前回に書いたのはそのことであります。だって、まあ、このお二人ともがイニシャルにされていたのなら話は別ですが、お一人だけがイニシャルだったのであれば、もうお一方は本書の「告発」によって誤解を受け続ける可能性があるわけですから。

可能性がある方は次のお二人です。

村井康彦氏。国際日本文化研究センター名誉教授、京都市美術館館長

中村利則氏。京都造形芸術大学教授

具体的に本書の中でどう書かれているか。

用事があって村井康彦先生に電話したとき、「高麗カコイはコマカコイと呼びならわしていたのではないか」と、思いついたばかりのことを話した。そして「高麗カコイ」が「小間カコイ」になったのではないかと。
先生は、「茶の湯には大服茶を大福茶、露地を路地というふうに、言いかえることがよくある」といわれ、わたしの読み替えを認めて下さった、しかし電話のことであるし、何よりもまず「不白筆記」を読んでおられない村井先生に「不白筆記」のその箇所を読んでいただいたうえで、わたしの仮説の可能性を吟味していただかねばならない。「また、のちほど」ということにして、ひとまず終えた。(P.60)

こうして一九八九年二月、久田宗匠、数寄屋棟梁の木下孝一氏、村井康彦先生、わたしの四人のメンバーで韓国に予備調査に入った。(p.74)

茶道史と日本史がご専門の村井教授に、茶室の建築や李氏朝鮮時代のことをお任せするわけにはいかないと判断し、いろいろ出演者の方をあたった。そして若手の建築史家、中村利則先生に会った。
ひととおり話をすると、中村先生はこう言われた。
「カルチャーショックだ。一晩考えさせてください。二〇年、何をやってきたんだろうと思う」。
わたしは中村先生に、自分の持つ資料をすべて手渡した。(p.80)

ここで、瀬地山敏氏の「あとがき」の重要箇所をもう一度おさらいします。

遺稿は、彼女が発見した仮説が、その妥当性を確かめるために韓国に同行した学者により、自説まがいに発表された経緯を、詳しく書いています。

つまりイニシャルだった方は、韓国に同行した方だということですね。村井氏が著者といっしょに韓国に入ったことは上記のとおりあきらかですが、この「あとがき」の韓国行の年月日が書かれていない以上、中村氏も別のときに同行していなかったとは言えないかもしれません。

なお、お二人ともこのNHKの番組のあとで、利休と待庵についての著作や雑誌の寄稿を発表されています。(本書の参考文献にも出ている)
わたしは、たぶんわかっているつもりですが、やはり瀬地山敏氏はお名前を明示されていたほうがよかったのではないかと思います。

最後にちょっとおかしな話を。
アマゾンでこの『利休 茶室の謎』を検索してみてください。絶版で中古で出品されている2点だけが表示されます。価格は本日現在8980円。(2000年の初版は1500円の本です)
よほどの稀覯本でなければたいていはヒットする国内最強の古書データベース「日本の古本屋」で本書を、あるいは念のために著者の瀬地山澪子で検索してみてください。いまのところ本書はヒットしません。
もうひとつおまけ。
わたしがこの本をなぜ手に取ったかがこれまた奇怪なはなしなのです。奈良県立図書情報館がわたしのいまいちばん良く利用する図書館なのですが、ここは開架式の本が豊富でぶらぶらといろんな分野の本をながめていくのが楽しいのですけれども、ぜんぜんジャンルのかけはなれた棚にこの本は置かれていたのですね。
「ありゃ、横着な人が、てきとうに棚に戻しちゃったんだな。戻す書架がわからないときはここに置いて下さいという専用のラックがたくさん用意されているのにさ、もう」
なんて言いながら、そのラックにもっていこうと、ぱらぱら目を通したら意外に面白そうだったので借りたのです。つまり、もしわたしが、この本を読みたいと思って、きちんとした図書分類であるべき書架を探したとしたら、わたしは絶対にこの図書館ではこの本をみつけることができなかったはずです。さて、さて、これはいったい……。(笑)

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2009/10/20

『利休 茶室の謎』の謎(上)

20091020 利休好みという言葉は、利休が好んだなになにというような意味ではなくて、いまふうに言えば、利休デザインということになるのだそうですが、そういうことをふくめて本書ではじめて知ったことは多い。なかなか面白い本です。
ただし感想はやや本筋をはずれたものになることをあらかじめお断りしておかねばならない。
著者は瀬地山澪子さんという。NHKの元デレクターで、すでに故人である。本書は末期癌で京都のホスピスに入院中に書かれ、遺稿として夫(当時、京都大学経済学部長を経て総長特別補佐であった瀬地山敏氏)に託された。
本書の内容は、利休のつくり出した美意識の背後には朝鮮の儒教文化への敬意が濃厚にあるのではないか、またその朝鮮への思慕が秀吉の朝鮮侵攻と対立したことが利休自刃の遠因ではなかろうかという、なかなか大胆な、しかし案外これはいけるかも、という感じの仮説であります。
NHK総合テレビ「歴史誕生」で1989年11月に放映された「利休茶室の謎—天下一宗匠の切腹」という番組として世間的には発表されているのだそうですが、残念ながらわたしは見ておりません。

この仮説にたどりつくまでの経緯が本書のひとつの主題であり、それを放送番組にどのように仕上げて行ったかというのがもうひとつの主題であります。しかし、本書にはもうひとつ重要な目的、意図があったことが誰の目にも明らかです。
遺稿を託された瀬地山敏氏の「あとがき」には、疼痛と死の不安の中で書き続けた遺稿にしてはきちんとした構成だったが、未定稿と思われる箇所などもあり、何カ所か手を入れたところもあることを明らかにして、次のような痛切な思いを綴っておられる。

手を入れたもののなかでいちばん彼女の気持ちにもとることになったのは、この本の「第2章、テレビ番組にする 8、編集・放送・反響」の中の小見出し「不愉快だったこと」に対応する部分です。遺稿は、彼女が発見した仮説が、その妥当性を確かめるために韓国に同行した学者により、自説まがいに発表された経緯を、詳しく書いています。彼女は遺稿の全部を、その学者のイニシャルで書き通しています。この本に付す予定の参考文献と8に到る文章で判ることでもあり、また職業上の敬意としても自然であるので、名前を起しました。その代わりできごとの委細を省くことにしました。わたしはこの悔しさが、彼女を二ヶ月にわたる作業に駆り立てた原動力のひとつだと信じています。死に近く人が執着するのは、生きているという事実そのものではなく、執着することがらがまだ果たされていないという事実のようです。執着はこうして二ヶ月の生をつくり出したという秘密を、わたしは厳粛に受けとめました。

つまり、著者にとって本書を世に問う、もうひとつの目的は「告発」ですね、はっきりいえば。だってテーマはすでに自分のテレビ番組として発表しているのだから。
だが、遺稿を託された方の立場は複雑でしょう。その苦渋が上記の「あとがき」にうかがえる。愛する者から託された、無念を晴らして欲しいという最後の願いにこたえたいという思いと、客観的にアカデミックな評価のバランスをどのようにとるべきか……。この点に関しては、わたしはあえて「委細を省くことに」されたことは賢明だっただろうなと共感しますが、ただひとつだけ問題がありまして、そのことを今回は書こうと思ったのです。

こういう「あとがき」を読めば、著者の「発見」を「自説まがいに発表」した学者、実名が書かれているお方はどなたかが一目瞭然でなければおかしいと思うのですね。ところがこれがどうもわかりにくい。(以下次号)

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2009/10/19

加藤和彦の文体

最近の出来事のなかでわたしにとってちょっと重かったのは加藤和彦の自死だった。
世代的には、兄としては少しはなれすぎているが、叔父さんと呼ぶには近すぎるといった感じの年回りで、たぶんこういう年齢の差が、子どものころにはいちばん影響を受けやすい対象であるのかも知れない。
ただし音楽ということであれば、わたしもごくふつうの人が知っている程度のことしか知らない。フォークル、イムジン河、タイムマシンにお願い、木村カエラ、エトセトラ・・・全部新聞やテレビが伝えていることだ。いまさら、わたしが書くまでもない。
だが、わたしには別の思いがあるのですね。だから、あえて書いておきたい。
じつは加藤和彦という人は、わたしにとっては、作文のお手本として大きな影響を受けた文章家なのであります。
1970年代のフォークブーム全盛期のころ、「guts」という音楽雑誌がありました。フォークギターを単純な循環コード、単純なストロークでジャカジャンとかき鳴らすレベルのギター少年がおそらく読者層の中心であったと思いますが、この雑誌に加藤和彦がしばらくエッセイを連載していたのです。
わたしがいまもこころがけている文章のスタイルは、たぶん、そのころ愛読していた加藤和彦の軽妙で読者サービスを忘れないという文体をいくらかでも真似ようとしているのだと思います。
どんな文体だったのかって?
うーん、たぶん、そのエッセイは本にまとめていないのではないかと思う。いまでは雰囲気しか思い出せないのでありますが、あえていうなら、ナショナル住宅の「家を建てるなら」というCMソングがありましたね。
「家を建てるなら/家を建てるならば/天体観測をする透明な屋根だってほしいのであります」。これ、作曲はもちろん加藤ですが、作詞は松山猛です。加藤和彦のエッセイの雰囲気はこんな感じでしたと言えばいいような気がする。いまから思えば、だからわたしが(記憶で)真似ている加藤和彦風の文体も、ほんとうは松山猛の文体であったのかもしれません。
しかし、いずれにしても、変に深刻ぶってみせたり自虐的になってみせたりするのはみっともないよ、人生にはたのしいことがたくさんあるんだから、軽快なステップでいかなくちゃね、という雰囲気がそこにはあったと思うんだなあ。しかし、どんなに勝ちまくりの人生のように、はたからは見えていたとしても、当人には「悲しくてやりきれない」ということだってあるのが、やはり人生なのかもしれない。
ご冥福を祈ります。

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2009/10/12

autumn collection

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1. Squirrel's-Eye View, 2. Kaapstad (ZA2), 3. Maple Leaf, 4. acorns, 5. Untitled, 6. Happy Weekend, 7. Stag, 8. Fall Ball, 9. Grasshopper..., 10. chestnuts, 11. The frozen dew., 12. Untitled, 13. Untitled, 14. the lamp, 15. Keyif, 16. Prickly fella Created with fd's Flickr Toys

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2009/10/07

活版の増刷方法

近所の書店で「考える人」の最新号(2009年秋号)を買う。
特集(活字からウェブへの……。)や、丸谷才一のインタビュー(詩は酒の肴になる)に興味を引かれたこともあるが、じつは、ほかにもちょっと気になることがあって発売をたのしみに待っていたのです。
この「考える人」は季刊誌なので、本屋さんにはまさに「わすれたころにやってくる」のですが、そういうことを補うように、週刊ペースの「考える人メールマガジン」というのがあるのですね。取材の裏話や企画の進行状況などを編集長の松家仁之氏が身辺記事のように書いている。これがなかなか読ませるので愛読しているのですが、先月のメールで以下のような予告(?)があったのであります。

印刷を終えた活字は、活字の並ぶ棚(馬棚と呼ばれるものなのですが、なぜそのように呼ばれるのかなど、詳しくは次号特集で)にもどされるものもあれば、溶かされてふたたび新しい活字として鋳造され、よみがえるものもあるわけです。活字はどうしても欠けたり摩耗したりしますから、いつかは必ず溶かされる運命にあります。
しかし、書籍は増刷される場合がある。一年後に増刷、などということも珍しくありません。十年、二十年にわたって何十刷というロングセラーもあります。その場合、組まれた活字はどうなるのか。ずっと組み置かれたまま、増刷を待っているのか。おそらく私のような、50歳以上の出版社に勤める者であれば答えは知っているはずですが……このことについては詳しくは次号特集で(思わせぶりですみません)。

うーん、これはちょっと盲点で、わたしは漠然と一度組まれた活字はそのページのかたちのまま印刷所の倉庫に積み上げられているのだろうと思っていたが、いわれてみればそれも不経済な話である。

いま手元にある本で見ると、たとえば平凡社、東洋文庫の『名ごりの夢』の奥付は

1963年12月10日 初版第1刷発行
2000年12月20日 初版第25刷発行

となっていますね。印刷は東洋印刷株式会社であります。
全部で300ページばかりの本ですから、単純に見開きで版を組むとしても150組の版型が必要ですね。(実際はたしか4面くらい一度に組むのではなかったかと思いますが)版の面積は本を見開きにした大きさでいいとして、厚さはたぶん一組について4センチくらいは必要でしょうから、全部積み上げると、4センチ掛ける150で、600センチ、すなわち6メートルの高さが必要になります。全部を積み上げるのではなく二つの山に分ければ3メートルの高さになりますので、それほど嵩張るものでもなさそうです。数千冊分の本の活版を原型のまま倉庫に保管するのも、物理的に不可能ではないかもしれない。だから印刷会社としては、むしろ保管場所の問題よりも、使った鉛を再生できないという原価コストのほうが問題となりそうです。

50歳以上の出版社に勤める人なら知っている答えとはどんなものかしらと、いろいろ考えたのですが、よくわからなかった。—というわけで、「考える人」の発売を待っていたという次第。まさに考える人になっていたわけで。(笑)
答えは、ああそうか、なるほどね、というものでした。どうぞみなさんも考えてみてください。

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2009/10/01

9月に読んだ本

『鬼平犯科帳 新装版〈10〉』池波正太郎(文春文庫/2008)〈再読〉
『夜は短し歩けよ乙女』森見登美彦(角川文庫/2009)
『谷川健一全歌集』(春風社/2007)
『鬼平犯科帳 新装版〈11〉』池波正太郎(文春文庫/2003)〈再読〉
『保田與重郎全集〈第4巻〉』(講談社/1986)
『古季語と遊ぶ—古い季語・珍しい季語の実作体験記 』宇田喜代子(角川書店/2007)
『セネカ 現代人への手紙』中野孝次(岩波書店/2004)
『鬼平犯科帳 新装版〈12〉』池波正太郎(文春文庫/2003)〈再読〉
『チャイルド44(上下)』トム・ロブ スミス/田口俊樹(新潮文庫/2008)
『木丹木母集 保田與重郎文庫 24』(新学社/2000)
『鬼平犯科帳 新装版〈13〉』池波正太郎(文春文庫/2003)〈再読〉
『英語の作法』斎藤兆史(東京大学出版会/2000)
『千利休より古田織部へ』久野治(鳥影社/2006)
『歌枕合』高橋睦郎(書肆山田/2005)
『鬼平犯科帳 新装版〈14〉』池波正太郎(文春文庫/2000)〈再読〉
『川を旅する』池内紀(ちくまプリマー新書/2007)
『バースデイ・ストーリーズ』村上春樹編訳(中央公論新社/2006)
『小説の秘密をめぐる十二章』河野多恵子(文春文庫/2005)
『鬼平犯科帳〈15〉特別長篇・雲竜剣』池波正太郎(文春文庫/2003)

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9月に見た映画

バーン・アフター・リーディング
BURN AFTER READING       
監督:ジョエル・コーエン&イーサン・コーエン
出演:フランシス・マクドーマンド、ジョージ・クルーニー、ブラッド・ピット、ジョン・マルコヴィッチ

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