あの人のご先祖さま
以前、国文学者の岩佐美代子が穂積陳重の孫であるということを書きました。(「光厳天皇と岩佐美代子」)
穂積陳重(のぶしげ)は安政二年(1855)宇和島藩家老で国学者の穗積重樹の次男として生まれました。御一新が十三歳ころだったことになりますね。以下、高島俊男の『お言葉ですが…別巻2』から引きます。
穂積陳重は、明治三年の「貢進生」の一人である。貢進とは「さしあげる」の意。貢進生は、全国諸藩が明治政府にさし出した年少の秀才学生たちである。はい、明治三年とは、東京に薩長中心の新政府ができているが、地方は江戸時代のままに二百数十の藩がある、とそういう時期なのであります。
この「貢進生」、各藩の神童たちを中央政府に召し上げて、薩長政権のために働かせると同時に各藩の未来の力を削いでしまおう、という狙いでしょうか。まあ、翌年の明治四年には廃藩置県が行われますので、貢進生という制度はこの明治三年に行われたきりだったのだそうで。あるいは、地方の優秀な頭脳を中央に集めるには、こういう「召し上げ」方式より、学校制度のほうが効率的だということもあったのかもしれません。
というのも、この貢進生、藩のほうにすりゃ虎の子の人材をとられちゃうわけですから、かならずしもベスト・アンド・ブライテストをさし出した藩ばかりというわけでもなかったらしい。このあたり上の高島先生の本にくわしく書かれております。いずれにせよ、十六から二十歳までの貢進生三百人が大学南校という学校に集められましたが、これが玉石混交、ほんものの神童もおれば情実でもぐりこんだボンクラもおった。
「豈図ンヤ、過半ハ其選挙甚疎漏ニテ、有志ノ者不多、就テハ自然懶惰ノ風俗盛ニ相成、追々勉強生徒モ之カ為メニ其志挫ケ候次第」
たまりかねた当局は、明治四年いったん大学南校を閉鎖して全員を退学させ、あらためて入学試験を実施、いいやつだけを残した。大学南校はもとをたどると幕府の西洋関係の研究機関である「蛮書調所」なんだそうですが、いずれにしても西洋の学問をやるところであります。そして、ころころと名前を変え、組織を変え、いまの東京大学につながることはご承知の通り。こうして全国から集められた貢進生のうち出来のいいのだけがふつうの大学南校の生徒となりました。
さて、この大学南校、明治七年に東京開成学校と改称して、翌八年、成績順に上位十一位までを第一回文部省貸費留学生として洋行させることになりました。なにせ、それまでの官費留学生というのが大半は、物見遊山の若殿様やら薩長の情実組でひどいやつが多かったので、ちゃんとした秀才を送り込むことになったのでありますね。その十一人中七人までがこの貢進生あがりだったといいますからさすがに出来のいいのも多かったのであります。
ところが穂積陳重はこの上位十一人からもれて、翌年の第二回の十人の留学生に入ることができたとか。ほう、上には上がいましたか、てなもんですが、ではこのときの第一回文部省貸費留学生に選ばれた首席は誰であったか、ちと興味がありますね。
高島先生の本によれば、第一番は真島藩(美作の勝山藩改称)の貢進生であった鳩山和夫、第二番は飫肥藩の小村寿太郎であった。小村は日露の戦の外務大臣、鳩山は現宰相鳩山由起夫の曾祖父であります。
華麗なる大富豪一族のスタートは貢進生あがりの書生であったか。ふーむ。
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コメント
こんにちは
こんな質問をしてよろしいですか。
桐一葉泣くおとうとに与へけり
というような句があり、作者は松瀬青々だと思っていたのですが、確認ができないでいます。
句も、これが正確なのかどうかもわからないうろ覚えなのです。もしおわかりになりましたら教えていただければうれしいのですが、、、
投稿: ovni | 2009/11/05 05:49
こんにちわ。残念ながらまったくわかりません。
邑書林から茨木和生さんの監修による『松瀬青々全句集』が出ていますね。図書館の棚にあるのを見たことがあります。今度、機会があれば、ぱらぱらと見てみましょうか。
投稿: かわうそ亭 | 2009/11/05 22:42
えー、お騒がせをいたしました。
判明したので、お知らせします。
桐一葉泣く弟に与へけり 松瀬青々
永田耕衣の「名句入門」(永田書房刊)のなかに
引用されていました。
読んだときにいいなあと思い、ノートに書き写しておいたのが見つかったのです。
ありがとうございました。
投稿: ovni | 2009/11/06 09:56
あ、どうも、どうも。ようござんした。
投稿: かわうそ亭 | 2009/11/06 18:25