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2009/11/15

みんな俳句が好きだった

2009_1115re 『みんな俳句が好きだった』内藤好之(東京堂出版)を読む。
副題は「各界一〇〇人 句のある人生」で、俳句にからめた「ちょっといい話」集といった趣。
著者は奥付の略歴や「あとがき」によれば、昭和18年生まれとありますから、いま66歳くらい。朝日新聞社の学芸部で朝日俳壇も担当しておられたようですが、実際に俳句をつくり始めたのは定年退職直前だったと書いておられる。(これには少し疑問があるが本書には関係ないことなので書かない)
ただし朝日俳壇の関係でしょうか、稲畑汀子主宰の誘いでホトトギスに入っていまは同人ということですから、ふつうのサラリーマンが定年で会社をやめて一念発起、俳句のお勉強をはじめたなんてのとははじめから五段階くらいの差はありそうではあります。いいんですけどね、べつに。(笑)

ま、悪口はそれくらいにして、(笑)本書自体は、人物のバックグラウンドを調べ上げ、きらりと光るエピソードを簡潔にまとめる手際はさすがにお見事。とりあげられた方々、へえ、と思うような興味深いエピソードが満載で、俳句関係の本にしてはそれ専門の出版社でもなく、装丁も軽めなのでちょっと目にはたいしたことなさそうに見えますが(失礼)これはなかなかオススメの一冊でありますよ。
内容見本代わりに、宣伝をかねてわたしが、そのいくつかをご紹介。

俳誌「雲母」で多くの弟子を育てた。俳壇の巨星でありながら、自分の句碑の建設を頑として許さなかった。現存の句碑はただ一つ、一九六二(昭和三七)年、七十七才で死去した翌年に作られたものだ。
結社の人たちから半強制的に寄付を集めて句碑を建てようとする俳人もいる昨今。その俳句同様、心のたたずまいもびしっと伸びた人、蛇笏の存在が光る。
飯田蛇笏

啄木は二年前、盛岡中学を中退、文学で身を立てるべく上京している。きっかけは、二度にわたるカンニングが露見、落第必至となったため、とされる。当てもなく上京した啄木を真っ先に訪ねて来たのが、盛岡中の一年上級で文学仲間だった一高生の野村である。野村は、啄木の学業放棄の無謀を戒め、神田辺りの学校を一緒に回って、編入可能か聞き歩いてくれた。この野村こそ、後に、『銭形平次捕物控』と音楽評論(筆名あらえびす)で知られた野村胡堂である。
結局、欠員は無し、就職もかなわず、体を壊して意気消沈した啄木は、四カ月足らずで澁民村に舞い戻る。
石川啄木

一九〇七(明治四〇)年、大阪に生まれた。兄は後の高名な俳人山口誓子。四歳で母と死別、下田家の養子に。養父が亡くなったため、養母の苦労を軽くしようと、十四歳でお酌に出て、芸妓となった。(中略)
この句集に、兄誓子は、自分が十一、実花が五歳の時、品川駅で会った時の思い出を、「おかっぱで鼻の頭に汗疣。その汗疣を見たとき、母を失ったお前の不幸を痛感した」と寄せた。
下田実花

一九〇九(明治四二)年、奈良県生まれ。父に従い上京、お茶の水の文化学院中等部に入り、俳句を高濱虚子、短歌を学監の与謝野晶子から習った。授業以外に勝手に作った句にも、ウソコ先生(生徒らが付けた虚子のあだ名)は多忙の中、目を通し、好い句には○を付けて手紙で送り返してくれた。
石橋秀野

青森高校在学中、十六歳にして全国の高校生に呼びかけ、十代の俳誌「牧羊神」を創刊、編集に当たる。(中略)有力俳人にも寄稿や選を依頼、十回発行して終ったが、中村草田男、西東三鬼、秋元不二男、山口誓子、橋本多佳子、津田清子らの知遇を得た。異彩を放つのが、津田の寄せた率直そのものの感想。「特別作品として推せんしたい作品は見当たりませんが、私の無礼に御立腹下さい」というものだった。
寺山修司

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コメント

 読みました。

投稿: 意思 | 2012/05/15 22:49

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