さてわたしとは何なのか
人間とは何か。
という形で問いを立てたことが、じつは、私にはない。
というよりも正確には、私にとって、問いは、どういうわけか常に必ず、
人間とは何か。
と、問うているところのこれは何か。
の形をとる。「デカルトを擁護して」
『私とは何か さて死んだのは誰なのか』
池田晶子
「わたし」とはなんであるか。「わたし」はどこにいるか。
あるいはもっと簡単にこう言いかえてもよい、「わたし」とはすなわち脳のことであるか。
だが脳というのはつまるところ臓器のひとつである。この細胞の塊が「わたし」であるかといえば、どうもそうではないような気が誰でもするであろう。
「わたし」というのは脳のなかでつくられているものだ、ニューロンの発火がすなわち「わたし」というものだと説明されると、ああそうなんですか、ふーん、なるほどね、というくらいの気持ちにはなるけれども、どこか完全に納得しかねるような気分が残る。
それに対して、いやじつは、「わたし」は脳をつかって「わたし」のことを考えているのじゃないかしらと言ってみると、案外このほうが真実に近いような気がしませんか。わたしはしますね。
頭のいいやつ、わるいやつ、と一口に言うけれども、それは脳の産物であるところの「わたし」の品質の差だといわれるとどうも立つ瀬がないが、いや、そうではなくて「わたし」というものがそもそも先にあって、これがそれぞれ自分の肉体に与えられた臓器としての脳をつかって考えているのだよ、だからこれは駆けっこが速いかどうかと本質的な違いはないのよね、と言われると精神衛生上はなはだよろしいのであります。
いまこれを、そもそも心身二元論などというのは、なんて言葉で言われると、ははあ哲学ですか、わたしらバカだからわかりませんと思ってしまうけれども、いやなに、これは脳が先か「われ」が先かの問題なのであります。二元論はちかごろ旗色が悪くて魂があるなんてのはオカルトじゃん、バカじゃんということになっているのでありますが、これは考えてみるとなかなかそう簡単な問題ではない。
わたしにとって「わたし」がまちがいなくあるというのは、これは自明のことで疑うことはできない。
失礼を承知で申し上げれば、あなたにとっての「わたし」がほんとうにあるのかどうかは確信はもてません。たぶんわたしの「わたし」が絶対であることから類推して、あなたの「わたし」もたぶんあるのだろう。まあそういうことにしておいてあげよう。疑えばきりがないもんね。まあ、あんたの「わたし」があることで、わたしとしては別にこまるわけではないから、あんたがどうしてもあるというならまあ認めてあげるけんね、とお互いに思っているのが、「わたし」というものなのである。
わたしにとって「わたし」があることは自明だが、それをお見せしたり、示したりすることは誰にもできない、というのは、たとえば「痛み」というのとじつは同じであります。
あなたがリビングの椅子に裸足の小指の先を思い切りぶつけたとする。
「イッテェー!!」と叫ぶ。この痛みがあることは疑いをいれない。
だって死ぬほど痛いんだもの。そりゃあるに決まっている。でもちょっとまってくれ。その小指が痛いというけれど、痛みはそこにはないのである。だって痛みを感じているのはあんたの脳である。脳が痛みを感じているのなら脳が痛むかといえば、いやもちろん脳は痛くない。小指が痛いのである。しかし、さてこの痛みというのはどこにあるのか、それは物質なのか、そうではない。それは信号なのか、まあそうだろう。だが、神経を流れる信号のパルスをいくら波形で表してみても、そのときに伝達される神経物質を抽出してみてもそれと「痛み」そのものは同じではない。痛さというのははただの脳の中のイルージョンにすぎないなんていう奴がいたら、くそったれ、同じ目にあわせてやろうじゃんか、てなもんであります。
つまり「わたし」というのはそういうもんなのでありますな、おそらく。
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