四十七士の最後の男
「肌身付けの金を分ける」
と、内蔵之助が云った。大高源吾が、風呂敷包の中から、紙に包んだ物を出して、自分の左右へ
「順に」
と、いって渡した。人々は、手から手へ、金を取次いだ。源吾が
「四十四、四十五、四十六っ」
と、いって、その最後の一つも自分の右に置いた。内蔵之助の後方に、坐っていた寺坂吉右衛門はさっと、顔を赤くして、俯いた。と、同時に、内蔵之助が
「これで、有金、残らず始末した」と、いった。吉右衛門は、口惜しさに、爆発しそうだった。
士分以外の、唯一人の下郎として、今まで従ってきたが——
(この間際になっても、俺を、身分ちがいにするのか?)
と、思った。悲しさよりも、憤りが、熱風のように、頭の中を吹き廻った。
「寺坂吉右衛門の逃亡」
直木三十五
元禄十五年(1702)十二月十四日、高家吉良上野介義央の屋敷に討ち入って主君の仇討ちをみごと果たした赤穂浪士はふつうは四十七士と称されます。いろは四十七文字にかけて『假名手本忠臣藏』となったいきさつは御存知の通り。
ところがあれはじつは四十六士である、という説もむかしからあるそうでして、古くは太宰春台、近いところでは徳富蘇峰などが、いや四十七士のうち寺坂吉右衛門信行という足軽が逃げてるじゃないか、と指摘しているのだそうです。いやもちろんわたしはどちらも読んだわけじゃないけどね。
なお冒頭の「寺坂吉右衛門の逃亡」は、ごくごく短い小説で「青空文庫」で読むことができますが、やはり寺坂逃亡説であることはこの引用からも想像できると思います。この時代の人に、そこまで「身分ちがい」への憤りが起きただろうかという疑問はありますが、この憤りによって寺坂は討ち入りなんか誰ができるかと、逃げたんだというのが直木三十五の説。
たしかに寺坂吉右衛門は、延享四年(1747)八十三歳で天寿を全うしていることが記録に残っているそうですから、かれが途中で義士と袂を分かったことは間違いない。問題はそれが無許可の逃亡なのか、それとも大石内蔵助らの密命によるものなのかということであります。で、まあ庶民としては、ここはせっかくの美談に水を差したくないし、いろは四十七士で覚えやすいんだから、大石の指図で泣く泣く、国元への報告に帰らされたんだ、ということにしておこうぜ、ということであったのではないかと思われます。
ところで復本一郎の『俳句芸術論』(沖積社)所収の「義士俳人としての寺坂吉右衛門」によれば、この寺坂吉右衛門はやはり義士だった、すなわち他の同志にその行動を認められていたんじゃないかということですな。
義士のなかには十指に余る俳人がおり、けっこう名の通ったところでは富森助右衛門(春帆)、大高源吾(子葉)、神崎与五郎(竹平)なんて人がいました。三人とも其角の交遊圏にあり、とくに大高源吾と其角の関係はよく知られている。
でもって、復本氏の考証によれば、疑惑の寺坂吉右衛門も俳人ではなかったというのですね。寺坂は上にちらりと述べたが、直接浅野内匠頭に臣従する身分ではない。主人は吉田忠左衛門といい、もちろんこの人も義士の一人であるわけですが、嵐雪の流れを汲む白峰門の俳人で、その俳号を白砂といった。その家来の寺坂が進歩という俳号で登場する正体が確定されていない俳人であろうというのです。復本氏によるくわしい考証の道筋は煩瑣なれば省略しますが、他の義士俳人と並んで子葉こと大高源吾の選集などに収録されていること、またこの大高源吾が俳人水間沾徳に義挙を報ずる手紙というのがあるのだが、そこに「進歩事のみ気の毒」という一文があることなどから、やはり進歩=寺坂吉右衛門は義士と行動をともにすることを許可されず、別の任務を与えられたと思えるが、それでも四十七士の一人としてみるべきではなかろうか、というのであります。
進歩の句は次のようなものでした。
うつくしい顔に化粧や花曇
身の軽き生まれつき也種ふくべ
風蘭よ我もうき世の中に居る
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