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2010年1月

2010/01/26

頼山陽「兵児の歌」

藤原書店の『一海知義著作集 第9巻』から。

頼山陽に「兵児の歌」と題する楽府体の詩がある。楽府(がふ)というのは民間歌謡風の詩である。

衣至骭
袖至腕
腰間秋水鉄可断
人触斬人
馬触斬馬
十八結交健児社
北客能来何以酬
弾丸硝薬是膳羞
客猶不属饜
好以宝刀加渠頭

訓読は以下の通り。

衣は骭(すね)に至り
袖は腕に至る
腰間の秋水 鉄も断つべし
人触れなば人を斬り
馬触れなば馬を斬る
十八 交わりを結ぶ健児の社
北客 能(よ)く来たれば何を以て酬いん
弾丸 硝薬 是れ膳羞(ぜんしゅう)
客 猶お属饜(あきたら)ずんば
好し 宝刀を以て渠(かれ)が頭に加えん

和訳として。

裾は すねまで
袖は 腕
腰の剣は 鉄も断つ
人がさはれば 人を斬り
馬がさはれば 馬を斬る
若さを誓ふ 兵児(へこ)仲間
北の客人 来るならば
えんしょ(硝煙) さかな(肴)に弾丸(たま)会釈
それを聞かずに 来るならば
首に刀を ひきでもの

以下は一海先生の文章を引く。なんだ、丸写しかよ、と怒られそうだが、読んでもらえばわかるように孫引きに近いものなのでご容赦のほど。

あとの和訳、なかなかのもの、と思わせておいて、実は「白状すると、これが原作なので、もともとこれが当時の薩摩(鹿児島)の民謡なのであった。山陽がそれを漢詩になおしたもの」とタネをあかすのは、土岐善麿氏の訳詩集『鶯の卵』である。ただし、戦後再版された『鶯の卵』(春秋社、一九五六年)には見えず、戦前の版(改造文庫、一九三二年)の序文にあたる「漢詩邦訳に就て」の中で紹介されている。戦後の読者の目にはふれにくいと思われるので、再録した。

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2010/01/25

五吟歌仙 峡深くの巻

筑摩書房の『定本柳田國男集 第二巻』の配本月報(昭和43年7月)に中村汀女の「連句の会」という一文が掲載されている。汀女がどういういきさつでかはわからないが、柳田國男(柳叟)、加藤武雄(青城)、松井驥(鴑十)、宇田零雨(零雨)、小宮豊隆(蓬里雨)といった先生方を連衆とする連句の会に加わっていたときのことが書かれている。

「宇田零雨氏のお世話で、加藤武雄氏のお宅で毎月つづけられてゐた会である。」とのこと。

調べてみるとこのメンバーのなかでは加藤武雄が亡くなっているのが、昭和31年なので、たぶんこの月例の歌仙興行は昭和20年代の後半のことではないかと思われる。
加藤武雄は新潮社の編集者から作家になった人。こちら参照
松井驥(き)という人はわたしは不勉強で知らなかったが、ネットでは「辞書の家」松井栄一氏ロングインタビューというホームページがあって、へえ、そういう方だったのかと驚いた。俳人の大須賀乙字はこの松井驥のお姉さんの旦那さんだったとのこと。
宇田零雨は俳誌草茎の主宰。芭蕉を研究テーマにしてはじめて文学博士となったそうだけれどわたしはどういう方なのかはよく知らない。こちら参照。1996年に90歳くらいで亡くなられているのでこの連句の会のときは、40代の半ばくらいだったと思われる。
小宮豊隆はよく知られているので説明の必要はなかろう。

汀女によれば、加藤武雄が「連句とは、井戸の中で長刀を使ふことだ、あつちこつちに突つかえてばかり」と言ったそうだが、これはじつに言い得て妙であります。この連衆が巻いた歌仙一巻が参考に、と掲載されていて、これがなかなか面白いものだった。古いものだし、全集の配本月報掲載ということで、あんまり目にふれる機会もないかもしれないので、ここに転載しておきます。どこかの本に収録されていたらごめんなさい。

五吟歌仙 峡深くの巻

峡深くわが追憶の雪残る     零雨
  虻鼓打つ川沿ひの窓     柳叟
芹摘のもどりはまたも声かけて  汀女
  都なつかし夕雲の紅     青城
葛結ふ小屋も今宵は月あらん   鴑十
  竈馬離れぬ酒樽の口     零  (竈馬:いとど)
女郎花老いて歌人のうつつなや  柳
  その横顔をしかと覚えつ   汀
スターなれや裏紫のマスクして  青
  朝の歩廊に雨しぶくなり   鴑
ほろほろと小さき柩を抱き上げ  零
  長き旅路をかたるかりがね  柳
裏戸より訪れ来るも月の客    汀
  闇で買ひたる新蕎麦の味   青
定紋の会席膳を自慢にて     鴑
  気狂ひじみた法華三代    零
百万の子を見つけたる嵯峨の花  柳
  南座を出て春宵の橋     汀
ポッコリの重たき裾をさばきかね 青
  いつも泪にうかぶ俤     零
雲の波君を隔つる三千里     柳
  思ひ返して青簾吊る     汀
風軽く心字の池の白あやめ    青
  葉巻の香り残す米兵     鴑
ジャズ鳴らすケーブル駅の待合所 零
  亀は背を干す苔の巌に    柳
電話よく聞えし後の沙羅の月   汀
  水より淡き秋の灯      青
板葺の関屋は霧の中にして    鴑
  灸こらえる骨太の臑     零
虫ばめり笈の持仏に供養せん   柳
  母を見守る子の年あはれ   汀
細路次に煤ふりやめば黄昏るゝ  青
  枡をこぼれて蛤の落つ    鴑
花の香に日癖となりし潮曇り   零
  柳は遠し吹浦象潟      柳  (吹浦象潟:ふくらきさがた)

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2010/01/20

『北畠親房——大日本は神国なり』

20100120re 岡野友彦の『北畠親房』は、最初のほうは(北畠家の系図しらべなどのあたりがとくに)ちと読むのがつらいのだが、三分の一くらいを我慢して読み進むと、はなしは俄然面白くなる。とくに親房が楠木正成の尊氏との和睦の進言を退けて大敗を喫し、後醍醐が吉野へ逃れるきっかけとなった湊川の戦いと、それから十数年後、今度は後醍醐の皇子、南朝第二代の主上後村上天皇の政権中枢に返り咲いた親房が、これまた正成の嫡男楠木正行の北朝政権との和平工作を握りつぶし、河内国四條畷で高師直・師泰と合戦を命じて大敗、勢いに乗る、師直・師泰兄弟に「吉野の君をも取り奉るべし」と、吉野の山中へ攻め込まれて南朝はついに賀名生(あのう)の地へと落ちて行った、このふたつの決定的とも言える南朝劣勢の原因をつくったのが北畠親房であり、その犠牲となったのが楠木正成、正行親子であったというのがなかなか面白い。

もうひとつ本書の見所は、これは南北朝の歴史というよりも、はるか後年、水戸光圀の『大日本史』の史観について、あっと驚くような説を紹介しているところだろう。いや、もちろんこんなことは日本史について造詣の深い人なら、なんだそんなこと、と常識の範囲なのかもしれないが、わたし的には、かなり目からウロコの学説であったので、ここに覚えをとっておく次第。
水戸学が南朝を正統とし、これがさらに時代をくだって幕末の尊王攘夷思想の背景になったわけだが、この『大日本史』は朝廷に対する、極めて挑戦的な「危険思想」であったのだ、という解釈があるのだそうです。以下少し長くなりますが、本書から引用。

例えば、光圀の片腕として知られる安積澹泊の書簡によると、澹泊がはじめて史館に入った時、光厳天皇から後円融天皇に至る北朝五主の伝記は、列伝に降ろされていた。(中略)『大日本史』が採用した紀伝体と言う形式は、皇帝在位中の年代記である「本紀」と、臣下の伝記である「列伝」から構成されていた。つまり光圀が立てた当初の構想は、時の天皇を「臣下」の子孫と見なしていたことになる。安積はこの点を懸念し、北朝五主の伝記を後小松天皇の冒頭に移した。しかし、それにもかかわらず南朝を正統とする『大日本史』の見解は、「時勢に不可なるところあり」、あるいは「当主のために忌むべきものあり」などとして(藤田幽谷「校正局諸学士に与ふるの書」)、永らく朝廷への献上が実現せず、『大日本史』の書名についても、その勅許を得ることができなかった(日本思想体系『水戸学』)。
それでは光圀は、なぜこのような危険を冒してまで、南朝を正統としたのであろうか。この点について極めて明快な見通しを示されたのが、近世思想史の大家尾藤正英である。尾藤は、後に藤田幽谷が「易姓革命のないわが国では、史書に国号を冠するのがそもそも誤りである」として、『大日本史』という書名を批判していることに注目され、『大日本史』が、

(1)紀伝体という中国のオーソドックスな史書の体裁に準拠しようとした点
(2)神武天皇から南朝の滅亡までの期間を対象として立てられていたこと

などから、当初の計画では、南朝を正統の王朝と見なすとともに、その滅亡によって、一つの王朝の歴史が完結したと考えられていたのであろう。

という括目すべき見解を示された。(「水戸学の本質」)。すなわち『大日本史』とは、後漢の班固・班昭らが、前漢の歴史を『漢書』という紀伝体の史書として編集したのに倣い、武家政権(いわば「後日本」)の正統なる継承者である徳川家が、「神武天皇に始まって南朝へと継続した王朝の、建国から滅亡にいたる歴史」(これこそ『大日本史』)を編集しようとしたものであり、そう考えたとき、室町時代以降の北朝は、武家政権に擁立された新王朝であって、前の王朝の正統なる後継者とはみなされない。それが南朝正統論の本来の意味であった。

というのである。

いや、驚いたが、考えてみればじつにすっきりした解釈ではあります。

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2010/01/19

GARDEN OF PAINTING

中之島の国立国際美術館で開催中の「絵画の庭——ゼロ年代日本の地平から」を見に行く。新築移転5周年記念だそうな。早いものだな。
英文の表記のほうが気分が出ている感じなので、参考までに。

Fifth Anniversary Exhibition
GARDEN OF PAINTING
Japanese Art of the 00s

20100119 展覧会の目玉が奈良美智(よしとも)であることは、彼の2001年の作品である「The Little Judge」がチケットやポスターに使われていることでも明らかだが、じつのところ現代美術にはなじみがないので、ほかに知っているのは、草間彌生と会田誠くらいだった。会田誠を知っていたのは、たぶん「芸術新潮」か「美術手帖」かで「Picture of Waterefall」という作品を見て印象に残っていたためだと思う。実物は、見上げるような大作で、いささか(というよりかなり)性的な幻想を誘うインパクトあり。知ってる人は知ってるだろうから、どういう絵かはあえて書きませんけど。また一緒に展示してある「Blender」(「ジューサーミキサー」)を、近寄って見て、思わず「うっ」と呟いた。気の弱い方は、悪夢に見るかもしれない。これまたどういう絵かは書かないほうがいいだろう。

美術雑誌やグラビヤなどでは、奈良美智の、口をへの字に結んで、こっちを睨みつける前髪を上のほうで切りそろえた少女はおなじみだが(ここ)、オリジナルを見たのは今回がはじめてだった。きれいなものだな、と思った。「after the acid rain」の少女の目を見つめているうちに、どこかに忘れてしまっていた感情をゆさぶられたのだろうか、気づくと、思わず目頭が熱くなっていた。不思議だ。もちろん、個人で買えるようなものではないけれど(絵画に億単位の金が使える身分ならともかく)ああ、これ欲しいなあ、と思った。(どこに飾るつもりやねん(笑))
観客も長く足をとめて見入る人が多かったように思う。

あと、今回はじめて知った画家で、これはすごい才能だな、と思ったのは加藤美佳という人だ。1975年生まれ、愛知県立芸術大学美術科油画科卒業。こちらで作品を見ることができるが、「Canaria」にまず圧倒され、しかし「a tomb for all of us」という小品などにも繊細な感受性がうかがえてわたしは好感をもった。

ほかに注目したのは、池田光弘、厚地朋子といったアーチストだが、それぞれのお名前でググるといくつかヒットして多少のイメージをつかむことができるようだ。ウェブ時代の新世代は、わたしのような門外漢にさえ名前を売ることができるということかも知れないなあ。

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2010/01/12

Evernote

「Evernote」というウェブ上で使うデータベースを試してみた。
イメージとしては、なんでも書ける、なんでも張り付けることができる伸縮自在な京大カードと思えばいいのだろう。このカードを何千枚でも好きなだけ入れることができる自分専用ボックスをウェブのなかに置くわけだ。
でもって、このウェブ上のカード・ボックス、検索すれば該当する項目を含んだカードを抽出してくれて、そのカードをボックスから取り出すと、シンプルな二、三行のテキスト・クリップだったり、でかいエクセルのシートやウェブページだったり、ヴォイス・メモだったりするというわけである。
もちろん好きなだけ入れることができるというのは有料のメンバーだけで、無料で使う場合は月に40メガまでという制限はある。でも40メガあれば、テキスト中心なら、まず使い切れないはずだ。

このブログでも何回か書いて来たように、わたしが読むのはたいていは図書館の本なので、気に入った箇所があっても、手元にある本を読み返すというわけにはいかない。「あ、これは」と思ったときには、そこの文章を書き写すクセがむかしからあって、いちばん最初は手書きのノート、やがてパソコン・ソフトの「知子の情報」で個人的な引用データベースをつくっていた。数年前にマックを使うようになってからは、エディター(「mi」)に打ち込んでおけば、全文検索ができるので、いちいちカードのようなものはつくっていない。ただ、この方式だとテキストしか扱えないし、いくら検索ができるといっても、いまひとつだな、という気がしていた。

201001126c そこで、この「Evernote」だが、思いつくままに、自分のアイデアを書き込んだり、わたしがやっているような本の抜粋をカードにしたりするだけでなく、写真、音声、PDF、ウェブ・ページなどおよそデジタル化した資料はすべてこのカードに貼付けることができる。しかも、まあ、わたしにはあんまり関係ないが、このカードを納めたカード・ボックス(これを「Evernote」と呼ぶわけね)を、指定した人と共有することもできる。

ビジネスの場面なら、たとえば名刺をイメージごと取り込んで同僚と共有するという活用もありそうだし、論文やレポートをまとめなければならないような人であれば、アイデア.プロセッサーのように使うこともできそうだ。

もうひとつ、このサービスが面白いのは、当然モバイル環境でもつかえるということで、たとえばわたしの新しいオモチャである iPhone のアプリにも「Evernote」がある。これで、自宅にいないときでも、自分のデータベースの中身を見ることができるだけでなく、外で思いついたアイデアを新しく打ち込んだり、撮った写真を貼付けたり、自分の声で説明したりしたカードを追加していくことができるわけね。
これまた、わたしにはあんまり関係ないが、移動の多い職種の人や、たとえば社会学や民俗学などのフィールドワークをする学生などにはけっこういい道具かもしれないね。

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2010/01/08

『リンカーン弁護士』

20100108_2 マイクル・コナリーの『リンカーン弁護士』(講談社文庫・上下)は、いわゆるリーガル・サスペンスというジャンルになるのかな。コナリーの小説は、刑事のボッシュが証人として出廷する場面もたくさんあるので、本書もとくに目新しいという感じはまったくなくて、ぐんぐん引き込まれるいつもの展開だなあという感想なのだが、あえて言えば、これまでは主人公がたいていは犯人を追いつめる側の立場で描かれていたのが、本書については、これが180度反対の被告側の立場から描かれていることが面白いと言えばいえるかもしれない。

ただし、このように弁護士を主人公にしたミステリーやスリラーというのは、依頼人が無実ならいいのだが、そうでない場合はちと問題であります。
なぜなら、もしもですよ、危険きわまる快楽殺人犯が逮捕されたのに、やり手の弁護士がこれを裁判で無罪にして、ふたたび社会に解き放ちました、なんてストーリーをつくっても、あんまり売れるとは思えない。
勧善懲悪なんて陳腐だと言うかもしれないけれど、そこをいろいろなヴァリエーションで読者を翻弄するのがストーリーテラーの腕の見せ所というもので、結末はしかし、つねに卑劣な人殺しは破滅しないと読者としてはすっきりしないのである。
『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』じゃないんだからさ。

だが、主人公のキャラクターが魅力的であればあるほど、読者はかれの思考や感情に同調し、その行動に手に汗握って声援を送るのが読書の楽しみだと思う。手ごわい敵のたくらみを打ち破って勝利を得ることが読後のカタルシスになって、わたしたちは満足する。
となるとですね、もし、弁護しなきゃいけない依頼人が真犯人かも知れないという疑いが濃厚にある場合は、主人公が裁判に勝つというカタルシスは同時に、もしかしたら真犯人を無罪にしてしまうというフラストレーションにつながるわけであります。
こういう二律背反を(大げさに言えば)止揚してさらに大きな枠組みのなかで、読者を驚かせ最終的に満足させるというのは、これはじつに困難な課題であると思う。
こういう二重否定、三重否定の構造を語らせると、さすがにコナリーはうまい。わたしはあらためてこの作家の腕前に感嘆し、大いに満足しましたね。

タイトルについて一言。リンカーン弁護士というのは、主人公ミッキー・ハラーがリムジンの後部シートを「事務所」にして、LA中を走り回る刑事弁護士であることからきている。その筋ではやり手でお得意様は常習的な犯罪者の皆様方である。連中の警察に捕まった容疑は事実そのとおり、証拠もがっちり、いまさら目の玉が飛び出るような報酬を請求する弁護士なんかたのまなくても、いわゆる公選弁護士でいいんじゃないのと、善良な小市民であるわれわれは思ったりするけれど、そうではないことが、ミッキーの日常を追うとよくわかります。つまり、かれが行う法律行為は、罪があるかないかを争うということではまったくないのですね。依頼人が有罪であることは、魚が鰓呼吸していることと同じくらい明白です。かれがやるのは、要は警察や検察の証拠にけちをつけて、刑を少しでも軽くするという仕事であります。判事は面倒な裁判なんかやりたくないし、検察だって裁判で陪審員なんかに評決させて万一にも負けるなんてリスクはおかしたくないわけで、ここに司法取引と言う不思議な世界が出現する。もし被告が有罪を認めれば、刑務所に入るところを保護観察つきの保釈にしてやるとか、15年の懲役を10年にしてやるとか、そういうバザールの値段交渉みたいなことが行われるわけですね。そして、公選とちがって高額な報酬を要求する弁護士はタフなネゴをしてくれるから、犯罪者は有り金ぜんぶもちだしてもハラーに依頼をするということになるのであります。

ただ、こういう世界には当然いくつも弊害があるわけですが、その最たるものは、もしかしたらほんとうに無実の人間を、有罪にしてしまうかもしれないということです。なぜなら、もしわたしがある日、殺人事件で起訴されたとします。もちろんわたしは身に覚えがない。しかし、わたしの無実をあきらかにする証拠はなく、逆に検察の証拠やかれらが組み立てたセオリーは陪審員たちに説得力をもちそうだ、とします。さらに、もしわたしが負けた場合は、死刑になる可能性が濃厚だとします。この場合に、もちろん感情的には、真実をあきらかにするために、大陪審で「それでもわたしはやっていない」と言いたいのは当然です。しかし争って負ければ死刑。しかし有罪答弁をすれば終身刑で実質的には15年くらいで出てこれるよ、といわれた場合は迷うでしょうね。司法取引で涙をのんでやってもいない罪状で服役している囚人だっていないとは限らない。おそらく、これが刑事弁護士の悪夢に違いないとわたしも思う。「無実の人間ほど恐ろしい依頼人はない」という本書のエピグラフのゆえんであります。

ところで本書には刑事弁護士についてのジョークがふたつばかり出てきます。そしてこれが小さな伏線にもつながる仕組みになっています。刑事弁護士と何々の違いはなーんだ、というやつですね。これいろいろなパターンがあって笑えます。本書に出てくるのはどうぞ実際にお読みいただくとして、わたしが一番好きなやつを最後にご紹介しましょう。

「ハイウェイで死んでいるスカンクとハイウェイで死んでいる弁護士のちがいがわかります?」
「いや、なんだ」
「スカンクの前にはブレーキのあとがある」

ジョン・サンドフォード『サディスティック・キラー』より

リンカーン弁護士〈上〉 (講談社文庫)

リンカーン弁護士〈下〉 (講談社文庫)

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2010/01/02

Twitter

昨年末の一年の振り返りのなかで書いたことにも関連することだが、しばらく前からブログの記事が書きにくいなあと思うことが多い。わたしのあんな程度の文章でも「よいこら、どっこいしょ」みたいな気合いが多少は必要なのであります。
ということもあって、この正月からTwitter をはじめてみた。(べつに鳩山総理に倣ったわけではないよ(笑))
このサービス、だいぶ前から知ってはいたのだが、なんとなくだらしのない感じがして、まあ、わたし向きではないわな、という風に思ってきた。「男は黙って」のほうがやはり好ましいと思う世代なのでありますね。

Twitter というのは、小鳥のさえずりなんかを意味する言葉で、ユーザーの「つぶやき」を、そのピーチクパーチクになぞらえているのかもしれませんが、すこし使ってみた感覚で言うと、これはこれでなかなか面白いものであります。ちょっと大げさかもしれませんが、よくSF映画なんかで、テレパシーの能力に目覚めた少年が、人々の意識の断片である言葉の洪水に圧倒されるようなシーンがありますね。ちょっと、あんな感じに似ているかもしれない。いや、もちろん錯覚ですけれどもね。

もうひとつ面白いのは、このTwitterという仮想的な社会と、リアルな社会の繋がり方が、これまでのネットのコミュニティとも微妙に異なっていることでしょうか。端的な例が、たとえば冒頭にも書きましたが、鳩山総理がTwitterをはじめる(いや、もちろんわたしは、ご本人が実際にやってると思うほどナイーヴではありませんし、すでに総理自身がそのことは明らかにしておられますけれども)ようなことにあらわれています。つまり、これまで、うんざりするくらい議論されて来た、匿名と実名の問題が、比較的うまい具合にクリアされて、どちらも(つまり実名を使いたい人も、匿名でいたい人も)それなりに使い勝手がよく、自分の目的にかなった利用ができるような技術になっているように見えることです。

そういうところが、わたしはなかなか面白いと思うのですが、この感覚は、じっさいにやってみないとわかりにくいかもしれません。
まあ、そのうち飽きると思いますが、しばらくはこれで遊べそうですし、案外、これがいいガス抜きになって、ブログの方の記事も増えるということになるかもしれません。そうだといいのですがね。

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2010/01/01

2010年謹賀新年

2010gree_2 春初謾成 尾池桐陽

疎懶人依舊

春風入曲肱

梅花一瓶水

中結去年氷

疎懶、人、旧により
春風曲肱に入る
梅花一瓶の水
中に去年の氷を結ぶ

今年ものんびりいきましょう。

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12月に読んだ本

『定信お見通し—寛政視覚改革の治世学』タイモン・スクリーチ/高山宏訳(青土社/2003)
『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』アントニオ・R・ダマシオ/田中三彦訳(ダイヤモンド社/2005)
『エモーショナル・ブレイン—情動の脳科学』ジョセフ・ルドゥー/松本元・他訳(東京大学出版会/2003)
『鬼平犯科帳 新装版〈20〉』池波正太郎(文春文庫/2004)
『文学は別解で行こう』鹿島茂(白水社/2001)
『The Annotated Lolita』Vladimir Nabokov /Alfred Appel, Jr. (Vintage)
『鬼平犯科帳 新装版〈21〉』池波正太郎(文春文庫/2003)
『読みなおし日本文学史—歌の漂泊』高橋睦郎(岩波新書/1998)
『パリの日本人』鹿島茂(新潮選書/2009)
『俳句芸術論』復本一郎(沖積舎/2000)
『新版 馬車が買いたい! 』鹿島茂(白水社/2009)
『江戸の女―鳶魚江戸文庫〈2〉』 (中公文庫/1996)
『鬼平犯科帳 新装版〈22〉特別長篇 迷路』池波正太郎(文春文庫/2003)
『鬼平犯科帳 新装版〈23〉特別長篇 炎の色』池波正太郎(文春文庫/2003)
『鬼平犯科帳 新装版〈24〉特別長篇 誘拐』池波正太郎(文春文庫/2004)
『小さな哲学史』アラン/橋本由美子訳(みすず書房/2008)
『頼山陽とその時代』中村真一郎(中央公論社/1971)

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12月に見た映画

ハリー・ポッターと謎のプリンス
Harry Potter and the Half-Blood Prince
監督:デビッド・イェーツ
出演:ダニエル・ラドクリフ、ルパート・グリント、エマ・ワトソン、ヘレナ・ボナム・カーター、アラン・リックマン、マギー・スミス

オーストラリア
AUSTRALIA
監督:バズ・ラーマン
出演:ニコール・キッドマン、ヒュー・ジャックマン、ブランドン・ウォルターズ、デビッド・ウェナム

マルタのやさしい刺繍
DIE HERBSTZEITLOSEN
監督:ベティナ・オベルリ
出演:シュテファニー・グラーザー、ハイディ・マリア・グレスナー、アンネマリー・デュリンガー、モニカ・グブザー

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