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2010/01/20

『北畠親房——大日本は神国なり』

20100120re 岡野友彦の『北畠親房』は、最初のほうは(北畠家の系図しらべなどのあたりがとくに)ちと読むのがつらいのだが、三分の一くらいを我慢して読み進むと、はなしは俄然面白くなる。とくに親房が楠木正成の尊氏との和睦の進言を退けて大敗を喫し、後醍醐が吉野へ逃れるきっかけとなった湊川の戦いと、それから十数年後、今度は後醍醐の皇子、南朝第二代の主上後村上天皇の政権中枢に返り咲いた親房が、これまた正成の嫡男楠木正行の北朝政権との和平工作を握りつぶし、河内国四條畷で高師直・師泰と合戦を命じて大敗、勢いに乗る、師直・師泰兄弟に「吉野の君をも取り奉るべし」と、吉野の山中へ攻め込まれて南朝はついに賀名生(あのう)の地へと落ちて行った、このふたつの決定的とも言える南朝劣勢の原因をつくったのが北畠親房であり、その犠牲となったのが楠木正成、正行親子であったというのがなかなか面白い。

もうひとつ本書の見所は、これは南北朝の歴史というよりも、はるか後年、水戸光圀の『大日本史』の史観について、あっと驚くような説を紹介しているところだろう。いや、もちろんこんなことは日本史について造詣の深い人なら、なんだそんなこと、と常識の範囲なのかもしれないが、わたし的には、かなり目からウロコの学説であったので、ここに覚えをとっておく次第。
水戸学が南朝を正統とし、これがさらに時代をくだって幕末の尊王攘夷思想の背景になったわけだが、この『大日本史』は朝廷に対する、極めて挑戦的な「危険思想」であったのだ、という解釈があるのだそうです。以下少し長くなりますが、本書から引用。

例えば、光圀の片腕として知られる安積澹泊の書簡によると、澹泊がはじめて史館に入った時、光厳天皇から後円融天皇に至る北朝五主の伝記は、列伝に降ろされていた。(中略)『大日本史』が採用した紀伝体と言う形式は、皇帝在位中の年代記である「本紀」と、臣下の伝記である「列伝」から構成されていた。つまり光圀が立てた当初の構想は、時の天皇を「臣下」の子孫と見なしていたことになる。安積はこの点を懸念し、北朝五主の伝記を後小松天皇の冒頭に移した。しかし、それにもかかわらず南朝を正統とする『大日本史』の見解は、「時勢に不可なるところあり」、あるいは「当主のために忌むべきものあり」などとして(藤田幽谷「校正局諸学士に与ふるの書」)、永らく朝廷への献上が実現せず、『大日本史』の書名についても、その勅許を得ることができなかった(日本思想体系『水戸学』)。
それでは光圀は、なぜこのような危険を冒してまで、南朝を正統としたのであろうか。この点について極めて明快な見通しを示されたのが、近世思想史の大家尾藤正英である。尾藤は、後に藤田幽谷が「易姓革命のないわが国では、史書に国号を冠するのがそもそも誤りである」として、『大日本史』という書名を批判していることに注目され、『大日本史』が、

(1)紀伝体という中国のオーソドックスな史書の体裁に準拠しようとした点
(2)神武天皇から南朝の滅亡までの期間を対象として立てられていたこと

などから、当初の計画では、南朝を正統の王朝と見なすとともに、その滅亡によって、一つの王朝の歴史が完結したと考えられていたのであろう。

という括目すべき見解を示された。(「水戸学の本質」)。すなわち『大日本史』とは、後漢の班固・班昭らが、前漢の歴史を『漢書』という紀伝体の史書として編集したのに倣い、武家政権(いわば「後日本」)の正統なる継承者である徳川家が、「神武天皇に始まって南朝へと継続した王朝の、建国から滅亡にいたる歴史」(これこそ『大日本史』)を編集しようとしたものであり、そう考えたとき、室町時代以降の北朝は、武家政権に擁立された新王朝であって、前の王朝の正統なる後継者とはみなされない。それが南朝正統論の本来の意味であった。

というのである。

いや、驚いたが、考えてみればじつにすっきりした解釈ではあります。

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コメント

尾藤説は奇抜に見えるかもしれませんが、十分にありうる話だと思います。残念ながら論証が必ずしも十分ではないように思いますが、その後鈴木暎一氏がこれを敷衍した議論を展開しています。
小生も、光圀には北朝の現朝廷に対する尊王心はほとんどなかったと考えています。
光圀は元和偃武を引き継いで、文治による徳川政権の確立を自らの使命と考えていた。その点で「禁中並公家諸法度」で朝廷を押さえ込んだ家康の路線上にあり、後世に言われるような尊王論者ではありえない。朝廷は文治の核心たる「礼」秩序の中心であり、その限りでは尊重する。
またディレッタントの光圀には朝廷の文化的価値に対する憧れがあり、若くして死んだ夫人を通じて徳川一門中家光とともに天皇に最も近かったので、朝廷関係者との交遊は十分にエンジョイしていました。
光圀の考えを展開させたのが新井白石で、白石は「礼秩序が律令官職を借りた栄爵制度に拠るかぎり、人心が朝廷に向かう恐れがある」として、徳川独自の栄爵制度を創るよう考えていましたが、失脚により果たせなかった。
光圀の水戸学が何故後期水戸学の尊王攘夷に変質して行ったのか?調べてまとめたいと考えているのですが、まだ果たせていません。

投稿: 我善坊 | 2010/01/21 17:56

あ、どうもありがとうございます。鈴木暎一で検索すると吉川弘文館の人物叢書『徳川光圀』というのが入手しやすそうですね。さっそく読んでみます。
思想にかぎったことではないのでしょうが、歴史にはいろんな捩じれがありますね。この現朝廷をないがしろにしたはずの水戸学がどのように変質して幕末の尊王攘夷につながっていくのか、というのは非常に興味があります。
ここのところ中村真一郎の『頼山陽とその時代』や石川淳の『渡邊華山』なんてのが、面白いなあと思うようになりましたが、じっさいに読んでいるのは鬼平や剣客商売なのが、どうも……(笑)

投稿: かわうそ亭 | 2010/01/21 22:03

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