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2010年2月

2010/02/23

池波正太郎の俳句

「俳壇」3月号に池波正太郎の俳句が掲載されていた。
鬼平や剣客商売に俳諧師は登場しない。登場人物が発句をたしなむという設定もあったはずだが、ほんのさわりでさして重要なものではなかったはずである。
だから、池波正太郎に句集『泥麥集』があるというのはすこし意外な気がした。
戦争末期から戦後にかけて、十八歳から二十三歳のころ、「めったやたらに俳句や短歌のようなものをつくっていた」そうな。
もっとも掲載されている句を見る限りでは、さして巧いものではない。ご本人が俳句「のようなもの」と書いておられるとおりかもしれない。
多くは兵隊にとられていたあいだに見聞きした田園風景がモチーフになっているようだ。

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2010/02/22

カラやん、カッコイイ

そういえば、谷川俊太郎にカラヤンを皮肉った詩がありますね。といっても、たしかこれは丸谷才一の本で読んだはずで、谷川さんの詩集から直接写したものではないのだが。
こういうの……

ちびだった
金はなかった
かっこわるかった
つんぼになった
女にふられた
かっこわるかった
遺書を書いた
死ななかった
かっこわるかった
さんざんだった
ひどいもんだった
なんともかっこわるい運命だった

かっこよすぎるカラヤン

落首九十九
谷川俊太郎

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フルトヴェングラーかカラヤンか(承前)

昨日の続きのカラヤンの悪口。1979年、ベルリンフィルがはじめて中国公演をおこなったときの出来事。

「そういえば、面白いことがまだあった。演奏会の会場、つまり体育館だが、そこに中国の首相が来ていた。僕がカラヤンを呼びに行った。一国の首相が直々にお目見えなのだ。挨拶をするのが筋だろう。カラヤンは狭っくるしい控室で、テーブルの上に足を投げ出していた。『マイスター、中国の首相が見えています。挨拶にいらしてください』。すると、カラヤンは何と言ったと思う?『その紳士が私のところへ来るのだと思っているが』」
そこまで言うと、氏はお腹を抱えて笑った。
「いやあ、すごいセリフではないですか!『その紳士が私のところへ来るのだと思っているが』とはね!僕は、でも何も言わずに部屋を出て、待っている女性の役人に、通訳を介してそれを伝えた。役人は姿を消し、しばらくするとまた戻ってきた。そして、『首相はもう高齢のため、足が不自由で動けません』と答えた。」
確かにすごい話だ。政治家ほど、上下関係を気にする人種はいない。いくら何でも、一国の首相が一介の指揮者の元に挨拶には出向けないだろう。
「そこで、僕はまたカラヤンのところへ戻って、それを伝えた。カラヤンは、しかし、立ち上がろうともしなかった。そこで、僕は言った。『マイスター、でも大丈夫です。私も、あなたが歩けないと言っておきましたから』
するとカラヤンは突然、気色ばんで、『なんだって?何て言ったって?』と訊き返してきた。『だから、あなたも歩けないって言ったんですよ』と僕は答えた。
『どれくらいの距離があるんだ、そこまで』
『百メートルぐらいでしょう』
するとカラヤンは、『まあ、そういうことなら』とおもむろに立ち上がり、部屋を出た。でも、あなた、『その紳士が私のところへ来るのだと思っているが』とはね、呆れたもんだ!」
そして、再び、愉快そうに大笑いした。

インタビューイーであるルドルフ・ヴァンスハイマー氏も著者も、首相というだけで具体的な名前をあげていないところをみると、どちらも中国現代史にはあんまり興味がないようなんだけれども、ここはちょっと想像をたくましくしてみたくなるところだ。
中国の首相というのが正しい肩書きであれば、1979年当時、国務院総理は華国鋒である。しかし、華国鋒ならこのときまだ58歳で「高齢で足が不自由」という中国側の申し出はちと不自然だ。わたしの考えでは、この人物はダン・シャオピンじゃなかったのかなあ、と思う。
1976年1月に周恩来が死に、第一次天安門事件で、周恩来追悼デモの首謀者として三度目の失脚、同年9月、毛沢東が死に、四人組の逮捕によって三度目の復権、1977年の第10期3中全会で国務院副総理、党副主席、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に就任、実権はこのときすでにトウ小平のものだった。彼ならば1979年は75歳、足が不自由というのも符合する。肩書きこそ副総理だが実質的に最高権力者であった。ちょうどいまの日本の総理がいちばん偉いヒトではなくて、もっとエラいのがいるのと一緒であります。
さすがのカラヤンもちと相手が悪かったかもしれませんなあ。

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2010/02/21

フルトヴェングラーかカラヤンか

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『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』川口マーン恵美(新潮選書)は、かつてベルリンフィルに在籍した11人の音楽家——そのうち数人がフルトヴェングラーとカラヤンの両方の指揮で演奏した経験をもつ——のインタヴューだ。なかなか面白い。

かつてウラジーミル・ナボコフは音楽について、「程度はちがっても、いらいらさせられることには変わりない音と音との気ままな連鎖」(『ナボコフ伝』)と語ったことがあるが、わたしもどちらかというとそのくちで、たまに休日に一人きりで探偵小説やユーモア小説を読みふける贅沢を享受できるときは、音楽はかけないことが多い。かけるとしてもバロックの室内楽が主で、間違っても交響曲なんかはかけない。邪魔になるからね。(ブルックナー?ご冗談でしょ)
そもそもシンフォニーはあまり好みではないのだが、クライバーの7番はときどき聴くかな。まあ、定番ですけどね。これは、もうずいぶん昔に買ったCDだから、別に「のだめ」に影響されたというわけではありません。念のため。(笑)

ところで、もっているごくわずかなCDのなかにはカラヤンはある。ベルリン・フィル1983年録音の第九。全然聴かないけれど。(笑)フルトヴェングラーはもってないなあ。

だいたい、これまでにわたしが出合ったクラシック音楽にくわしい人は、「ふん、カラヤンなんて」という人ばっかりであった。カラヤンを褒めることは、クラシックファンの沽券にかかわることなんだろうか。一方でフルトヴェングラーを悪く言う人にはお目にかかったことがないなあ。
岩波新書に『フルトヴェングラー』という一冊がありますね。そのなかの対談で、丸山眞男のこういう発言がある。

ヒュルリマンが編集したフルトヴェングラー追悼集のなかでも、メニューインは実にいいことを言っている。「フルトヴェングラーは、芸術創作者とセールスマンが同じ人格のなかに共存できるなどとは夢にも思わなかった時代の最後の人間であった」というんです。私はすぐカラヤンのことが頭に浮かんだ。

うん、まあ、これはメニューイン自身もそのつもりだったんじゃないかしらという気もしますね。

というわけで、この『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』においても、どちらかというとカラヤンのほうが旗色が悪くて、いろいろなゴシップめいた悪口が出てきて面白い。もちろん、フルトヴェングラーのほうも、ヨーロッパ中に愛人をつくって子供が50人はいたよ(いくらなんでもこれはデマでしょうけど)なんて話もでてくるので、べつにカラヤンをさらに貶めて、フルトヴェングラーをさらに神格化しようとするようなニュアンスはありませんけれど。

面白かったカラヤンの悪口をふたつばかり。

ひとつめ。カラヤンがケチだったよ、という「証言」。え、自家用ジェットに豪華ヨットを所有していたあのカラヤンが?ウソでしょ。例をあげてよ。

「例ね。あるとき、うちの若いフルート奏者が亡くなったんです。まだ、四十にもなっていなくて、幼い二人の子供が残された。年金はわずかだったし、我々団員はとても気の毒に思い、彼の奥さんのために寄付を集めることにした。私がそれをカラヤンに報告したら、彼は、『それは素晴らしいことだ。集った金額と同額を、私が出そう』と言ってくれた。それを聞いた団員は感激して、寄付に力が入ったもんです。結局、二万マルク集った。それを私がカラヤンに伝えると、カラヤンは何と言ったと思います?『二万マルク?私に二万マルクも出せるわけがない』と言ったのです。二万マルクと言うのは、彼が一晩に稼ぐお金ですよ!そして結局、五千マルク出したのです」
意外な話が飛び出した。ゲアハルト氏も笑いながら、
「そのとき私は心の中で、『偉大なるカラヤン!』と叫んだもんだよ。出さないんなら、初めから言わなきゃいいんだ」

くたびれたので、もうひとつの悪口はまた明日。

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2010/02/10

Love Begins in Winter

フランク・オコナー賞(Frank O'Connor International Short Story Award)というと、第一回の2005年にイーユン・リーが、2006年に村上春樹が、2008年にジュンパ・ラヒリが受賞ということで、短編小説の国際賞としては、現代ではもっとも注目度の高い文学賞のひとつだと思うけれど、昨年は、Simon Van Booyという新進の作家に贈られた。
ウィキペディアによれば、Booy は、Boy と同じ発音なんだとか。

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1975年生まれといいますから、まだ35歳ですね。今回受賞したのは『Love Begins in Winter』という、著者の二冊目の短編集であります。なんかよさそうな匂いがしたので早速読んでみましたが、これは大当たり、ど真ん中でわたし好みの小説でした。

ちょっとかなしく、ちょっとせつない、しかしおおげさな絶望に浸るのではなく、かすかな曙光のような明るさが底にたたえられた比類なく美しい物語。登場人物は、だれも喪失のいたみをかかえて生きていますが、そのいたみはながい年月のはてにも、決していやされることはない。本来、喪失とはそういうものだから。だが、そういう喪失をこころにかかえたままでも、ふたたび人生をはじめることはできるんだよ、というのが、この短編集の底にながれる通奏曲でしょうか。甘いと言いたい人は言えばいいと思う。わたしには、これはすとんとわかることなので、小賢しい批評をする気が起らないのであります。

収録作は以下の通り。

Love Begins in Winter
Tiger, Tiger
The Missing Statues
The Coming and Going of Strangers
The City of Windy Trees

どれも上質な短編で推奨できるが、とくにわたしが気に入ったのは。表題作の「Love Begins in Winter」と「The City of Windy Trees」だな。
文章は、基本的に短いセンテンスで、平易な表現だが読むのが快い。ものごとを定義してみせるような文章に切れ味がある。内容見本として二三の短文をあげておく。

Solitude and depression are like swimming and drowning.

                     *            

For Jane knew that wisdom means knowing when to give everything, knowing exactly the right time to give everything and admit you've done it and not look back.

                     *

Some mornings, the moment before she opened her eyes, she had forgotten they were gone, then like all those left behind in the world, Jane would have to begin again. For, despite the accumulation of experience, one must always be ready to begin again, until it's someone else's turn to begin without us, and we are completely free from the pain of love, from the pain of attachment--the price we pay to be involved.

Booyure

こういう文章や、著者の写真から、すごく繊細な詩人タイプを想像すると思うのだが——そしてそれは事実その通りには違いないとわたしも思うのだが——もし、虚弱で過保護な学生時代を送った青年を思い浮かべるとどうもそれは誤った先入観のよらしむところということになりそうだ。
ファン・ボーイは、ラグビーの選手として奨学金を得て進学しているのだそうです。体型からみてもあきらかですが、とうぜんウィングですね。
さぞ俊足で、走り出したらだれも追いつけないようなタイプのプレイヤーだったことでしょう。

Love Begins in Winter: Five Stories (P.S.)

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2010/02/09

2010年みすず読書アンケート

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今年の「月刊みすず」の読書アンケートから、実際に読むかどうかはとにかく、気になる本として印をつけたもの。今年はあんまり多くない。
回答者と書名をリストアップしておく。どういう専門分野の人がどういう本を推したか、というのも興味深い。

早川尚男(物理学者)
『近衛文麿—教養主義的ポピュリストの悲劇』筒井清忠(岩波現代文庫)

名和小太郎(情報システム論)
『アインシュタインの反乱と量子コンピュータ』佐藤文隆(京都大学出版会)

三島憲一(ドイツ思想)
『ニーチェ伝——ツァラトゥストラの秘密』ヨアヒム・ケーラー(青土社)

松野孝一郎(生物学)
『闘うレヴィ=ストロース』渡辺公三(平凡社)

上山安敏(思想史)
『現代思想の断層—「神なき時代」の模索』徳永恂(岩波新書)

市村弘正(思想史)
『リベラル・デモクラシーと神権政治』柴田寿子(東京大学出版会)

小林澈郎(物理学)
『証言・フルトベングラーかカラヤンか』川口マーン恵美(新潮選書)

長田弘(詩人)
『マリーナ・ツヴェターエワ』前田和泉(未知谷)

小野正好(考古学)
『鑑真』東野治之(岩波新書)

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2010/02/03

国王詩人李煜

唐が滅亡して宋が興るまでの約半世紀(907 - 960)長安や洛陽を中心とする黄河中流域の中原には後粱、後唐、後晋、後漢、後周という五つの王朝(五代)が興亡した。しかしこれはいずれも中国全土を支配したかつての唐のような大帝国ではなく、長江の南にはさらにいくつもの地方政権が勢力を競っていた。これらのうち有力なものを数えて十国という。ふたつ合わせて中国史ではこれを「五代十国時代」と呼ぶのでありますね。

この十国のひとつに南唐という国がありました。領有していたのは准南と江南という豊かな地方である。建国者を李昪(りべん)といいますが、乱世にありながらひたすら戦争を避け民力を養ったことにより、一時は強力な勢力をほこったといいます。しかし第二代の李璟(りえい)のときに、北から後周に攻められ、長江以北の地を失い、皇帝から国主という称号に格下げされるという屈辱的な講和を余儀なくされた。そして第三代の李煜(りいく)のときには、周辺の諸国をつぎつぎに呑み込んで行った宋の太宗によって、首都の金陵は包囲され、国主である李煜一族は宋に拉致され、やがて幽閉されること二年で世を去った。宋の太宗が誕生の祝いに贈った酒による毒殺であったそうな。

この李璟と李煜の父子が君主ながら詞の名手なんである。先に書いたように、皇帝の称号を廃されて国主と名乗らされましたので、父を南唐中主、息子を南唐後主と呼び、二人を指して南唐二主と言うのだそうであります。とくに息子の李煜は詞の名作を数多く残したことで高名とか。

さて詞(ツー)とはなんぞや。

中国には、詩とは別にメロディつきの詞という文学がある。詩が天下国家などを論ずる硬派の文学であるのに対し、詞は主として男女の愛の機微をうたう軟派の文学である。
『漱石と河上肇』一海知義(藤原書店)

つまりこれも、前回書いた楽府と同様に旋律の忘れられたリリックだと思えばいいのでしょう。

わたしが、この李煜の詞をそれとはっきり意識したのは、テレサ・テンの「淡淡幽情」というアルバムだった。1982年香港ポリグラムから発売され、香港のレコード・オブ・ザ・イヤーを受賞している。中国古典に美しいメロディを付した楽曲が収録されているこのCDの十二曲のうち三つまでもが李煜の詞なのだ。なかでもいちばん好きなのは、「幾多愁」というタイトルの曲なのだが、これは李煜の「虞美人」という詞である。
いま『中國詩人選集16』(村上哲見)から引く。

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虞美人

春花秋月何時了
往事知多少
小楼昨夜又東風
故國不堪回首
月明中

雕欄玉砌依然在
只是朱顔改
問君都有幾多愁
恰似一江春水
向東流

春の花 秋の月 何時(いつ)か了(きわま)る
往事知んぬ多少(いくばく)ぞ
小楼に昨夜又も東風
故國は回首するに堪えず
月明の中(うち)

雕欄(ちょうらん)玉砌(ぎょくぜい)依然として在るに
只だ是れ朱顔のみ改まりぬ
君に問う 都(す)べて幾多の愁い有りやと
恰も似たり 一江の春水の
東を向(さ)して流るるに

テレサ・テン自身がおそらくこの李煜には深い思い入れがあったと思われる。先に引用した一海知義が別の本でこんなことを書いている。

中国の大地は、全体として西高東低の地形である。したがって川はおおむね東に向かって流れる。
「百川東流す」というのは、古くから中国にある成語であり、李白は「夢に老姥に遊ぶの吟」のなかで、

 古来万事東流水 古来万事 東流の水

といい、杜甫も「賛上人に別る」のなかで、

 百川日東流 百川日に東流し
 客去亦不息 客の去るも亦息まず(またやまず)

とうたっている。
したがって「百川東流」という言葉は、世間の事の自然ななりゆき、大勢とか、世の常識といった意味で、詩歌のなかで使われる。たとえば、先年亡くなった現代の歌手テレサ・テン(中国名鄧麗君)は、自ら作詞した「星の願い」と題する作品のなかでつぎのようにうたっている。

 愛情苦海任浮沈  愛情の苦海 浮沈に任す
 無可奈可花落去  奈可(いかん)ともすべきなし 花の落(ち)り去(ゆ)くを
 唯有長江水    唯だ長江の水の
 黙黙向東流    黙黙として東に向かって流るる有るのみ
末二句は、波乱に富んだおのれの人生とは無縁な、自然の悠久で変わらぬ営みをいう。
一海知義『閑人侃語』(藤原書店)

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2010/02/01

2010年1月に読んだ本

『リンカーン弁護士〈上下〉』マイクル・コナリー/古沢嘉通訳(講談社文庫/2009)
『アインシュタイン、神を語る』ウィリアム・ヘルマンス/雑賀紀彦訳(工作舎/2000)
『西川徹郎句集 決定版 無灯艦隊——十代作品集』(沖積舎/2007)
『北畠親房—大日本は神国なり』岡野友彦(ミネルヴァ書房/2009)
『剣客商売』池波正太郎(新潮文庫)
『剣客商売 二 辻斬り』池波正太郎(新潮文庫)
『剣客商売 三 陽炎の男』池波正太郎(新潮文庫)
『ブラックペアン1988(上下)』海堂尊(講談社文庫/2009)
『剣客商売 四 天魔』池波正太郎(新潮文庫)
『中国詩人選集 16 李煜』村上哲見(岩波書店/1988)
『其角俳句と江戸の春』半藤一利(平凡社/2006)
『剣客商売 五 白い鬼』池波正太郎(新潮文庫)

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2010年1月に見た映画

ベンジャミン・バトン 数奇な人生
THE CURIOUS CASE OF BENJAMIN BUTTON
監督:デヴィッド・フィンチャー
出演:ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、ティルダ・スウィントン、ジャレッド・ハリス

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