国王詩人李煜
唐が滅亡して宋が興るまでの約半世紀(907 - 960)長安や洛陽を中心とする黄河中流域の中原には後粱、後唐、後晋、後漢、後周という五つの王朝(五代)が興亡した。しかしこれはいずれも中国全土を支配したかつての唐のような大帝国ではなく、長江の南にはさらにいくつもの地方政権が勢力を競っていた。これらのうち有力なものを数えて十国という。ふたつ合わせて中国史ではこれを「五代十国時代」と呼ぶのでありますね。
この十国のひとつに南唐という国がありました。領有していたのは准南と江南という豊かな地方である。建国者を李昪(りべん)といいますが、乱世にありながらひたすら戦争を避け民力を養ったことにより、一時は強力な勢力をほこったといいます。しかし第二代の李璟(りえい)のときに、北から後周に攻められ、長江以北の地を失い、皇帝から国主という称号に格下げされるという屈辱的な講和を余儀なくされた。そして第三代の李煜(りいく)のときには、周辺の諸国をつぎつぎに呑み込んで行った宋の太宗によって、首都の金陵は包囲され、国主である李煜一族は宋に拉致され、やがて幽閉されること二年で世を去った。宋の太宗が誕生の祝いに贈った酒による毒殺であったそうな。
この李璟と李煜の父子が君主ながら詞の名手なんである。先に書いたように、皇帝の称号を廃されて国主と名乗らされましたので、父を南唐中主、息子を南唐後主と呼び、二人を指して南唐二主と言うのだそうであります。とくに息子の李煜は詞の名作を数多く残したことで高名とか。
さて詞(ツー)とはなんぞや。
中国には、詩とは別にメロディつきの詞という文学がある。詩が天下国家などを論ずる硬派の文学であるのに対し、詞は主として男女の愛の機微をうたう軟派の文学である。
『漱石と河上肇』一海知義(藤原書店)
つまりこれも、前回書いた楽府と同様に旋律の忘れられたリリックだと思えばいいのでしょう。
わたしが、この李煜の詞をそれとはっきり意識したのは、テレサ・テンの「淡淡幽情」というアルバムだった。1982年香港ポリグラムから発売され、香港のレコード・オブ・ザ・イヤーを受賞している。中国古典に美しいメロディを付した楽曲が収録されているこのCDの十二曲のうち三つまでもが李煜の詞なのだ。なかでもいちばん好きなのは、「幾多愁」というタイトルの曲なのだが、これは李煜の「虞美人」という詞である。
いま『中國詩人選集16』(村上哲見)から引く。
虞美人
春花秋月何時了
往事知多少
小楼昨夜又東風
故國不堪回首
月明中
雕欄玉砌依然在
只是朱顔改
問君都有幾多愁
恰似一江春水
向東流
春の花 秋の月 何時(いつ)か了(きわま)る
往事知んぬ多少(いくばく)ぞ
小楼に昨夜又も東風
故國は回首するに堪えず
月明の中(うち)
雕欄(ちょうらん)玉砌(ぎょくぜい)依然として在るに
只だ是れ朱顔のみ改まりぬ
君に問う 都(す)べて幾多の愁い有りやと
恰も似たり 一江の春水の
東を向(さ)して流るるに
テレサ・テン自身がおそらくこの李煜には深い思い入れがあったと思われる。先に引用した一海知義が別の本でこんなことを書いている。
中国の大地は、全体として西高東低の地形である。したがって川はおおむね東に向かって流れる。
「百川東流す」というのは、古くから中国にある成語であり、李白は「夢に老姥に遊ぶの吟」のなかで、古来万事東流水 古来万事 東流の水
といい、杜甫も「賛上人に別る」のなかで、
百川日東流 百川日に東流し
客去亦不息 客の去るも亦息まず(またやまず)とうたっている。
したがって「百川東流」という言葉は、世間の事の自然ななりゆき、大勢とか、世の常識といった意味で、詩歌のなかで使われる。たとえば、先年亡くなった現代の歌手テレサ・テン(中国名鄧麗君)は、自ら作詞した「星の願い」と題する作品のなかでつぎのようにうたっている。愛情苦海任浮沈 愛情の苦海 浮沈に任す
無可奈可花落去 奈可(いかん)ともすべきなし 花の落(ち)り去(ゆ)くを
唯有長江水 唯だ長江の水の
黙黙向東流 黙黙として東に向かって流るる有るのみ
末二句は、波乱に富んだおのれの人生とは無縁な、自然の悠久で変わらぬ営みをいう。
一海知義『閑人侃語』(藤原書店)
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