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2010/02/21

フルトヴェングラーかカラヤンか

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『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』川口マーン恵美(新潮選書)は、かつてベルリンフィルに在籍した11人の音楽家——そのうち数人がフルトヴェングラーとカラヤンの両方の指揮で演奏した経験をもつ——のインタヴューだ。なかなか面白い。

かつてウラジーミル・ナボコフは音楽について、「程度はちがっても、いらいらさせられることには変わりない音と音との気ままな連鎖」(『ナボコフ伝』)と語ったことがあるが、わたしもどちらかというとそのくちで、たまに休日に一人きりで探偵小説やユーモア小説を読みふける贅沢を享受できるときは、音楽はかけないことが多い。かけるとしてもバロックの室内楽が主で、間違っても交響曲なんかはかけない。邪魔になるからね。(ブルックナー?ご冗談でしょ)
そもそもシンフォニーはあまり好みではないのだが、クライバーの7番はときどき聴くかな。まあ、定番ですけどね。これは、もうずいぶん昔に買ったCDだから、別に「のだめ」に影響されたというわけではありません。念のため。(笑)

ところで、もっているごくわずかなCDのなかにはカラヤンはある。ベルリン・フィル1983年録音の第九。全然聴かないけれど。(笑)フルトヴェングラーはもってないなあ。

だいたい、これまでにわたしが出合ったクラシック音楽にくわしい人は、「ふん、カラヤンなんて」という人ばっかりであった。カラヤンを褒めることは、クラシックファンの沽券にかかわることなんだろうか。一方でフルトヴェングラーを悪く言う人にはお目にかかったことがないなあ。
岩波新書に『フルトヴェングラー』という一冊がありますね。そのなかの対談で、丸山眞男のこういう発言がある。

ヒュルリマンが編集したフルトヴェングラー追悼集のなかでも、メニューインは実にいいことを言っている。「フルトヴェングラーは、芸術創作者とセールスマンが同じ人格のなかに共存できるなどとは夢にも思わなかった時代の最後の人間であった」というんです。私はすぐカラヤンのことが頭に浮かんだ。

うん、まあ、これはメニューイン自身もそのつもりだったんじゃないかしらという気もしますね。

というわけで、この『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』においても、どちらかというとカラヤンのほうが旗色が悪くて、いろいろなゴシップめいた悪口が出てきて面白い。もちろん、フルトヴェングラーのほうも、ヨーロッパ中に愛人をつくって子供が50人はいたよ(いくらなんでもこれはデマでしょうけど)なんて話もでてくるので、べつにカラヤンをさらに貶めて、フルトヴェングラーをさらに神格化しようとするようなニュアンスはありませんけれど。

面白かったカラヤンの悪口をふたつばかり。

ひとつめ。カラヤンがケチだったよ、という「証言」。え、自家用ジェットに豪華ヨットを所有していたあのカラヤンが?ウソでしょ。例をあげてよ。

「例ね。あるとき、うちの若いフルート奏者が亡くなったんです。まだ、四十にもなっていなくて、幼い二人の子供が残された。年金はわずかだったし、我々団員はとても気の毒に思い、彼の奥さんのために寄付を集めることにした。私がそれをカラヤンに報告したら、彼は、『それは素晴らしいことだ。集った金額と同額を、私が出そう』と言ってくれた。それを聞いた団員は感激して、寄付に力が入ったもんです。結局、二万マルク集った。それを私がカラヤンに伝えると、カラヤンは何と言ったと思います?『二万マルク?私に二万マルクも出せるわけがない』と言ったのです。二万マルクと言うのは、彼が一晩に稼ぐお金ですよ!そして結局、五千マルク出したのです」
意外な話が飛び出した。ゲアハルト氏も笑いながら、
「そのとき私は心の中で、『偉大なるカラヤン!』と叫んだもんだよ。出さないんなら、初めから言わなきゃいいんだ」

くたびれたので、もうひとつの悪口はまた明日。

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