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2010/02/22

フルトヴェングラーかカラヤンか(承前)

昨日の続きのカラヤンの悪口。1979年、ベルリンフィルがはじめて中国公演をおこなったときの出来事。

「そういえば、面白いことがまだあった。演奏会の会場、つまり体育館だが、そこに中国の首相が来ていた。僕がカラヤンを呼びに行った。一国の首相が直々にお目見えなのだ。挨拶をするのが筋だろう。カラヤンは狭っくるしい控室で、テーブルの上に足を投げ出していた。『マイスター、中国の首相が見えています。挨拶にいらしてください』。すると、カラヤンは何と言ったと思う?『その紳士が私のところへ来るのだと思っているが』」
そこまで言うと、氏はお腹を抱えて笑った。
「いやあ、すごいセリフではないですか!『その紳士が私のところへ来るのだと思っているが』とはね!僕は、でも何も言わずに部屋を出て、待っている女性の役人に、通訳を介してそれを伝えた。役人は姿を消し、しばらくするとまた戻ってきた。そして、『首相はもう高齢のため、足が不自由で動けません』と答えた。」
確かにすごい話だ。政治家ほど、上下関係を気にする人種はいない。いくら何でも、一国の首相が一介の指揮者の元に挨拶には出向けないだろう。
「そこで、僕はまたカラヤンのところへ戻って、それを伝えた。カラヤンは、しかし、立ち上がろうともしなかった。そこで、僕は言った。『マイスター、でも大丈夫です。私も、あなたが歩けないと言っておきましたから』
するとカラヤンは突然、気色ばんで、『なんだって?何て言ったって?』と訊き返してきた。『だから、あなたも歩けないって言ったんですよ』と僕は答えた。
『どれくらいの距離があるんだ、そこまで』
『百メートルぐらいでしょう』
するとカラヤンは、『まあ、そういうことなら』とおもむろに立ち上がり、部屋を出た。でも、あなた、『その紳士が私のところへ来るのだと思っているが』とはね、呆れたもんだ!」
そして、再び、愉快そうに大笑いした。

インタビューイーであるルドルフ・ヴァンスハイマー氏も著者も、首相というだけで具体的な名前をあげていないところをみると、どちらも中国現代史にはあんまり興味がないようなんだけれども、ここはちょっと想像をたくましくしてみたくなるところだ。
中国の首相というのが正しい肩書きであれば、1979年当時、国務院総理は華国鋒である。しかし、華国鋒ならこのときまだ58歳で「高齢で足が不自由」という中国側の申し出はちと不自然だ。わたしの考えでは、この人物はダン・シャオピンじゃなかったのかなあ、と思う。
1976年1月に周恩来が死に、第一次天安門事件で、周恩来追悼デモの首謀者として三度目の失脚、同年9月、毛沢東が死に、四人組の逮捕によって三度目の復権、1977年の第10期3中全会で国務院副総理、党副主席、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に就任、実権はこのときすでにトウ小平のものだった。彼ならば1979年は75歳、足が不自由というのも符合する。肩書きこそ副総理だが実質的に最高権力者であった。ちょうどいまの日本の総理がいちばん偉いヒトではなくて、もっとエラいのがいるのと一緒であります。
さすがのカラヤンもちと相手が悪かったかもしれませんなあ。

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コメント

鄧小平は西欧好みだったから、カラヤンを「見に」出かけたかもしれませんね。しかし中国の首脳なら誰でも、年齢にも関係なく、足が悪くて歩けない翌日に揚子江を泳ぎきるくらいは平気でやったでしょう。
中川右介『カラヤンとフルトヴェングラー』という面白い本もあります。(幻冬舎新書。この欄で教えられたものではなかったでしょうね?)「二人を並べるさえも冒涜なのに、あまつさえ順番を逆にするなんて!」という知人が多いなか、敢えて読んでみました。
フルトヴェングラーは暗譜での指揮に感激する大衆を「コンサート・ホールにいながらサーカスを恋しがる人だ」と言ったそうですが、これもカラヤンを念頭に置いた発言でしょうね。
この本の面白いところは、カラヤンの世渡りの巧さと、同じように名声に憧れながら、フルトヴェングラーは政治性でカラヤンにはるかに及ばなかったことを指摘している点です。
カラヤンの同世代にはもっと優れた人物はいたのに、彼はフルトヴェングラーに狙いを定め、それと競って見せることで自分を売り出した。なかなかの商才です。
特にナチとの関係は、カラヤンの場合は自ら擦り寄っていったものなに、ディレッタント揃いのナチ幹部はヒトラーもゲーリングもカラヤンを認めない。僅かにゲッペルスがカラヤンを買っただけ。そのため戦後になって「ナチからは冷遇された」という宣伝を巧く使い、フルトヴェングラーの追い落としに(特にアメリカで)成功した、などというあたりは、フルトヴェングラー・ファンも溜飲を下げるのではないかと思うのですがー。
ソニーの大賀や小澤征爾のお陰で、日本ではカラヤンの評価が不当に高いと思います。

投稿: 我善坊 | 2010/02/23 09:43

こんにちわ。
『カラヤンかフルトヴェングラーか』は、いつも利用する図書館にありませんでしたので、同じ著者の『巨匠たちのラストコンサート』(文春新書)をぱらぱらとななめ読みしました。この方いわく、男の子というのは中学生の頃にいろんな「選択」を迫られる。贔屓の野球チームをどこにするか、応援するアイドルタレントを誰にするか、とかそういう「選択」。(笑)たまたまクラッシック少年となった著者は、英雄はワルター、運命はフルトヴェングラーなんて感じの「定盤はこれだ!」というのに反発を覚え、いっそカラヤンで全部聴いてやろうと決めたのだそうですね。なんとなく気持はわかる。(笑)
「クラシックジャーナル」の編集長をなさっていたんですね。

投稿: かわうそ亭 | 2010/02/23 17:55

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