小林秀雄『本居宣長』その一
いま小林秀雄の『本居宣長』をゆっくり読んでいる。
テクストは、新潮社の『小林秀雄全作品』の27巻(と28巻だが、こちらにはまだたどりついていない)。
このシリーズは2002年に完結した第五次の『小林秀雄全集』が底本になっているのだそうだ。ソフトカバーの装丁なので、軽くて持ち運びがしやすいのがうれしい。
また、見開きの二頁をひとつのまとまりとして、脚注がついているのだが、この脚注があまりうるさくもなく、さりとて不親切でもない、ちょうどわたし程度の古文の読解力に見合った絶妙の注釈でありがたい。
この作品に対しては、小林秀雄がこんなことを最初の方で断っている。
宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も長くなると思う。
じっさい、宣長のものだけでなく伊藤仁斎、荻生徂徠、賀茂真淵などの著作の引用がたっぷりとつづく。むしろ、小林秀雄は、これらの人々の「肉声」をどのような順番で読者に聞かせるのが、いちばんいいだろうかということだけを考えていたようにも思える。
わたしがいちばん意外だったのは、馬鹿みたいな話だが、この近世の人々の書いた文が現代文を読むのとさほどかわりなく「わかる」ということだった。その助けになるのが、適切な脚注であって、これがないと意味を取り違えそうな箇所もたしかにあるのだが、そういう一種の文章上の難所はさほど多くはなくて(だからこの脚注もさほどうるさくもないわけだが)案外すらすらと古人の文は口に唱えて頭に入ってくるということだった。
もともとこの「本居宣長」は1965年から1976年にかけて「新潮」に連載されたものだ。もちろん、リアルタイムでわたしはこの作品を読んではいないけれど、さほど熱心な読者とは言えないながら、新潮文庫の『モオツァルト・無常という事』『Xへの手紙・私小説論』『ゴッホの手紙』などは、とうぜんの必読書として(だって当時は小林秀雄も読んでないようなやつは相手にしてもらえなかった。よい時代である(笑))読んでいた。しかし、当時のわたしはこの『本居宣長』が単行本として上梓されたときは、ぱらぱらと最初のほうを読んで、これは無理だ、とあきらめたことを覚えている。まあ、読みたい本もたくさんあるし、本居宣長はパスでいいやと、思ったわけなのであります。
はや、それから三十数年。ずいぶん長いあいだ放置した宿題を、いまになってようやくやっているような塩梅だと思う。
もしかして同世代の方で、おなじように若き日にパスした方もいらっしゃるかもしれない。いま読んでどうですか、面白いですかと尋ねられたら、こう答えるでしょう。
いや、これはほんとうに面白いです。面白いと思っている自分が不思議で面白い。ようやく、なにかに追いついた、そんな気がしてこころ休まる、そういう類の本であります。
追記
このソフトカバー版の『小林秀雄全作品』、上に書いたように、廉価版だしハンディだし、脚注の内容もレイアウトもすばらしいのだが、一点、わたしにとっては残念でならないことがある。それは、これ引用部分以外は現代仮名遣いに変更されているのですね。だから、ちょっと軽い。やはり、ここは小林秀雄の地の文章も原文どおりにしてほしかった。こだわる方は、これはダメとおっしゃるかもしれない。
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