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2010年5月

2010/05/07

ブログ休止のお知らせ

少し思うところあって、ウェブのアクティヴィティを休止することにしました。
読書雑録「かわうそ亭」は、HP時代から数えると、10年以上、ブログに移行してから、もう6年がたっていました。おかげさまで楽しい出会いが多かったなと感謝しています。
まあ、雑誌の休刊のようなもので、また再開できればいいなと思っていますが、ケセラセラ、先のことはわからない、であります。
長い間どうもありがとうございました。

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2010/05/03

『小林秀雄の恵み』

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橋本治の『小林秀雄の恵み』は素晴らしい本で、ほとんど小林の『本居宣長』を自分はどのように読んだかということだけを語った内容なのだけれど、さらに言ってしまえばほんとうは本居宣長でも小林秀雄でもなく、橋本治自身を語った本なのだと思う。その意味では、小林秀雄が本居宣長を借りて自分自身のことを語っていたこととこれは相似である。なべて評論の傑作というものはそういう性格が自然に備わるものであるのかもしれない。
橋本が考える小林秀雄の思想は詰まるところ「読むに価するものをちゃんと読め」である。言われてみればそのとおりで、わたしたちは読むに価しないものばかりちゃらちゃら読んでいる。ここで急いで言っておくが、小林が「読む」というのはなにも書籍に限らない。美術も音楽も演劇もその視野に入っている。

よい本を読むとその中身が錘りのようにこころの底に降りてゆき、かえってそれを表す言葉を失うのが常である。『小林秀雄の恵み』はそのような本だ。だが、読み終えたあとで——橋本流に言えばトンネルをくぐり抜けたあとで——自分を点検すると、どうも「そこにあるすべての目盛りが一段階上にあがっていることを知」るような塩梅なのであります。(括弧の引用は村上春樹の『海辺のカフカ』)

あちらこちらにきらめくような言葉がちりばめられた「カッコいい本」でもあるが、わたしがいちばんこころを打たれたのはたとえば次のような西行に関する橋本の捉え方である。

西行は「強い自意識を持った人」だが、別に「強い人」ではない。「ただ愚直に一つの道を行った」と言えば「強い人」にもなるが、「一つの道を行くしかなかった」になれば、「哀しい人」である。なぜそうなるかと言えば、根本のところで、西行に「居場所」がなかったからである。居場所がないから出家をしたが、その新たなる居場所は、「現実社会の外」である——出家というものは、そのように位置づけられる。だから、出家者となってしまった西行は、永遠に、現実社会の中に居場所を持てないのである。

おそらくこれは橋本治という人間を語ってしまった言葉なのであろう。



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2010/05/01

2010年4月に読んだ本

『「天安門」十年の夢』譚璐美(新潮社/1999)
『翻訳と日本の近代』丸山眞男|加藤周一(岩波新書/1998)
『鬼平とキケロと司馬遷と—歴史と文学の間』山内昌之(岩波書店/2005)
『六本指のゴルトベルク』青柳いづみこ(岩波書店/2009)
『小林秀雄全作品〈27〉本居宣長〈上〉』(新潮社/2004)
『自由について—七つの問答』丸山眞男(SURE/2005)
『ある夜、クラブで』クリスチャン・ガイイ/野崎歓訳(集英社/2004)
『一句悠々—私の愛唱句』正木ゆう子(春秋社/2009)
『遊星の人—多田智満子歌集』(邑心文庫/2005)
『小林秀雄全作品〈28〉本居宣長〈下〉』(新潮社/2004)
『季語の誕生』宮坂静生(岩波新書/2009)
『京都うたものがたり』水原紫苑(ウェッジ/2003)
『丸山眞男 8・15革命伝説』松本健一(河出書房新社/2003)
『江戸東京怪談文学散歩』東雅夫(角川選書/2008)
『ピアニストは指先で考える』青柳いづみこ(中央公論新社/2007)
『小林秀雄の恵み』橋本治(新潮社/2007)

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