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2011年2月

2011/02/25

自然が一番はウソなのか(1)

自然が一番、ということをよくわたしたちは口にする。
いろいろ手をかけないのがいいのだよ、というような意味をそこにこめる場合もあるし、あるいは人工的に合成された物質よりも自然に存在する物質のほうが安全だという意味でつかう場合もあるだろう。

素朴な考えとしては、たしかにそうだなと思う。

たとえば、食物のことを考えるとすぐにわかるが、仮に栄養的にも食味的にもまったく問題がないと言われたところで、豚肉や牛肉を食べるのをやめて合成タンパク質で生きていこうと思う人はまずいないはずだ。それは、そんなものがおいしいはずはないという思い込みもあるけれど、むしろそれよりも、それはなんだか危ないように感じるからではないか。

もちろん、自然のものならなんでもいいと思う人はいない。トリカブトだって自然のものだが、それをわざわざ食べようとする人はいない。

食物については、人間が口にしていいもの、口にしてはいけないものは、それを実際に食べたらどうなったか、あるいはそれをある集団が食べ続けたらどうなったかという膨大な貴重な経験によって確立されたのだろうとわたしたちは考えている。それが事実であるかどうかはもちろんわからないが、ご先祖様ののっぴきならぬ飢えの恐怖や、あるいはやむにやまぬ好奇心と勇気によってわたしたちの食の地平線は広がってきたのだと理解をしているのじゃないだろうか。ナマコとかさ。(笑)

人工的な合成物がこの世界に登場するまで、ほとんどすべての生物由来の物質や、地表、海洋、大気中の無機物質についての知識は人間によって蓄えられ、農業や漁業や林業というかたちで利用されてきたのだと思う。
だから農民や放牧民や猟師や漁師の知識によって選別された「いいもの」が、じつはわたしたちの「自然が一番」の信仰の基礎にあるのじゃないかと思うんだなあ。

しかし、科学技術の発達によってここのところが少しずつズレはじめているような気がする。わたしにもうまく整理ができていないのだが、たとえばあんまり思索的に領域を広げすぎても収拾がとれなくなるので、野菜づくりということに限定してちょっと考えてみたい。

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具体的には次のようなことだ。

キューピーがつくっている水耕栽培による野菜工場というものがある。土はまったく使わない。根を張るのはスポンジ。三角形に立てかけられた栽培床が屋内にレイアウトされ、収穫まで自動化されたラインがある。空気成分も温度も光も水や栄養もすべての環境がコンピュータで制御される。そういう野菜づくりについて、みなさんはどんなふうにお思いになるだろうか。

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2011/02/16

スプラウト

冬の畑は作物の成長が止まっている。
土寄せをしたり、霜よけのために藁を敷いたり籾殻を撒いたりしながら、野菜たちの様子を観察するが、イチゴもタマネギもエネルギーをじっと内側にためて春を待っているように思える。それはそれで面白いが、やはりちょっとさびしいのも事実だ。

寒いから、畑でぼんやり腰掛けてあれこれ思いにふける時間も減っている。

もっとも家にいても、簡単に野菜をつくる方法はいくらもある。
たとえば、スプラウト。
ホームセンターなどにいけば、スプラウト専用のタネがいくらでも手に入る。一晩水でふやかして、小さな容器にスポンジなどを敷きタネを底一面に広げる。
容器ごと箱などに入れておくと、三日もすれば発芽する。
タネの殻を付けたままの「もやし」のスプラウトを、暗所から出してリビングなどで半日も陽に当ててやると見る見る緑に変っていく。写真はブロッコリーのスプラウト。暗所から取り出した直後が右、数時間、日光をあびた姿が左である。
あんまり簡単なので拍子抜けするかもしれないが、もともとタネから芽が出るのは自然なことである。人間の力なんて、もともとそんなにいらないものなのだろう。
もう少し大きくなったらカイワレ大根のようにサラダにまぜて食べてしまおう。

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2011/02/11

雪の古都

めずらしく奈良に雪が積もったので、東大寺の大仏殿から二月堂にかけて雪見に出かける。そういえば、二月堂はそろそろ修二会である。雪が少なくなった昨今では、地元に住んでいてもなかなか見ることのない風景だが、今日の観光客はラッキーというべきか。立派なレンズを装着したアマチュア・カメラマンも多数いらしたが、なかなか入江泰吉のようなわけにはいかないよね。
丘の上で、鹿がビーッ、ビーッと鳴いていた写真をアップします。

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2011/02/10

コメでは食えん話

地主の支配人たちが蔵入れの日、俵をかついでやってくる小作たちを一人一人検分して、目の前で俵の米をゆするようにして、正規の小作料のほかに、サシ米、継米などと呼ばれる余分の米を俵につめさせた。
どんな目減りもあり得ないようにした上で、酒を振舞い、小作たちの頭の働きを停止させた。
≪さあ、ちゃんと山に盛れ、升をゆすってな≫
といったかけ声を、厭味でなく大声で叫ぶことができ、酒を上手に振舞える差配が、番頭になれる人材だったそうだ。

『浦島草』大庭みな子

太宰治が、生れてきてすみませんといった気持ちもわからんではないような光景ですが、戦前の大地主と小作人というのは、多かれ少なかれこういう世界に生きていたのでしょう。もちろん戦後生まれのわたしは実見したことはない。
さて、ここで番頭が、升をゆすれと言っているのは、同じ一升でも、升をゆすれば隙間ができてさらにコメが入るからであります。
一合のコメを計量カップに入れて計ると、だいたい150グラムになるそうですが、カップの底をトントンとカウンターにうちつけてやれば、嵩が減って、けっきょく165グラムくらいは入れることができるようですね。
だからご飯を炊くときは、計量カップで計るより、はかりで重さを1合150グラムとはかったほうが、むらがなくていいらしい。(え?そんなめんどくさいことしてへんわ、勘よ勘、ですか。ハイ、失礼しました)

1合のコメが150グラム見当であれば、一石はこの一千倍ですから150キログラムということになる。
『農業入門』(週刊ダイヤモンド編)という本によれば、一反の田んぼで7俵から10俵の収穫があるんだそうですね。とりあえず8俵として、1俵60キログラムですから、480キログラム。これを石に換算すればおよそ3石あまりの反当たりの収量となる。かつて一反と一石がリンクしていたとすると、これは肥料や農薬、石油をがんがん使った動力機械で農業革命が起った結果なんでしょうか、それとも一石と一反がリンクしていたというわたしの理解がまちがっているのであろうか。諸賢のご教示を待ちたいと思いますが、ともあれ、話を先に進めよう。今回書こうと思っていたのは、カネの話だ。

一反の田んぼから480キロのコメを収穫できて、しかもそれを全部売ることができていったいナンボになるのか。
これは簡単ですね。農林水産省の平成22度米の相対取引価格をみますと玄米60キロ当たりの全銘柄平均は12,711円であります。
ざっくり60キログラム12,000円とすると、12,000×8=96,000円となります。
一反の田んぼで上手にコメをつくって売り上げ10万円にもならない。
もちろん、籾代、肥料代、農機のコスト、ガソリン代、農業資材だので経費はかかります。おなじく『農業入門』によれば、コストは自分の田んぼで、借地料を払わずにすんだとしても5万5千円。すると、1反での手取りはせいぜい4万円たらずである。
手取り400万円にしようと思えば、1反の田んぼ百枚をやらなきゃならんわけだ。面積は10町歩になりますな。そんな、農地をもってる個人農家はどれだけいるのか。

つまり何十ヘクタールという広大な農地を集約して企業や農事法人にして集団耕作する以外に日本の農業が生き残る道はない。コメや野菜ををつくって父ちゃん母ちゃんがたかだか七反、八反の田畑で食っていくことはもう不可能なのだ、というのが残念なカン・ソーリーらTPPの推進派の、あるいは財界のといってもいいが、意見であります。ま、たぶんそうなのだろう。
しかし、わたしは、もう、そういうマクロな見方には興味があんまりないのだなあ。
父ちゃん母ちゃんの農業で、そこそこ食える暮らしも大事じゃないかてなことを考えるのですが、さて・・・。

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2011/02/09

容積のはなし

ものの容量をあらわすときに、もっともなじみが深いのは、ご飯を炊くときの一合、二合という単位だろう。あるいは酒呑みならば、二合徳利や一升瓶のほうか。
尺貫法の容積単位は次のように覚える。

1勺
1合=10勺
1升=10合=100勺 

一升は1.8リットル。一升瓶の容量でありますね。一合はこの十分の一。いまではあんまり見かけないが、わたしが子供のころの牛乳瓶は一合瓶だった。ウィキペディアによれば1970年代に厚生省が学校給食用牛乳瓶を200ミリリットルに決めたそうな。ぜんぜん知らなかったな。

最新のマイコンチップで制御された炊飯器でも、コメの計量はいまでも尺貫法がベースなのではないかと思う。カタログなどにも3合炊き、5.5合炊き、8合炊き、1升炊きという区分で表示されている。5.5合というのは、たぶん約1リットルの区切りなのだと思うが、それでも合という尺貫法の単位が優先である。こういうのはなんだかうれしくなるね。

さて1升の上の単位は次のようになります。

1斗=10升=100合
1石=100升=1,000合

斗のほうは「斗酒なお辞せず」の斗でありますね。
もっとも、古代中国の度量衡は現代日本とはまったく別物ですから、これがかならずしも詩的誇張というわけでもないらしいね。実は一斗の酒は2リットルくらいという説もある。一升と1合1勺。ま、これでも大酒飲みには違いないが、相撲取りなら八百長なしにガチンコで呑めるに違いない。

さて一合のコメは炊くとだいたい茶碗二杯くらいの感じでしょうか。むかしはこれが大人の一食分とされていました。
一日三食、コメを食うと一人で三合必要になります。
1年では、3合×365日=1、095合
ざっくり言って1000合、100升、すなわち一石(いっこく)であります。
つまり、石という単位は、壮丁ひとりを1年間養えるという意味をもっていた。言いかえれば、これは潜在的な兵力の指標でもあったわけですな。前田家、加賀百万石というのが、どれくらいの迫力を武家社会にもっていたか、こうして考えるとよくわかる。ま、この富を軍事力につかわないように、いかに文化に使わせるかが中央政府の課題でもあったわけだ。

それはともかく、この1石のコメを年貢として徴収するための田んぼの広さが、前回のべた1反という面積単位になるというのが、おおまかな理解でよろしいかと思う。ただし、きびしい突っ込みがくるといけないので、急いで言っておくが、検地や検見、年貢の話になると、素人ではとても手に負えないような複雑きわまる迷路に迷い込むことになるので、ここは、まそんなに単純な話ではありませんが、というエクスキューズはつけくわえておきましょう。(笑)

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2011/02/06

田んぼのこと

コスモスの野原にしたる二反かな 

という句を何年か前につくった。
郷里の家にはいくばくかの田畑がある。わたしが子どものころは祖父がコメをつくっていた。父の代になり、耕作はほとんど人にたのんでやってもらうようになったが、ここはうまいコメがとれる土だといわれていたようだ。やがて、田んぼをまかせる人も歳をとって、あまり何枚もは、たのめなくなると、一部は耕作をあきらめざるを得なくなった。しかし、ただ雑草で荒れ果ててしまったのではご先祖様にも申し訳がない。
苦しまぎれに父が考えたのは、ここをコスモスの花野にしてしまうことだった。
なにしろタネを撒くだけだ。秋には一面のコスモスである。
クルマで通りがかった親子連れに、わあ、きれいですね、と声をかけられることもあったらしい。よかったら好きなだけもって行きなさい、と言うてやったが思いは複雑でな、という父の話を思い出しながらつくった句である。

ただし、俳句の虚構で広さは正確には二反ではない。
実際には、一反にも及ばない田んぼだ。
ところで、みなさんは一反という面積がどのくらいの広さかすぐに思い浮かぶだろうか。

以下は図を見ながらお読みください。なお、ざっくりとした覚え方だから端数は無視しています。

Screencapture

まず日本の面積の単位でいちばんなじみのあるのは坪でしょう。
これはだれでも知っている。

1坪=3.3㎡

正方形で考えると、およそ182センチかける182センチで、まあタタミ2畳くらいの広さを思い浮かべればよろしい。坪は田んぼのときは歩(ぶ)という言い方をすることが多いと思います。
この1坪または1歩を30個集めると、一畝という単位になる。「いちうね」ではなく「いっせ」と読みます。

1畝=30坪 ほぼ100㎡=1アール

わたしが、今借りている畑は、15坪。5メートルかける10メートル。ほんとうは1畝単位で貸しておられる農園だったのですが、現地をみてとても手がまわらんと、半分にしてもらったいきさつがある。最初はけっこう広く感じますね。
この1畝が10個集ると一反(いったん)という単位になります。

1反=10畝=300坪 ほぼ1000㎡=10アール

だいたい田んぼというのはこの1反がひとつの基本単位だと思います。たとえば作物の収穫量なんかも10アールあたり(反収ともいう)何キロという具合に考えるわけです。もともとは大昔にさかのぼってコメの収量から規定されたのがこの反という面積単位ですから自然にそうなったのでしょう。
なお、この1反が10個集ると1町という単位になります。ふつうは一町歩(いっちょうぶ)なんて言い方をしてると思う。長さの単位の一町(約100メートル)との混同を避けるためらしいですね。

1町=10反=3000坪  ほぼ10,000㎡=1ヘクタール

日本の農地面積はだいたい460万ヘクタールで、1農家あたりにすると1.2ヘクタールなんだそうですが、たぶん北海道などの大規模農家を除くともっと狭いのではないかと思いますね。

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2011/02/03

You've got a friend

ちょっと前の話、日本近代史の加藤陽子さんが(記憶で書いているので違うかも知れない)新聞か雑誌かに、いままでやった東大の授業で一番学生に受けたのは、自分には友だちがいないの、と言ったときだった、と書いていらしたのが印象に残っています。

友だちがいない、というのは、たしかに自分にも他人にも認めたくないことです。いかに多くの友人を持っているかが、あたかもその人の人間的な価値の尺度であるかように考える人はむかしから多かった。
いまは(とくに若い人に)そういう決めつけが極端になっているような気がします。

しかし、ちょっと勇気のいることですが、自分には友だちがいません、と認めることのできる人が、ほんとうは「本当のこと」を言っているのかもしれません。
加藤教授の「自分には友だちがいないの」という言葉に、教室が活気づいたのは、ああ、そうか、友だちがいないことをこうやって認めたっていいんだ、という、ほっとした安心感、友だちがいないことを指摘されることに、そんなに怯えなくてもいいんだな、という安堵感が教室に広がったからじゃないかな、という気がします。

なんて、ことを今日は考えました。

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2011/02/02

俳句のこと

とあるご縁からお仲間に加えていただいて、それまで数年来つづけてきた月一の句会への出席を5月にとりやめてからは、作句からは遠ざかっていましたが、最近、句帖にぽつぽつと俳句になるかもしれない断片を書き連ねるようになりました。
まだ実際にはやっていませんけれど、NHKの俳句番組に投句などしてみようかと思い始めています。
長いほうにもあいかわらず関心があるので、これからは短歌にも取り組んでみるつもり。

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2011/02/01

読書について

この間にあまり本は読まなかった、と前回書きましたが、正確に言うと日本語で書かれた本は(農業関係を除いて)ほとんど読まなかったということになります。
主に通勤時間、もっぱら英語で書かれた本を読んでいました。
まあ単純にヴァニティなんだと思う、はい。

  • The Brass Verdict / Michael Connelly
  • The Scarecrow / Michael Connelly
  • Nine Dragons / Michael Connelly
  • The Girl with the Dragon Tattoo / Stieg Larsson
  • The Last Child / John Hart
  • The Girl Who Played with Fire  / Stieg Larsson
  • The Girl Who Kicked the Hornets' Nest / Stieg Larsson
  • This is Where I Leave You / Jonathan Tropper
  • The Finkler Question / Howard Jacobson
  • Howards End / E. M. Forster

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ミステリからだんだんとメインストリームの作品になっているのは、とくに深い理由はありません。適当に注文したり、本屋で買ったりしただけで。
このなかでは、スティーグ・ラーソンのミレニアム三部作は圧巻でしたねえ。本の分厚さもすさまじかったけれど。スウェーデンという国に俄然興味がわきました。

いま読んでるのは、昨年末に買ったペーパーバックで、ニコラ・ベーカーという女流の『Darkmans』。これが恥ずかしながらチンプンカンプン。2007年のブッカー賞の最終候補6作品のひとつというので(いや、ほんとうはアウトレットで300円だったからなんだけど)、面白そうだなと思って読み始めましたが、一月かかってまだ200ページにも届いていない。まあ、時間がかかるほうがある意味では目的にかなっているので、けっこうなことなんですけれど。

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