自然が一番はウソなのか(1)
自然が一番、ということをよくわたしたちは口にする。
いろいろ手をかけないのがいいのだよ、というような意味をそこにこめる場合もあるし、あるいは人工的に合成された物質よりも自然に存在する物質のほうが安全だという意味でつかう場合もあるだろう。
素朴な考えとしては、たしかにそうだなと思う。
たとえば、食物のことを考えるとすぐにわかるが、仮に栄養的にも食味的にもまったく問題がないと言われたところで、豚肉や牛肉を食べるのをやめて合成タンパク質で生きていこうと思う人はまずいないはずだ。それは、そんなものがおいしいはずはないという思い込みもあるけれど、むしろそれよりも、それはなんだか危ないように感じるからではないか。
もちろん、自然のものならなんでもいいと思う人はいない。トリカブトだって自然のものだが、それをわざわざ食べようとする人はいない。
食物については、人間が口にしていいもの、口にしてはいけないものは、それを実際に食べたらどうなったか、あるいはそれをある集団が食べ続けたらどうなったかという膨大な貴重な経験によって確立されたのだろうとわたしたちは考えている。それが事実であるかどうかはもちろんわからないが、ご先祖様ののっぴきならぬ飢えの恐怖や、あるいはやむにやまぬ好奇心と勇気によってわたしたちの食の地平線は広がってきたのだと理解をしているのじゃないだろうか。ナマコとかさ。(笑)
人工的な合成物がこの世界に登場するまで、ほとんどすべての生物由来の物質や、地表、海洋、大気中の無機物質についての知識は人間によって蓄えられ、農業や漁業や林業というかたちで利用されてきたのだと思う。
だから農民や放牧民や猟師や漁師の知識によって選別された「いいもの」が、じつはわたしたちの「自然が一番」の信仰の基礎にあるのじゃないかと思うんだなあ。
しかし、科学技術の発達によってここのところが少しずつズレはじめているような気がする。わたしにもうまく整理ができていないのだが、たとえばあんまり思索的に領域を広げすぎても収拾がとれなくなるので、野菜づくりということに限定してちょっと考えてみたい。
具体的には次のようなことだ。
キューピーがつくっている水耕栽培による野菜工場というものがある。土はまったく使わない。根を張るのはスポンジ。三角形に立てかけられた栽培床が屋内にレイアウトされ、収穫まで自動化されたラインがある。空気成分も温度も光も水や栄養もすべての環境がコンピュータで制御される。そういう野菜づくりについて、みなさんはどんなふうにお思いになるだろうか。
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
最近のコメント