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2011年8月

2011/08/31

源氏は寝て読め

源氏物語を現代語訳で読むのは、なんだかなさけないよなあ。べつに外国語で書いてあるわけじゃないんだし、やっぱり、どうせ読むなら原文読むほうがカッコいいよな、と思っておられる方もおられるかもしれない。
たしかにカッコはいいかもしれないが、たとえば岩波文庫で原文読みはじめても、たぶん途中でお手上げになりますね。

以下は、源氏は現代語訳でお読みなさいという趣旨の文脈ではないけれど(大学入試の国語関係の出題がよろしくないことを憂えた1975年の丸谷才一の「国語入試問題のこと」という文章)、源氏物語はかなり専門的な訓練を受けていないと読めない代物でありますよ、という意見である。

いはゆる古典のほうにも文学史的出題はちらほら見かけるが、この方面で目立つのは、解釈問題に『源氏物語』から取つたものがおびただしいことである。無理な話だ。あんなむづかしい文章が高校三年生に読めるものか。
このことに関しては、わたしの意見では弱いかもしれないから、専門家の説を引く。国語学者、大野晋は、いつぞやわたしとの対談の折に(「すばる」十六号)、大学の国文科の演習で『源氏』を取り上げたら、学生がついて来られなくて、まづ九分通りは失敗すると語つた。当然である。第一に、書いてあるのが男女の仲の最も微妙ないきさつである。恋の山路に迷ふ体験の乏しい年少者に見当すらつくはずがない。第二に文体が洗練を極めてゐて、いちいち露骨な言ひまはしを避け、ほのめかしの連続で行つてゐる。大学院生にだつて読めるかどうか。そして、大学生に歯が立たないものを大学の入学試験に使ふのは、滅茶苦茶もいいところであらう。

ええと、わたしのしょうもない意見もつけくわえますると、原文だけで、それもひとりで源氏読むのは、まあ、ふつうのおっさんには無理でありますので、どなたかの現代語訳にくわえて、大和和紀のコミック「あさきゆめみし」全7巻をまず昼寝の友にされるのがよろしいかと。
源氏は寝て読め、なんですよ。
え、そんなのプライドが許さん、って?困った人だなあ。
大和和紀、いいですよ。

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2011/08/29

大塚ひかり全訳「源氏物語」

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大塚ひかり全訳の『源氏物語』(ちくま文庫)を、ところどころ山岸徳平校注の岩波文庫版で原文をたしかめながら読む。まずは第1巻、桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫、末摘花、紅葉賀、花宴、葵、賢木までの十帖。
わたしは大塚ひかりという人のことはまるで何にも知らなかったのだけれど、本屋で時間つぶしをしているときに(最近は立ち読みではなくて座って読めるからありがたい)ふと手に取って読み出したら、これがじつに面白くて、待ち合わせの時間が来て本棚に戻すのが残念で思わず買ってしまったのであります。わたしにしてはめずらしい。

ところで、この全訳に対しては、あんなものをと眉をひそめるむきがあるかもしれない。
よく知りもしないくせになんでそんなことを言うかというと、巻末に著者の作品目録が載っているのだが、これがタイトルからして『カラダで感じる源氏物語』と『源氏の男はみんなサイテー』という挑発的なシロモノなんだなあ。ちょっと、前者を引用する。解説はどうやら小谷野敦らしい。

エロ本として今なお十分使える『源氏物語』。リアリティを感じる理由、エロス表現の魅力をあまさず暴き出す気鋭の古典エッセイ。

う〜ん、なんだかなあ、でしょ。(笑)
源氏を読もうなんて、せっかく殊勝な心がけであるならば、まあ、最近のリンボウ先生のはいまひとつ信用できないとしても、大谷崎もあるし円地文子でも、あんたの好きな田辺聖子だってあるじゃない、てなもんでありますよね。
なんで大塚ひかりなんて聞いたこともない(もちろんわたしが知らなかっただけ)人の全訳なのさ、ト。

答えは、だっておもしろいんだもの、ってことになるかなあ。
いまでこそ源氏物語は、世界最古の文学作品として、日本文化の精髄、ハイカルチャーの代表選手みたいに扱われているけれど、もともとあれは誨淫導欲の書で、ために紫式部は地獄に落とされたという説話もあったくらいなのである。淫蕩な要素を滅菌消毒してしまっては、その面白さは台無しである。
だから、この挑発的な本は、古来、堂上貴族やその姫君たちがカラダで堪能してきた読み筋を、ぶっちゃけこんな感じなのよね、と教えてくれるような破壊力がある。(ような気がする)

その仕掛けのひとつは、「ひかりナビ」という解説だろう。
本文の区切りのいいところで、そこまでの話の流れをまとめたり、出典や言外の意味、ときには定まっていない専門家たちの解釈を紹介したりして、ちょうどいいリズムで読めるんだな。若い姫君に女官が、源氏を語りながら、ときどき、「姫、ここはこういう意味なのでございますよ」なんて解説し始めるような塩梅で、おそらく源氏というのは、本文のヴォイス、登場人物それぞれのヴォイス、そして主人に語って聞かせている当の読み手のヴォイス、そういう多声的な語りが、聞き手である「読者」の体に沁み込むようなものだったのではないかしらん。
本書、ちょうど、オースティンのP&Pやナボコフのロリータのコノテーション版を読むときのような贅沢感があってたいへんよろしい。

大塚ひかり全訳の源氏は全6巻。1巻読むのに三ヵ月くらいかけているのでこの調子だと宇治十帖までいくのは二年がかりになりそうである。そういう本の読み方がいまはなんだか楽しい今日この頃なんであります。



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2011/08/22

ほかの国より貧しくてはダメですか

もと日銀総裁の福井俊彦氏が、日本経済新聞(8月17日)に登場していた。いまも進行中の「新しい日本へ――復興の道筋を聞く」というシリーズ記事である。福井氏の現在の肩書きはキャノングローバル戦略研究所理事長。
ちなみにこの研究所(CIGS)は、TPP推進と農業の集約化、大規模化を主張するイデオローグであるところの山下一仁氏も研究主幹として抱えており、これから零細農家になろうという予定のわたしにとってはちと一物含むものがあるのだが、まあそれはまたいずれあらためて。

さて、定期的にここをのぞいてくださっているみなさんはご存知のように、ちょっと前にわたしは「バイバイ原発」という文章を書いて、そのなかで次のように述べた。

しかし、わたしは思うのだが、べつに生活レベルを50年くらい、場合によっては100年くらいむかしの水準に戻して、それでも不幸のどん底に落ちることにはならないのじゃないかなあ。いや、むしろそのほうが幸せになれるような気さえする。

じつは、今回、日経新聞で「おや、おや」と思わず、口をついたのは、福井氏が以下のやりとりを記者としたかたちになっていたからなのだ。

――昔の生活に戻れという人もいる。
「違う。国際的な生存競争に勝たないと、失う一方になる。安全で快適に暮らそうと思ったら、ほかの国よりも貧しくてはダメで、自分たちだけ成長を止めるわけにはいかない。「昔」とはいつか。都合のいい時期まで時計の針を戻す器用な方法などない。」

インタビューのかたちをとった記事だから、かりにこの通りの談話であったとしても、じっさいの語気の鋭さまでは想像するほかないが、わたしの受ける印象では、けっこう気合の入った発言のように思える。
なにもそんなにむきにならなくても、ねえ、という感じなのだが、逆にいえば、いまの生活レベルを落とせばいいじゃん、といった単純素朴な意見は意外に多いのかもしれないなあ。

まずなんの留保もなしに無条件に同意できることは、「都合のいい時期まで時計の針を戻す器用な方法などない」という意見。はい、そのとおりだとわたしも思います。
「自分たちだけ成長を止めるわけにはいかない」というのは、まあそうだよね、と同感する部分。

だが、以下のふたつの見解にはまったく賛同できない。

ひとつ目は「国際的な生存競争に勝たないと、失う一方になる」という見解。
まずもって国際的な生存競争というキツい言葉が意味するものが、わたしにはよくわからない。この部分の主語はたぶん「日本」だろうが、日本はいまその生存をかけて競争しているという認識を福井氏は示しているのだろうか。(研究所の金づるのキャノンが生存をかけて競争しているというならそりゃよくわかるけどさ)
負けると生存できないというのは、主権を奪われるという意味で言ってるのかな。いまはアメリカの属国だが、下手するとそのうち中国の属国にされちゃうよ、という意見なのか。まあ、ここは記者がおおげさに見栄をきって書いちゃった言葉かも知れないけれど。
さらにわからないのは「失う一方になる」というパセティックな言葉だ。
歴史は、どれくらいの長さでそれを見るかによって多少ずれはあるけれども、敗者が失う一方であったということはないことを示していると、わたしは思いますがね。1945年に戦争に負けて、日本は途方もないものを失ったわけだが、その後の復興と経済成長のことを考えれば、決してそれが「失う一方」ではなかったと云えるのではないかしらん。

二つ目は、「安全で快適に暮らそうと思ったら、ほかの国よりも貧しくてはダメ」というところ。ダメって言われたって、ほかの国より貧しい(あるいはほかの国より豊か)かどうかは、どこの国と比べるかだけのオハナシで、そんなものではないことは明白。だから、ここはわかりやすく言えば、北朝鮮みたいになったらダメという意味だろうね、実際に言いたいことは。
しかし、北朝鮮がダメなのは貧しいからというより、貧しい国にしている別のものが絶望的にダメだからである。
安全で快適に暮らすための条件は、ほかの国より豊かであることだと、かつての中央銀行総裁はおっしゃるのであろうか。いやみに揚げ足をとれば、ほかの国のほうがビンボーだったらわが国は安全で快適である、ト?

核発電(もうわたしは個人的には「原子力発電」という表記は止めました)でじゃぶじゃぶ電気を使って経済をまわし、カネがうなるほどあっても、それがもし、いまの中国のような国になるということだったら、わたしはそんなのぜんぜんいいとは思わないけどな。

ただし、公平に言って、福井氏の考えは、なにがなんでもいまの核発電体制を維持せよというのではない。核発電を組み込んだ日本のエネルギー政策を、徐々に核抜き発電にソフトランディングさせていく現実路線以外はオハナシになりまへんでとおっしゃっているのである。(たぶん)

現実論として、これが国の政策としては、まあ妥当なものだろうとわたしも思う。
できうることであれば、新設の核発電所はもうあきらめて、現役の核発電を10年くらいで順次、廃止、解体するのがよいと思うが、この点に関しては、率直に言ってわたしは悲観的である。たぶん、国のエネルギー政策という言葉は、国の安全保障という言葉と同じように使われて、エリートのみなさんのお手盛りで、核発電の割合を四分の一程度にするとかなんとかいうあたりに落ち着くのだろうと思う。
そして、そのときにきっと、福井氏のような支配層のみなさんは、「国際的な生存競争に勝たないと、失う一方になる。安全で快適に暮らそうと思ったら、ほかの国よりも貧しくてはダメ」とわたしたちにむかって説教なさるでありましょう。
くそをくらえ、であります。

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