「わたし」という密航者(下)
ゾウさんのお鼻はなぜ長いの、という子どもの質問にきちんと答えることができないのと同様、人間になぜ「わたし」という意識があるのかはほんとうのところはよくわからない。たまたま現生人類につながる旧人類のなかで、そういう「モノ」がそなわった種が突然変異として生まれ、そういう「モノ」をよりクリアに長時間維持できる集団のほうが、種の維持の上で優位に立てるためにそうなったのだということなのかもしれない。
しかし、そうであろうとなかろうと、人間という種のレベルで考えても意識の起源というのは、むしろ気がついたらすでにそこにあった、というようなタイプのものであろうと思われる。
そして、ここでも個体発生は系統発生を繰り返すではないが、わたしたちひとりひとりの人生の旅のなかでも、「わたし」という意識は、気がついたらすでにそこにあったようなあり方でしか考えることができないのではないか。
さて、では「わたし」という意識がクリアにあるというのはどういうことかと、ない知恵を必死にしぼって考えに考えていくと、なんだ、それはつまるところ「ことば」ではなかろうかとおぼろげながら理解できるようになる。
人間も動物の仲間である以上、眼や耳や鼻などの感覚器から得られた情報をもとにして自分が現在いる世界を脳のなかで再現するという仕組みは共通である。もちろん感覚器の性能が種によって大きく違う以上、人間が再現している世界と、イヌやウマが再現している世界はまったく違っているだろう。しかし、基本的な仕組みは同じである。
たとえばいま広大な草原に立って、目の前の地平線まではるかにひろがる大地をただあるがままに見る。風が吹き、草がゆれ、青い空を雲がゆっくりと動いて行く。そういう世界を、あるがままに感じているだけの無我に近い世界、それが動物たちにとっての世界に近いものだとしたら、かれらには無い(すくなくとも人間と同等のクリアなレベルには無い)意識というのは、なんだろうか。
それは「地平線かあ、広いよなあ、おや風だぜ、いい気持だ、大きな雲が動いてら、そういやむかしワタシの好きなソオーゲンって、歌があったなあ、アグネス・チャンあいかわらず日本語下手だよなあ」などといった意識の流れであり、それはとりもなおさず言語である。この言語を全部取っ払って、ただ世界を感じているだけの状態(というのは実際にはむつかしいのだけれど)が動物たちの脳のなかの世界なのではないかしらん。
つまりクリアな意識とは要するに言語そのものではなかろうか。
意識の構造とは畢竟、言語の構造のことである、とわたしには思えます。
「わたし」ははじめ密航者だった。長い航海のはじめのころにふと気がつくとみんなが、おやいつの間にこんな身元不明のやつが紛れ込んでいたんだろうと思うような、船の運航には本質的には必要のない、べつにそんなやつがいなくても船乗りたちにはかまわない密航者だった。
だが、やがて長い航海のなかで、嵐を乗り切るための選択のときにみごとな洞察を示し、あるいは船乗りたちの乱闘にいたるような利害を調整して、みるみる頭角をあらわし船長として君臨することになった。
しかし、この船長は操船にはまったく素人同然で、判断を仰がれないときは、操舵室の後ろでぼんやり海やら空をながめてぶつぶつ独り言をつぶやき、こまかいことはお任せしますからと只乗りの乗客同然、やがて船路の果にはもとの密航者よろしく役立たずに終るのであろう——。
今回のネタは、ブレインサイエンス・ポッドキャストの「エピソード75」、デイヴィッド・イーグルマン博士のインタビューから。もっとも内容は全然違っていますけれど。
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