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2011年10月

2011/10/04

「わたし」という密航者(下)

ゾウさんのお鼻はなぜ長いの、という子どもの質問にきちんと答えることができないのと同様、人間になぜ「わたし」という意識があるのかはほんとうのところはよくわからない。たまたま現生人類につながる旧人類のなかで、そういう「モノ」がそなわった種が突然変異として生まれ、そういう「モノ」をよりクリアに長時間維持できる集団のほうが、種の維持の上で優位に立てるためにそうなったのだということなのかもしれない。

しかし、そうであろうとなかろうと、人間という種のレベルで考えても意識の起源というのは、むしろ気がついたらすでにそこにあった、というようなタイプのものであろうと思われる。
そして、ここでも個体発生は系統発生を繰り返すではないが、わたしたちひとりひとりの人生の旅のなかでも、「わたし」という意識は、気がついたらすでにそこにあったようなあり方でしか考えることができないのではないか。

さて、では「わたし」という意識がクリアにあるというのはどういうことかと、ない知恵を必死にしぼって考えに考えていくと、なんだ、それはつまるところ「ことば」ではなかろうかとおぼろげながら理解できるようになる。

人間も動物の仲間である以上、眼や耳や鼻などの感覚器から得られた情報をもとにして自分が現在いる世界を脳のなかで再現するという仕組みは共通である。もちろん感覚器の性能が種によって大きく違う以上、人間が再現している世界と、イヌやウマが再現している世界はまったく違っているだろう。しかし、基本的な仕組みは同じである。

たとえばいま広大な草原に立って、目の前の地平線まではるかにひろがる大地をただあるがままに見る。風が吹き、草がゆれ、青い空を雲がゆっくりと動いて行く。そういう世界を、あるがままに感じているだけの無我に近い世界、それが動物たちにとっての世界に近いものだとしたら、かれらには無い(すくなくとも人間と同等のクリアなレベルには無い)意識というのは、なんだろうか。
それは「地平線かあ、広いよなあ、おや風だぜ、いい気持だ、大きな雲が動いてら、そういやむかしワタシの好きなソオーゲンって、歌があったなあ、アグネス・チャンあいかわらず日本語下手だよなあ」などといった意識の流れであり、それはとりもなおさず言語である。この言語を全部取っ払って、ただ世界を感じているだけの状態(というのは実際にはむつかしいのだけれど)が動物たちの脳のなかの世界なのではないかしらん。

つまりクリアな意識とは要するに言語そのものではなかろうか。
意識の構造とは畢竟、言語の構造のことである、とわたしには思えます。

「わたし」ははじめ密航者だった。長い航海のはじめのころにふと気がつくとみんなが、おやいつの間にこんな身元不明のやつが紛れ込んでいたんだろうと思うような、船の運航には本質的には必要のない、べつにそんなやつがいなくても船乗りたちにはかまわない密航者だった。
だが、やがて長い航海のなかで、嵐を乗り切るための選択のときにみごとな洞察を示し、あるいは船乗りたちの乱闘にいたるような利害を調整して、みるみる頭角をあらわし船長として君臨することになった。
しかし、この船長は操船にはまったく素人同然で、判断を仰がれないときは、操舵室の後ろでぼんやり海やら空をながめてぶつぶつ独り言をつぶやき、こまかいことはお任せしますからと只乗りの乗客同然、やがて船路の果にはもとの密航者よろしく役立たずに終るのであろう——。

今回のネタは、ブレインサイエンス・ポッドキャストの「エピソード75」、デイヴィッド・イーグルマン博士のインタビューから。もっとも内容は全然違っていますけれど。
【こちら】



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2011/10/01

「わたし」という密航者(上)

意識という言葉はたいへんむつかしい言葉で、「あれはぜったい意識的にやっているよ」とか「ちと意識過剰じゃないの」といった感じで、ふだんの日常会話でもよくつかわれるが、たとえば哲学用語としての意識には、それぞれ哲学者によって精緻な定義があるだろうし、心理学用語としても医学用語としてもそれぞれの定義があると思う。
まあ学問的なことはさっぱりわからないので、ここでは、ごくあたりまえにどなたにも「わたし」というものがある、その「わたし」のことをとりあえず意識ということにしておく。

さて自分の死のことを考えると誰しも足元が崩れて無限の深淵が広がっているような不安を覚えるわけだが、これはほかならぬ「わたし」が消滅したあとも宇宙は永遠に続くと考えるからだと思う。だから死ぬのは身体だけであって、「わたし」というのは消滅しない、「わたし」は姿を変えかたちを変えてやはり宇宙と同じように永遠に存在を続けるのだと、心底納得できれば、死の恐怖はかなり減るだろう。信仰というのはつきつめて言えばそういうことではないか。

ところで、これまたよく考えてみると不思議なことだが、かくもかけがえなく貴重なものと思い、その消滅を打ち震える思いで恐れる「わたし」というものは意外とたよりないものである。なぜなら、わたしたちは毎晩、眠りとともに「わたし」を見失っているからである。
朝、起きた後で考えると、いまここにある「わたし」は眠りの間にはなかった、としか思えない。だとすれば、「わたし」――意識は人間の生存にとって本質的なものではないのではないのか?なぜなら、意識があろうとなかろうと眠りの間も生命の維持には何の問題もなかったのだから。

いや、それは違うだろうと、すぐに言う人がいると思う。
それは意識のレベルの問題で、覚醒した意識に比べるとたしかに睡眠中は低くなっているけれども、なにか刺激があればすぐに、意識のレベルは高くなる。睡眠中であれ別に「わたし」は消滅しているわけではないのだと。

おそらくはどちらも正しいのだろう。
むしろ問題の立て方は、人間の生命維持にとって、「わたし」がクリアにあると自覚できる状態が自然なのか、「わたし」の存在がぼんやりしたり、もはやあると自覚できないないような状態が自然なのか、ということなのかも知れない。
そしてもし問題がそのようなものであれば、おそらく答えは後者のほうであろうとわたしは思うのだが、どうだろうか。
なぜなら動物は、人間の「わたし」のような形の意識があるようにも見えないが、自然界のなかできちんと生存を続けているのだから。

この話、もう少し続ける。

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