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2012年3月

2012/03/31

春の海、内海としての周防灘

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今日は山陽小野田市のソル・ポニエンテという店で、春の光をまきちらす海を眺めながらのんびりとランチ。ひねもすのたりのたりかな、というには、今日はちと風がきつく、沖には白波が立っていたが、ウィンド・サーファーたちが、元気に猛スピードで出撃を繰り返していた。遠く北九州の山並みを背景に、水平線上を関門海峡に向かういろいろなシルエットの貨物船が一列縦隊をなして、まるで舞台の下手から上手へわたっていく役者のように動いていた。地図をよく見るとわかるが、山口県のこのあたりと北九州はほんとうに近い距離で、内海である周防灘を囲んだひとつづきのエリアと見るのがいいようだ。中世においてはこのあたりは大内氏が支配下においていたらしい。網野善彦の『「日本」とはなにか』(日本の歴史)にはこんな記述がある。

さらに筑前・豊前から周防・長門・石見を押さえた大内氏が応永の乱で敗北するまでは、紀伊・和泉の守護となって、瀬戸内海交通を支配した。

美味しいスペイン料理に舌鼓を打ちながら、そんなことに思いをはせた春の午後でした。 

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2012/03/30

長靴の修繕

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山仕事にゴム長で出かけていたら、一気に傷んでしまった。
山には、もう少しヘビーデューティな安全靴タイプがよさそうだ。でもあれ、けっこう高いんだよなあ。

失業者のかなしさ。お金がもったいないので、修繕してもう少し使うことにする。
自転車修理の要領で。昔とった杵柄というのはこういうことを言うのかいな。

探させると、どこからか古タイヤのチューブも出てきたが、ホームセンターのパンク修理キットにゴムのパッチも入っていたので、こちらで間に合わせる。

ある人に言わせると、継ぎ当てゴム長は百姓の勲章とか。
ま、そんなところ。こっちのほうが断然、カッコいいね。(笑)


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木瓜の花

朝、畑に出ていたら父がやってきたので、ちょうどいいやと、「昨日あたりから白いのが咲き出したんだが、これはなんの木かね?」と聞くと、「なに俺みたいな花さね」と答えた。
首をかしげると笑って、「木瓜だよ。木瓜」。

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「あっちに紅いのもある」
なるほど、同じ種類のようだ。
紅い木瓜はまだ莟がかたい。春である。


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辛夷が咲く

暖かくなったので勝手口の辛夷が咲き出した。今日は午前中は快晴、午後から曇り、夕方から雨模様なり。

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ブログ再発見

自分の生活記録をとっていくのに、むかしの人なら、日記をつけた。政治家や名のある人物であれば、当然、後世に公表されることを念頭に置いて記録していっただろうし、無名の人であっても、自分の死後に他人が読んでもいいように書くという日記もあっただろう。
まあ、たいていの場合は、あまりに私的なことが書かれていたりするものだから、ある時期になると「かゝるものは焼捨つるに如かずと直ちに後園に持出でし」(永井荷風)という仕儀になるのかもしれないけれど。

しかし、どんなささやかなことであっても、おりに触れて感興の動くことはあるものだから、それを記録していくことは、たのしいことであり、またもしそれを誰かに読んでもらえるとしたら、そのよろこびも倍加する。
もともとブログというのはそういうときに、うまく機能するものだった。

ところが、これはわたしの場合だが、さまざまなサービスを利用するようになると、自分の生活記録を、どの媒体を中心につけていくのかということが、しだいに「拡散」してしまう。
とくに iPhone のおかげで、いつでもどこでも、簡単につぶやいたり、写真を撮ってアップしたりできるので、Twitter と Facebook への投稿が多くなる。だが、このどちらもたいへん魅力的なサービスだとは思うのだが、それぞれ一長一短がある。Twitter は、やはり流れていく感覚がいいのであって、ここに生活記録的な要素を求めるのは場違いであるような気がする。Facebook は、とくにタイムラインになってからは、リアルタイムの自分史の記述のようでわくわくさせられる面はあるが、わたしのように友達の少ない行動範囲の狭い人間にはちょっと気の引けるサービスだし、また、文字の打ち間違いの訂正が簡単にできなかったり、写真のサイズやレイアウトなどが、全部おまかせなのが、いらっとくることがあるんだなあ。

ということで、ほかの方はどうかしらないが、案外、ブログというツールはけっこういいじゃん、ここに生活雑記をどんどん書けば誰でも読めるから風通しもいいし、それをFacebookのタイムラインに反映させてしまえば、あとあと、自分の活動のログにもなるじゃん、といまさらながらに思った。ブログの再評価でありますね。

ということで、里山の暮らしの細々したことを、一日の終わりに細切れでエントリーするようなやりかたを試してみることにします。

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2012/03/19

無線LANでのプリンタ不具合のこと

引っ越し後の我が家は、バッファローの無線LANルーターをダイニングにおいて、父(90歳)がMacBookをそこで使い、わたしは書斎でiMacを使うという環境。プリンターはダイニングの廊下に置いていて、両方から無線LANでつないでいたのだが、突然、つながらなくなった。
ルーターとプリンタはちゃんとつながっているのにどうしてもプリンタがオフラインのままになるのだった。
しかたなく、しばらくUSBケーブルをMacBookとプリンタでつないで対処していたのだが、さすがに書斎のiMacまでケーブルを延ばすこともできず、落ち着いたらエプソンのサポートに電話しよ、とずっと思っていた。
なんとか今日の5時前に時間ができたので電話。すぐ受付担当者につながって、当方の環境(PC、プリンタ、ルーターの型番)をヒアリングして、マック環境の担当者から電話を折り返しさせますとの対応。20分後くらいに電話があり指示にしたがって対処。エプソンのサポート体制は満足いくものでした。

結局、マックの環境設定でプリンタをいったん削除して、PC、プリンタだけでなくルーターの電源までオフにして、再度、電源を入れると自動でLAN環境を再構築するので、プリンターを再度ちゃんと認識してくれました。
要は無線LANルーターまで初期化したら直りましたということでんな。

同様のトラブルに見舞われる方もあるかもしれないので参考までに。

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2012/03/05

宇野千代について

個人全集が図書館の書架に長々並ぶほどの作家は、読めば面白いのはわかっていても、なかなか「えいやっ」と気合いが入らないと読むことがないものだ。

たとえば宇野千代。

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ご本人が、泥棒と人殺し以外はなんでもやったとおっしゃる、波瀾万丈の人生を送った女流である。それでなくとも当方は無事これ名馬、石橋を叩いてわたらないという小心者。とくに艶っぽい方面にはまるで縁がない人生行路でありましたから、よほどの「えいやっ」がないと手に取ることはないはずであった。

きっかけは池内紀の『文学探偵帳』(平凡社)の文章である。(ちなみにこの本と『出ふるさと記』(新潮社)は、そういう気合いを入れてくれるオススメ本なり)うん、これは実物にあたってみなければと思って、今回読んだのは以下の作品。(読んだ順に)

おはん
刺す
薄墨の桜
風の音
或る一人の女の話
雨の音
人形師天狗屋久吉

新潮社の「新潮現代文学7」を中心に、図書館で中央公論社の個人全集も読み継ぎながらとりあえずここまで。
手あかにまみれた表現ながら「おはん」はやはり昭和文学を代表する不朽の名作だろう。最近の小説一般からみれば、ほとんど短編といってよいくらいの長さだが、初出の連載から完成まで、宇野はおよそ10年と言う歳月をこれに費やした。もちろん期間が長ければ長いほどいいというものではないし、一気呵成に仕上げた、たとえば幸田露伴の名品のような溜飲の下がる読後感は得られない。しかし、なんとまあ、ここにある語りの快さ。いつもの黙読が次第に、ほとほと愛想のつきるような、芯からつまらない男の、ぼそりぼそりと語る声に置き代わり、ラストにいたっておはんの手紙の中から、なぜか今度はたしかにまぎれもないおはんの声が読者の耳にしみ入るように聞こえる。
文字を読んだのではない。小説を読んだのではない。語る声を聞いたという記憶しか残らないないような見事な一編。
芸である。そしてこの芸ということは、小説技術という意味ではない。

ながい間のことでござりますけに、自分の作ったものを誰に渡しましたやら、また、あれはええ出来であったのになんどというようなことは、覚えてもおりません。よう出来ておって、いかにも渡すのが惜しいなどと思うようなこともござりません。わがが拵えたものでござりますけに、いつでも、まだこの上のものが出来ると思うております。死んだらそれではじめて、ここまでしか出来なんだというくぎりがつくようなものでござりましょうぞ。飛騨の匠でも、左甚五郎はんでも、これならええと思うて死んだのやないと思います。もっと長生きしてましたら、どれだけのことをしてのけたろうぞと思います。ほんに、死んだのが、一番のおとまりでございます。芸のお了いでござります。
宇野千代「人形師天狗屋久吉」

宇野千代は小説は誰にも書ける。ただ毎日、机について書き続ければいいのよ、と言ったそうだ。いまそのことを簡単なことだと思う人はいないだろうが、これを自身の文芸上の極意に据えたきっかけになったのが、阿波の人形師天狗屋久吉こと吉岡久吉の聞き書きだった。
この「人形師天狗屋久吉」で宇野が自家薬籠中のものにした文体が名作「おはん」を生んだというのはじつはそれほど重要なことでなく、もっとも意味があったことは、小説書きもしょせんは芸であり、芸である以上は、人形浄瑠璃の木偶をつくることとなんら変わりはないという確信、おそるべき根性であった、とわたしには思える。

上記、今回読んだものはどれも夢中になったが、あえてひとつと言われれば「薄墨の桜」を挙げる。
私小説のようにはじまり、おどろくべきロマン小説に変り、そしてまた私小説のように終るというあんぐり口をあけて、こんなおもろいオハナシ書いた婆さんやったんかあ、と嘆息すること間違いなし。



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2012/03/03

カーネーション

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連続テレビ小説「カーネーション」、毎朝欠かさず面白く見ていますが、小野真千子のヒロイン糸子が今朝で終了、夏木マリに引き継がれましたね。バトンタッチもけっこううまくいっているんじゃないか、ちゃんとキャラクターがつながっているように見えました。これからまた、七十代、八十代の糸子がどんなふうにやって行くかたのしみです。

とはいえ、いちおう今日がファンにとっては中締めというか、ひとつの最終回みたいな感じになるのはやむ得ない。作り手の側も、そういう意識がやはりあったような気がします。
昭和48年のだんじりの夜、千代のもとに死んだ善作がやってきて酒をついでもらう。なかなかいいシーンでした。年寄りがときどき混乱して、周囲の人がおもわず顔を見合わせるようになる、というのはどの家にもあることで、それはそういうものとしてそのまま呑み込むしかない人生の一こまである。
あのやさしいおばあちゃんの最期を、こういうかたちであたたかく描いてやるのはとてもいいとわたしは思いました。

この「カーネーション」、もちろん小野真千子がすごいのは間違いないし、わたしも毎回、大笑いしたり涙ぐんだりしどうしですが、もうひとつたのしみにしていたのは次女直子役の川崎亜沙美の登場シーンですね。目が離せない。これは演技とか(そういうのはわたしはあんまりよくわからない)ではなくて、女優本人の迫力みたいなもんが、テレビの画面からでさえこちらに伝わってくるからじゃないかと思います。
いま流しているサントリーのコマーシャルで、松たか子とコシノジュンコの対決シーンがありますが(さすがに広告屋は抜け目がない)、おお、このヒト、あの直子にそっくりだわと頭が反応して、つぎの瞬間、ちがうやろ、こっちがホンモン、となるのはわたしだけであろうか。(笑)

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2012/03/02

遠い足の話

ある土地からある土地へ「引っ越す側」がいれば、その両方に「引っ越される側」がいる。引っ越す側は、引っ越されるふたつの土地に、否応なしに逆波を立ててしまう。「出て行かれる側」はいっときの寂しさばかりでなく、「ここに残された」感覚がしばらくはあとを引くだろう。「入って来られる側」にしても、それまで絶妙に取れていた町内のバランスに、乱れが生じないはずがない。祭の日程、掃除当番、ゴミ出しのルール、越してくる相手はなにも知らない。「引っ越し」は越す側からすれば新生活のスタートだが、越される側にとってはけっこう大きなストレスの種になり得る。そして、ストレスを最小限に抑えられるかどうかは、その土地との「縁」の有り無しにかかっている。
たとえば、親がそこで生まれたとか、連れ合いの実家だとか、前に住んでいた町に戻るとか、親戚が紹介してくれた家だとか。わずかでも「縁」が見えれば、越される側は皆よろこんで大綱のように引っぱりあげてくれる。新たな「縁」が結ばれるのは誰にとっても嬉しいことだからだ。

いしいしんじ『遠い足の話』(新潮社)


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いしいしんじの『遠い足の話』を読む。「yom yom」の連載のときに直島と高野山の巻は読んでいたけれど、あとは今回がはじめて。もともと文芸誌はほとんど読まないし、ここ二年ばかりは本を読むこと自体が、がくっと減っていた。
ただここのところ、引っ越しの準備もだいたいはできて(すくなくともわたし個人の持ち物はほとんど処分した)借りていた畑も返還したので、たいしてすることがなく、図書館に行って、適当に借り出した本を読んで過ごしている。
後日書くかもしれないが、そのなかで「うーん」と唸っていま夢中になっているのが、宇野千代の小説。そして、その「うーん」とはちょっと異なるが、やはりかなり「うーん」という気分で読み終えたのが本書である。

この作家、以前、本棚のカミさんの縄張りから取り出して読んだときに感想を書いた。(「傑作はこれから」)しかし、そのときには、この人のことを、勝手に辻邦生のようなタイプのように思っていたのでありますね。
いや、もちろん辻邦生のことだって、ろくに知ってはいないが、なんとなく言いたいことはわかっていただけるのではないかなあ。端正で静謐で書斎の奥深く隠栖している文学者——。
ところが、本書の、とくに浅草の巻あたりを読んで、「これはこれは」と唖然とした。いや、お見それしました。すくなくとも人気作家として大成する以前の、有象無象ライター時代のこの人の日常は、読みながら爆笑していいのか、あきれていいのか、まあ、わたしのような小市民のちまちましたケチ臭さとは文字通り雲泥の差があった。

もちろん、笑いのめして書いてはあるけれど、そういうお笑い芸人の「すべらない話」的なめちゃくちゃな日常は、本人にとっては、もがけど行き場の見えない「深海」のようなものであっただろう。人々の「縁」で出来たぷちぷちとした泡が「無数にからだにまとわりついて徐々に水面に浮か」したのだと本人が書いているとおりである。

最後の文士、というのがいろんな現代作家に奉られる称号ではあるけれど、もしかしたら、いしいしんじも十分その候補に挙げていいのかもしれないなあ。



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