宇野千代について
個人全集が図書館の書架に長々並ぶほどの作家は、読めば面白いのはわかっていても、なかなか「えいやっ」と気合いが入らないと読むことがないものだ。
たとえば宇野千代。
ご本人が、泥棒と人殺し以外はなんでもやったとおっしゃる、波瀾万丈の人生を送った女流である。それでなくとも当方は無事これ名馬、石橋を叩いてわたらないという小心者。とくに艶っぽい方面にはまるで縁がない人生行路でありましたから、よほどの「えいやっ」がないと手に取ることはないはずであった。
きっかけは池内紀の『文学探偵帳』(平凡社)の文章である。(ちなみにこの本と『出ふるさと記』(新潮社)は、そういう気合いを入れてくれるオススメ本なり)うん、これは実物にあたってみなければと思って、今回読んだのは以下の作品。(読んだ順に)
おはん
刺す
薄墨の桜
風の音
或る一人の女の話
雨の音
人形師天狗屋久吉
新潮社の「新潮現代文学7」を中心に、図書館で中央公論社の個人全集も読み継ぎながらとりあえずここまで。
手あかにまみれた表現ながら「おはん」はやはり昭和文学を代表する不朽の名作だろう。最近の小説一般からみれば、ほとんど短編といってよいくらいの長さだが、初出の連載から完成まで、宇野はおよそ10年と言う歳月をこれに費やした。もちろん期間が長ければ長いほどいいというものではないし、一気呵成に仕上げた、たとえば幸田露伴の名品のような溜飲の下がる読後感は得られない。しかし、なんとまあ、ここにある語りの快さ。いつもの黙読が次第に、ほとほと愛想のつきるような、芯からつまらない男の、ぼそりぼそりと語る声に置き代わり、ラストにいたっておはんの手紙の中から、なぜか今度はたしかにまぎれもないおはんの声が読者の耳にしみ入るように聞こえる。
文字を読んだのではない。小説を読んだのではない。語る声を聞いたという記憶しか残らないないような見事な一編。
芸である。そしてこの芸ということは、小説技術という意味ではない。
ながい間のことでござりますけに、自分の作ったものを誰に渡しましたやら、また、あれはええ出来であったのになんどというようなことは、覚えてもおりません。よう出来ておって、いかにも渡すのが惜しいなどと思うようなこともござりません。わがが拵えたものでござりますけに、いつでも、まだこの上のものが出来ると思うております。死んだらそれではじめて、ここまでしか出来なんだというくぎりがつくようなものでござりましょうぞ。飛騨の匠でも、左甚五郎はんでも、これならええと思うて死んだのやないと思います。もっと長生きしてましたら、どれだけのことをしてのけたろうぞと思います。ほんに、死んだのが、一番のおとまりでございます。芸のお了いでござります。
宇野千代「人形師天狗屋久吉」
宇野千代は小説は誰にも書ける。ただ毎日、机について書き続ければいいのよ、と言ったそうだ。いまそのことを簡単なことだと思う人はいないだろうが、これを自身の文芸上の極意に据えたきっかけになったのが、阿波の人形師天狗屋久吉こと吉岡久吉の聞き書きだった。
この「人形師天狗屋久吉」で宇野が自家薬籠中のものにした文体が名作「おはん」を生んだというのはじつはそれほど重要なことでなく、もっとも意味があったことは、小説書きもしょせんは芸であり、芸である以上は、人形浄瑠璃の木偶をつくることとなんら変わりはないという確信、おそるべき根性であった、とわたしには思える。
上記、今回読んだものはどれも夢中になったが、あえてひとつと言われれば「薄墨の桜」を挙げる。
私小説のようにはじまり、おどろくべきロマン小説に変り、そしてまた私小説のように終るというあんぐり口をあけて、こんなおもろいオハナシ書いた婆さんやったんかあ、と嘆息すること間違いなし。
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