遠い足の話
ある土地からある土地へ「引っ越す側」がいれば、その両方に「引っ越される側」がいる。引っ越す側は、引っ越されるふたつの土地に、否応なしに逆波を立ててしまう。「出て行かれる側」はいっときの寂しさばかりでなく、「ここに残された」感覚がしばらくはあとを引くだろう。「入って来られる側」にしても、それまで絶妙に取れていた町内のバランスに、乱れが生じないはずがない。祭の日程、掃除当番、ゴミ出しのルール、越してくる相手はなにも知らない。「引っ越し」は越す側からすれば新生活のスタートだが、越される側にとってはけっこう大きなストレスの種になり得る。そして、ストレスを最小限に抑えられるかどうかは、その土地との「縁」の有り無しにかかっている。
たとえば、親がそこで生まれたとか、連れ合いの実家だとか、前に住んでいた町に戻るとか、親戚が紹介してくれた家だとか。わずかでも「縁」が見えれば、越される側は皆よろこんで大綱のように引っぱりあげてくれる。新たな「縁」が結ばれるのは誰にとっても嬉しいことだからだ。いしいしんじ『遠い足の話』(新潮社)
いしいしんじの『遠い足の話』を読む。「yom yom」の連載のときに直島と高野山の巻は読んでいたけれど、あとは今回がはじめて。もともと文芸誌はほとんど読まないし、ここ二年ばかりは本を読むこと自体が、がくっと減っていた。
ただここのところ、引っ越しの準備もだいたいはできて(すくなくともわたし個人の持ち物はほとんど処分した)借りていた畑も返還したので、たいしてすることがなく、図書館に行って、適当に借り出した本を読んで過ごしている。
後日書くかもしれないが、そのなかで「うーん」と唸っていま夢中になっているのが、宇野千代の小説。そして、その「うーん」とはちょっと異なるが、やはりかなり「うーん」という気分で読み終えたのが本書である。
この作家、以前、本棚のカミさんの縄張りから取り出して読んだときに感想を書いた。(「傑作はこれから」)しかし、そのときには、この人のことを、勝手に辻邦生のようなタイプのように思っていたのでありますね。
いや、もちろん辻邦生のことだって、ろくに知ってはいないが、なんとなく言いたいことはわかっていただけるのではないかなあ。端正で静謐で書斎の奥深く隠栖している文学者——。
ところが、本書の、とくに浅草の巻あたりを読んで、「これはこれは」と唖然とした。いや、お見それしました。すくなくとも人気作家として大成する以前の、有象無象ライター時代のこの人の日常は、読みながら爆笑していいのか、あきれていいのか、まあ、わたしのような小市民のちまちましたケチ臭さとは文字通り雲泥の差があった。
もちろん、笑いのめして書いてはあるけれど、そういうお笑い芸人の「すべらない話」的なめちゃくちゃな日常は、本人にとっては、もがけど行き場の見えない「深海」のようなものであっただろう。人々の「縁」で出来たぷちぷちとした泡が「無数にからだにまとわりついて徐々に水面に浮か」したのだと本人が書いているとおりである。
最後の文士、というのがいろんな現代作家に奉られる称号ではあるけれど、もしかしたら、いしいしんじも十分その候補に挙げていいのかもしれないなあ。
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