争先非吾事静照在忘求
書斎で『宮本常一 民俗学の旅』を読んでいたが、ちょっとわからないことが出てきたので、気分転換に軒下に腰掛けを出して、大雨を小一時間ながめながら、渋沢敬三が宮本常一に与えたこの言葉の意味を考えた。
前半はたぶん、「先を争うはわが事にあらず」で間違いないと思う。やれ手柄だ、業績だ、知的所有権だ、オリジナリティだと、血眼になるのは、わたしは結構である、やりたい方がおやりになればよろしい。——とまあ、こう読んでおく。
問題は後半の「静照在忘求」である。どうも出典は王羲之であるようなのだが、手元ににはこれを突き止めるような参考書がない。
訓読がうまくできないので、「静照は忘求にあり」、ということにして考える。静というのは静かである、澄み切っているということだろう。照はあまねく光を行き渡らせる、一隅を照らす、まばゆい光ではないが暗さを払う明るさを持っている、というふうに考える。
そういう静かに出しゃばらず、しかしどんな片隅にも光を届けられるような人間というのがもしいるとすれば、それは求めるという事を忘れた人間であろう。求というのは、ないものねだりをするような求め方のことだと思う。出世したい、カネをもうけたい。有名になりたい。そういう欲望を、そういうものがあることさえ忘れた人間が、人々の暮らしをあまねく照らすことができるのではないか。そういうものにわたしはなりたい。
というようなことがこの言葉の意味じゃなかろうか——てなことを降る雨を見ながらぼんやり考えた、今日のことであります。
畑に出ぬ日は家で哲学する。(笑)
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