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2012年12月

2012/12/24

冬の日

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巷はイヴのにぎわい、小雪が舞ってホワイト・クリスマスとかなんとか、言ってますが、我が家は、別に嫌がらせではないが、御院主さんにお越し願って御取越である。

旧暦の霜月二十八日は親鸞上人のご命日。これを御正忌といいます。俳句の季語でもある。歳時記をひくと、別に親鸞忌、報恩講、御講、お霜月、御七夜と並んでおります。御七夜というのは、本山で七昼夜連続の法要をおこなうから。
門徒の間では、本山の修忌の前に繰り上げて営むことになっていて、ためにこれを御取越とか引上会と呼ぶのである。
どうせ今日は粉雪が舞う寒い一日、暖かい室内で冬籠りとしゃれ込むとしよう。

野良に出ず山にも行かず御取越  獺亭



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2012/12/15

物売りいろいろ

定斎売橋一ぱいに通りけり

『芥川竜之介俳句集』(岩波文庫)を読んでいて、恥ずかしながら、この句の定斎売が分からなかった。句意を考えれば、天秤棒のようなものを横にかけて、両端に売り物を下げている物売りだというイメージはわかるのだが、田舎者なので、おそらくは江戸風物のような物売りはこの目で見たことがないのであります。

季語であることは見当がつくので歳時記をみるとちゃんと出ていました。

定斎売(三夏)じょうさいうり/定斎屋
豊臣秀吉の時代に泉州堺の薬種商の定斎が、明人の薬方を伝えたという煎じ薬が定斎である。夏の諸病に効くという。その定斎を薬櫃を左右にした天秤棒で担いながら売り歩くのが定斎売・定斎屋である。半纏・股引・手甲の姿で売り歩く。薬を「延命散」ともいった。現在では東京にも一人か二人と言われるほど過去のものになって、なつかしいもののひとつにされている。〔山田みづえ〕

引いたのは『カラー図版日本大歳時記』(講談社)で奥付によれば昭和58年11月18日第一刷発行とある。30年ほどまえに一人か二人であれば、いまは道楽でやってるいかさま以外には存在しない職種だろうなあ。櫃の引き出しについた取っ手の金具がかちゃかちゃ鳴って、知っているひとにはなつかしい記憶なのだそうである。

そういえば、時代劇やら落語にはこういう市井の物売りがたくさん出てくる。Wikipediaで「物売り」を引くと、こんな商売が並んでいた。まあ、いまでもいくつかは軽トラで音楽流しながらやってくるけれど。

蜆浅蜊売り : 「しじみーあさりー」
鰯売り : 「いわしこーいわしこー」
納豆売り : 「なっとー、なっとなっとうー、なっと」
豆腐売り : ラッパを使い「とーふー」と聞こえる様に吹いた。
定斎屋 : 昭和30年頃まで存在したといわれ、江戸時代の物売りそのままの装束で半纏(はんてん)を身にまとい、天秤棒で薬箱を両端に掛け担いで漢方薬を売っていた。また力強く一定の調子で歩いた為、薬箱と金具や天秤棒のぶつかり合う音が独特の音となり近隣に知らせた。
羅宇屋 : 煙管の羅宇と呼ばれる部分のヤニとりや交換をしていた。小型のボイラーを積みその蒸気で掃除をし、また蒸気の出口に羅宇を被せ蒸気機関車の警笛の様に「ぴー」という音を出して知らせた。
竿竹売 : 「さおやーさおだけー」
鋳掛屋
金魚売 : 売り声「きんぎょーえー、きんぎょー」
風鈴売
竹売

こんなサイトもありました。物売りの声のMP3。面白い。



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2012/12/14

追悼・丸谷才一4

あとは長谷川櫂の「玩亭先生、さようなら」から、興味深い箇所を引きたいと思う。
連句の捌きの依頼を承諾して半年ばかりたったころのことである。

梅雨の最中、歌仙も半ばをすぎて名残の折に入ったころ、丸谷さんから小さな小包が届いた。添え状をそのまま書き写す。

腎盂癌といふやつが見つかつて余命数ヶ月から数年ださうです。まあせいぜい一年ぐらいでせう。
原稿を書きながらぽつぽつ身辺の整理をしてゐます。それで出て来た硯を一つ差し上げようと思ひ立ちました。母から貰つた今出来の品ですが、あなたに使つていただければ格が上るでせう。
 五月闇いろに墨すれ客発句 玩亭

水色の紙に緑のインクで旧仮名の文面がしたためてある。箱から出てきたのは歌仙のとき、いつも使つておられた小ぶりの硯である。はじめて手にとって眺めると蓮の花びらをかたどってある。
手紙はもう一枚あって薄緑の紙に、

わたしの晩年は俳諧のおかげでずいぶん楽しいものになりました。御厚情感謝します。ありがたう。
二〇一二年六月二十日午後

最後に。
丸谷さんはかつて古希に『七十句』という句集を出しておられる。その流れで行くと傘寿には『八十句』となるわけだが、機を逸して果たせなかった。そこで、米寿に合わせて『八十八句』という句集を出そうと撰を長谷川さんに頼まれたということです。いま長谷川さんの手元には令息から預けられた句稿の写しがあるとか。
なお、新聞の記事によれば、丸谷さんの墓誌に刻まれた句はかつての句集『七十句』から採られているのだそうですね。いわく——

出羽鶴岡の人、小説家、批評家、玩亭はその俳号、大岡信撰『折々のうた』に『ばさばさと股間につかふ扇かな』がある

ご冥福を祈ります。



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追悼・丸谷才一3

角川「俳句」のほうは、長谷川櫂が「玩亭先生、さようなら」という追悼文を寄せている。じつは、前回も少し触れた丸谷・大岡・岡野の三吟の連句だが、毎月一回、赤坂の三平という蕎麦屋の二階で半歌仙を巻くというのが恒例であったそうな。ところが、一昨年から大岡さんが体調不良で続けることができなくなったというのですね。
ということで、昨年のお正月に丸谷さんから電話があって、長谷川さんに宗匠として加わってくれないかという依頼がきた、ト。

さて、ここで丸谷さんが、歌仙の捌きとして長谷川櫂を指名したというところが、ちょっと面白い。べつにわたしだって俳壇の事情にくわしいわけではないが、いかにもなるほどなあ、という人選であり、また、多少深読みするならば、この人選自体が、丸谷才一の現代俳句への批評になっているようにも思えます。

というのは、結社によっては、この歌仙形式の連句というのを、主宰がはっきり禁止しているところもあるようなんですね。これは実際に、わたしが複数の方から聞いています。
「あんなものをやると俳句が荒れるからおよしなさい」とか、「あれは遊びだから初心者がやると俳句の方が上達しませんよ」てな感じで、主宰本人やら先輩に言われるそうです。
そこまであからさまではないにしても、下っ端が、わいわい連句で盛り上がっていると、結社の年長者が苦虫をつぶしたような顔になるのはわかるような気がする。つまり、連句を認めるかどうかというのは、大げさに言うと、俳句の根本にかかる重要な試金石になるのです。

なぜなら、いまわたしたちが俳句として知っているものは、もともとは俳諧の発句と呼ばれるもので、この五七五の短詩形式は、そこから始まり、それに挨拶のように付けられる脇、そしてさらにそこから転ずる第三と続き、全体では百とか五十とか、あるいは芭蕉によって頂点に達した三十六の歌仙形式による長句と短句の連なりの一部なのであります。
しかし、そういう俳諧を低俗なものであるとして完全に否定し、そのなかの発句だけを芸術として創作するにたるものとして打ち出したのが正岡子規であり、いうまでもなく現代俳句の結社の多くがその師系をたどって行くと、最終的にはほとんどかならずここに行き着くことになるのであります。
現代俳句の作家たちが連句に対して立ち位置が微妙なのは、正岡子規によって確立された俳句という文学の骨格(それは俳諧を俗悪なものとして退けることによってなされた)を自分たちが継承しているという自覚があるからなんだと思う。

そういうわけで、著名な俳人は(そのほとんどは結社の主宰か幹部であるから)いかに文壇の大御所とは言え、丸谷さんたちの歌仙興行という遊びにつきあうことは、原則に反することになる。
ところが、長谷川櫂という俳人はすこし変わっていて、この人は飴山實という俳人に惚れ込んで師事するのですが、飴山はそもそも結社を持たない俳人なのですね。わたしも大好きな人で、俳句の上では安東次男に連なる。(そういう意味では、安東次男の孫弟子を迎えたいという意もあるいは丸谷さんにはあったかもしれない)
すなわち、長谷川櫂という俳人は、結社の建前(俳諧から俳句へ)にあまり義理立てをしないでもよろしい、という立ち位置にあるのだとわたしは理解しました。

この話、エントリーをあらためてもう少し続けます。



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2012/12/10

追悼・丸谷才一2

12月号の「短歌」に岡野弘彦が、「俳句」に長谷川櫂が、それぞれ丸谷才一への追悼文を寄稿している。
岡野さんが歌壇を代表して追悼を寄せるのは当然だが、長谷川さんとはどういうお付き合いがあったのか、わたしはまったく知らなくて意外に思った。その長谷川さんのことはあとで書くとして、まず岡野さんの追悼文から。

短歌にはあまり関心のない読者であっても丸谷ファンならば、岡野弘彦という歌人は、安東次男亡き後、大岡信を捌きとする歌仙の連衆としておなじみである。また、丸谷さんのエッセイを愛読している読者ならば、この人が折口信夫の晩年をもっともよく知る弟子であり、またかつて丸谷さんの國學院大学時代の教師仲間であったエピソードをよく知っているはず。
ということで、岡野さんの追悼文も、この國學院大学時代の思い出が語られている。
それによれば、丸谷さんが國學院に英語教師として赴任してきたのは昭和29年。折口の死の翌年のことだったという。その当時の國學院の若手の語学教師陣はすごくて、英語が丸谷、独語が中野孝次に川村二郎、仏語は橋本一明、飯島耕一といった顔ぶれであった。なんとまあね。
外部からは、國學院は西欧文学科をつくるべきだという助言もあったそうだが、いろいろあって実現はしなかった。
当時、大学図書館の司書室の一角には有栖川宮家から御下賜の重厚な丸テーブルがあり、上記のような連中が、ここで論談を繰り返していたというのですね。若い丸谷さんたちは、司書室で堂々と酒盛りをしていたのでありますね。岡野さんによれば、ひそかに自分たちのことを「円卓の騎士」と呼び合う仲間であった。(笑)
長谷川櫂の追悼は、エントリーをあらためて。



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2012/12/09

食べても大丈夫な話

食物の毒性についてはふつうマウスやラットなどの実験動物に対する「半数致死量」という概念が用いられる。ある物質を一定量与えた場合、その半数が死に至る量を意味するんだそうですな。
表示は「LD50(50% Lethal Dose)」で、単位は「mg/kg」である。
たとえば、トリカブトの毒であるアコニチンという物質のLD50はラットの経口で約6mg/kgであるので、あくまで人間をラットに見立てた参考値ではあるが、体重60kgのヒトの場合、360ミリグラム(6×60=360)がこれにあたる。つまり1グラムの三分の一ほどでヤバイわけですな。

法律上は経口毒性でLD50が50mg/kg以下の物質が「毒物」、50〜300mg/kgの物質が「劇物」と分類される、ト。

ただし毒物、劇物といっても、なにも特別なものではなくて、毎日ふつうにわたしたちが口にしている物質も、過剰に摂取すればとうぜん人体には害になるわけで、たとえばお茶やコーヒーのカフェインも法律上は劇物であります。
WikipediaによればカフェインのLD50は200mg/kg。単純に60キロの人であれば、12g(200×60=12000mg)をとれば半数が死に至るということになる。
レギュラーのコーヒー一杯に含まれるカフェインはだいたい100mgくらいだということなので、カフェイン12gをコーヒーで摂取しようと思えば120杯を立て続けに飲む必要がありますね。まあ、こんなことは現実にはありえないから心配はいらないわけだけれど。

辛いものが大好きという人も多いが、唐辛子の辛み成分カプサイシンはLD50が60mg/kgくらいですので、かなり法律上の毒物に近い。
同じく体重60キロの人なら、3.6グラム(60×60=3600mg)が半数致死量になりますね。おやおや、ずいぶん少量で死に至る可能性があるなあという気もするが、だいたいふつうの辛さの唐辛子の場合、カプサイシンの含有量は約0.5%だそうですから、3.6グラムのカプサイシンを摂取するには、720g(3.6/0.005=720g)の唐辛子を一気に食べる必要があることになります。いくらなんでも唐辛子そんなには食えないやね。
ただしちかごろはやりのハバネロの場合は、カプサイシンの含有率が5%とふつうの唐辛子の10倍ですから半数致死量は72グラム。これはリンゴの四分の一くらいの重さなので、丸呑みすれば案外いけるかな、という気もするけど——無理だって。(笑)



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