追悼・丸谷才一3
角川「俳句」のほうは、長谷川櫂が「玩亭先生、さようなら」という追悼文を寄せている。じつは、前回も少し触れた丸谷・大岡・岡野の三吟の連句だが、毎月一回、赤坂の三平という蕎麦屋の二階で半歌仙を巻くというのが恒例であったそうな。ところが、一昨年から大岡さんが体調不良で続けることができなくなったというのですね。
ということで、昨年のお正月に丸谷さんから電話があって、長谷川さんに宗匠として加わってくれないかという依頼がきた、ト。
さて、ここで丸谷さんが、歌仙の捌きとして長谷川櫂を指名したというところが、ちょっと面白い。べつにわたしだって俳壇の事情にくわしいわけではないが、いかにもなるほどなあ、という人選であり、また、多少深読みするならば、この人選自体が、丸谷才一の現代俳句への批評になっているようにも思えます。
というのは、結社によっては、この歌仙形式の連句というのを、主宰がはっきり禁止しているところもあるようなんですね。これは実際に、わたしが複数の方から聞いています。
「あんなものをやると俳句が荒れるからおよしなさい」とか、「あれは遊びだから初心者がやると俳句の方が上達しませんよ」てな感じで、主宰本人やら先輩に言われるそうです。
そこまであからさまではないにしても、下っ端が、わいわい連句で盛り上がっていると、結社の年長者が苦虫をつぶしたような顔になるのはわかるような気がする。つまり、連句を認めるかどうかというのは、大げさに言うと、俳句の根本にかかる重要な試金石になるのです。
なぜなら、いまわたしたちが俳句として知っているものは、もともとは俳諧の発句と呼ばれるもので、この五七五の短詩形式は、そこから始まり、それに挨拶のように付けられる脇、そしてさらにそこから転ずる第三と続き、全体では百とか五十とか、あるいは芭蕉によって頂点に達した三十六の歌仙形式による長句と短句の連なりの一部なのであります。
しかし、そういう俳諧を低俗なものであるとして完全に否定し、そのなかの発句だけを芸術として創作するにたるものとして打ち出したのが正岡子規であり、いうまでもなく現代俳句の結社の多くがその師系をたどって行くと、最終的にはほとんどかならずここに行き着くことになるのであります。
現代俳句の作家たちが連句に対して立ち位置が微妙なのは、正岡子規によって確立された俳句という文学の骨格(それは俳諧を俗悪なものとして退けることによってなされた)を自分たちが継承しているという自覚があるからなんだと思う。
そういうわけで、著名な俳人は(そのほとんどは結社の主宰か幹部であるから)いかに文壇の大御所とは言え、丸谷さんたちの歌仙興行という遊びにつきあうことは、原則に反することになる。
ところが、長谷川櫂という俳人はすこし変わっていて、この人は飴山實という俳人に惚れ込んで師事するのですが、飴山はそもそも結社を持たない俳人なのですね。わたしも大好きな人で、俳句の上では安東次男に連なる。(そういう意味では、安東次男の孫弟子を迎えたいという意もあるいは丸谷さんにはあったかもしれない)
すなわち、長谷川櫂という俳人は、結社の建前(俳諧から俳句へ)にあまり義理立てをしないでもよろしい、という立ち位置にあるのだとわたしは理解しました。
この話、エントリーをあらためてもう少し続けます。
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