追悼・丸谷才一2
12月号の「短歌」に岡野弘彦が、「俳句」に長谷川櫂が、それぞれ丸谷才一への追悼文を寄稿している。
岡野さんが歌壇を代表して追悼を寄せるのは当然だが、長谷川さんとはどういうお付き合いがあったのか、わたしはまったく知らなくて意外に思った。その長谷川さんのことはあとで書くとして、まず岡野さんの追悼文から。
短歌にはあまり関心のない読者であっても丸谷ファンならば、岡野弘彦という歌人は、安東次男亡き後、大岡信を捌きとする歌仙の連衆としておなじみである。また、丸谷さんのエッセイを愛読している読者ならば、この人が折口信夫の晩年をもっともよく知る弟子であり、またかつて丸谷さんの國學院大学時代の教師仲間であったエピソードをよく知っているはず。
ということで、岡野さんの追悼文も、この國學院大学時代の思い出が語られている。
それによれば、丸谷さんが國學院に英語教師として赴任してきたのは昭和29年。折口の死の翌年のことだったという。その当時の國學院の若手の語学教師陣はすごくて、英語が丸谷、独語が中野孝次に川村二郎、仏語は橋本一明、飯島耕一といった顔ぶれであった。なんとまあね。
外部からは、國學院は西欧文学科をつくるべきだという助言もあったそうだが、いろいろあって実現はしなかった。
当時、大学図書館の司書室の一角には有栖川宮家から御下賜の重厚な丸テーブルがあり、上記のような連中が、ここで論談を繰り返していたというのですね。若い丸谷さんたちは、司書室で堂々と酒盛りをしていたのでありますね。岡野さんによれば、ひそかに自分たちのことを「円卓の騎士」と呼び合う仲間であった。(笑)
長谷川櫂の追悼は、エントリーをあらためて。
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