『ジャック・リッチーのあの手この手』
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六月以降、ロシア人はドイツ語の特別授業を受けており、その結果、あっというまに何十ものドイツ語が日常生活の語彙にはいり込んでいた。パンツァー(戦車)、ユンカース、ヴェーアマハト(ドイツ国防軍)、ルフトヴァッフェ(空軍)、ブリッツクリーク(電撃戦)、ゲシュタポ。その他もろもろの大文字で始まる名詞。アインザッツグルッペンという言葉を初めて耳にしたときには、そのほかの言葉のような邪悪な響きはなかった。十九世紀のつまらない喜劇に出てくる気むずかしい会計士の名前のように聞こえた。それが今ではもう少しも可笑しな名前ではなくなっていた。新聞記事やラジオの報道、伝え聞く噂であれこれ知った今ではもう。アインザッツグルッペンはナチスの死の部隊だ。正規軍や武装親衛隊、ゲシュタポの中から厳選された——残忍なまでの有能さを持つ純血のアーリア人から選ばれた——殺人者集団だ。ドイツ軍が他国に侵略するときには、アインザッツグルッペンが実戦部隊のあとに続き、戦域が確保されると、自分たちの標的を狩りにいく。共産主義者にジプシー、知識人、それにもちろんユダヤ人。
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「死ぬまで残る傷なら、すでに負ってるじゃない。以前の職業はポルノ雑誌のライターだった。いまは高校生の期末レポートを代作している。亡くなったお母さんの扮装をして、ソフトSMのヴァンパイア小説を書いている。(中略)こう言っちゃ悪いけど、いまのあなたは負け犬よ。だからこそ、今回のことはあなたにとって大きな転機になる。おそらくは最後の転機にね。」
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まず漢詩・和歌は「雅」の文芸(現代風に言えば「芸術」)として公認され、上流階級や知識人の必須教養であった。その和歌の形式や技法を借用して生まれたパーティー・ゲームが連歌である。二条良基が「当座の興」と言ったとおり、その場かぎりの座興である。中世に連歌が和歌をしのぐ隆盛を見たのは、この気軽な娯楽性のためだと言える。その連歌を和歌に並ぶ風雅の文芸に引き上げたのが宗祗らであった。するとシリアスになってしまった連歌の重苦しさを嫌ってか、連歌師の中にふたたび娯楽を主眼とする一派が出てくる。即ち俳諧連歌である。これは「俳言」つまり「俗」な言葉を用いて、滑稽を身上とする。この軽快な通俗文芸が流行すると、こんどはこの俳諧連歌をふたたび風雅な文芸に昇華させようという試みが出てくる。松尾芭蕉である。彼の発句こそ、今日私たちが「俳句」と呼ぶものの原点である。と、こうして見ると、俳句は和歌を出発点に雅から俗へ、俗から雅へという往復運動の産物であるということがわかる。
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すなわち、戸棚にどれほどスパイの最新のおもちゃをしまっていようと。魔法の暗号をどれだけたくさん解読しようと、音のひずんだ会話をどれだけ傍受して、敵の組織の構造や、そもそも構造がないことや、内輪もめについてすばらしい推論をしようと、はたまた、飼い慣らされたジャーナリストが、偏った手がかりやこっそりポケットに入れる褒美と引き替えに、怪しげな情報をどれだけ提供しようと、最終的に頼りになる知識を与えてくれるのは、胡散臭い導師や、恋に破れた秘密工作員や、賄賂しか頭にないパキスタンの防衛技術者、昇進に見放されたイラン軍の中堅幹部、ひとりで眠れなくなった潜伏員(スリーパー)たちなのだ。かれらが提供する確実な情報がなければ、あとは地球を滅ぼす法螺吹きとイデオローグと政治狂いに食わせる飼い葉でしかない。
時代遅れの叩き上げがいつもプロの世界のぎりぎり本質的なところを担っている、というのはじつは、スパイの世界だけの話ではないと思うのだけれど。
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けつかうな御世とや蛇も穴を出る 一茶蛇穴を出て見れば周の天下なり 虚子
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この授業では、みなさんに100パーセント理解して納得してもらうことを目指しています。といっても実際には、議論がこみいったりすると簡単にはいかないんですけどね。でも、何となく分かったとか、大体の気分がつかめたとか、そういう分り方をしてほしくないんです。たとえば、「フランスの首都はどこか?」という問題に「パリだ」と答えたら、何となく分かったということはまずないですよね。完全に分かるか、まったく分からないかどちらかですよね。「気分」が入り込む余地がありません。その点では、数学や物理学と同じです。最終的には完全に分かるか、完全に分からないかです。僕は哲学でも、本来はそうだと思うんです。でもこれは、簡単に分かるということではありません。ぼくが言いたいのは、哲学の問題には、きちんと考えていけば納得できるような答えがあるということです。その答えをできるだけみなさんに納得してもらえるように説明したいんです。
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