『俳句の詩学・美学』から二題
まず漢詩・和歌は「雅」の文芸(現代風に言えば「芸術」)として公認され、上流階級や知識人の必須教養であった。その和歌の形式や技法を借用して生まれたパーティー・ゲームが連歌である。二条良基が「当座の興」と言ったとおり、その場かぎりの座興である。中世に連歌が和歌をしのぐ隆盛を見たのは、この気軽な娯楽性のためだと言える。その連歌を和歌に並ぶ風雅の文芸に引き上げたのが宗祗らであった。するとシリアスになってしまった連歌の重苦しさを嫌ってか、連歌師の中にふたたび娯楽を主眼とする一派が出てくる。即ち俳諧連歌である。これは「俳言」つまり「俗」な言葉を用いて、滑稽を身上とする。この軽快な通俗文芸が流行すると、こんどはこの俳諧連歌をふたたび風雅な文芸に昇華させようという試みが出てくる。松尾芭蕉である。彼の発句こそ、今日私たちが「俳句」と呼ぶものの原点である。と、こうして見ると、俳句は和歌を出発点に雅から俗へ、俗から雅へという往復運動の産物であるということがわかる。
- 季節を感じない
- 春を感じる
- 夏を感じる
- 秋を感じる
- 冬を感じる
| 固定リンク
「d)俳句」カテゴリの記事
- 蕪村句集講義のこと(2020.12.10)
- 『俳句の詩学・美学』から二題(2014.04.13)
- 蛇穴を出づ(2014.04.05)
- 農工商の子供たち補遺(2013.10.23)
- もの喰う虚子(2013.06.25)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
かわうそ亭さん、こんにちは。
「俳句は和歌を出発点に雅から俗へ、俗から雅へという往復運動の産物であるということがわかる。」このようにおっしゃっていただけると個人の俳句がその時々で俗であったり雅であったりしてもよいと肯定されるようで安心しますね。「しんしんと肺碧きまで」はしんしんと肺に雪が降り積もるようではあるがこの肺が広大なこの海の碧さに染まるまで、やさしいたびを続けよう」という覚悟の俳句のようにも感じられます。「碧」の字に「白」も含まれているので心情的には冬のイメージが湧くのかもしれませんね(。私としては、コメントを書いているうちに季節がわからなくなってしまいました。)
投稿: きよみ | 2014/04/13 17:25
なるほど、そう言われればたしかに冬のイメージも湧いてきますね。このアンケート結果を示した大輪氏の意見は、このように季節のイメージが読み手によって異なるから俳句には季語をきちんとつかったほうがよい、というものらしい(櫂さんによれば)のですが、櫂さんの意見はこれと異なり、無季俳句はあくまで無季としての存在意義があるというもののようです。面白いですね。
投稿: かわうそ亭 | 2014/04/13 18:13