先日の記事「ソングライター、カズオ・イシグロ」がきっかけで、『忘れられた巨人』をある方からお借りできました。ありがたいことであります。ステーシー・ケントのことは早川書房編集部による「解説」にもちらっとふれてありました。
さて本書、評判どおり面白い。
イングランドの歴史にさほど詳しいわけではないが、この島にはいろいろな人々が太古より棲み着いていた。本書に出てくるのはブリトン人とサクソン人。ブリトン人のほうが先に定住しており、そこにカエサルがやってきてローマ帝国の支配圏に入る。しかし5世紀の初頭にローマ人は去り、街道や水道などのローマ文明も崩壊するわけですが、そのころには、いまのデンマークのあたりがルーツのサクソン人がつぎつぎに侵攻し、定住して行きます。異民族同士ですから諍いが絶えない。ブリトン人の偉大なるアーサー王が、いったんはサクソン人を平らげますが、王の崩御後はサクソン人を中心とした王国(いわゆるイングランド七王国)が興り、先住民のブリトン人たちは辺境へ辺境へと押しやられる——というようなことが(歴史的に正確かどうかは別ですが)本書のベースです。もっとも、そのあたりのことは本書を読めば自然にわかるので、ことさら知っておくほどのことでもありません。
主人公はアクセルとベアトリスというブリトン人の老夫婦。じつは、このふたりにかぎりませんが、この時代、この島の人々は不思議な記憶の障碍にかかっています。むかしのことがよく思い出せず、数週間、数日前の記憶もなぜか曖昧になってしまうというのであります。ふたりもこの記憶の障碍に悩んでいますが、もうひとつ村の人々の冷たい仕打ちも、とくにベアトリスにとっては辛い日常なのです。そんなこともあって、ある日、ふたりは息子のいる村に行こうと旅に出ます。どういういきさつがあったか、これまた記憶がさだかでないものの、息子は家を出て、遠い村で重だった役割を担っているようなのです。しかし、ふたりが訪ねていけば喜んで迎え入れてくれるはず。
旅の途中で、いろんなできごとがおこります。サクソン人の戦士ウィスタン、鬼どもに襲われて怪我を負ったサクソン人の村の少年エドウィン、(たしか七王国の一つであるノーサンブリアの王がこの名前でした)アーサー王の騎士だったブリトン人のガウェイン卿といった人々が現れ、老夫婦の道連れになったり、別れたり、意外な場所で再会したり——最後には雌龍クエリグ退治なんていう山場もありますから、道具立てはファンタジーなんですが、読後感はちょっと違う。
なにが違うのか、そこがポイントのような気がします。
たとえば、上橋菜穂子の「守り人」シリーズや『鹿の王』、『獣の奏者』といったファンタジー小説がありますね。とてもよくできた作品で、読み終えたあとに、ふと我にかえりそれまで、ここではないどこか別の世界にどっぷりと浸っていたという満足感が残ります。
しかし、この『忘れられた巨人』では、そういう満足感はどうも得られそうにない。このキャラクターには、あるいはこのエピソードには、ここではないどこか別の世界ではなく、まさに「ここ」の世界が二重写しのように重なっていることが明らかで、そのことに圧倒されるような気がします。
いうまでもないことですが、カズオ・イシグロが目指したのは21世紀のトールキンではないでしょう。かれがファンタジーというジャンルを見下している、というのはもちろん言い過ぎでしょうが(イシグロの発言に対してそういう反応があったそうです)、すくなくとも、剣と魔法とドラゴンの世界には、ほとんどなんの興味もなかったはずです。
たとえば、かつてサクソン人の砦であった修道院で、ブリトン人に追われて逃げ込んだサクソンの村人たちは、攻め込んだブリトン兵士が殺されるのを砦の中から歓声をあげて見物したはずだという議論の場面。
アクセルは首を横に振った。「たとえ敵の血であっても、その人々が流血を楽しんだとは信じられません」
「いえいえ、アクセル殿。わたしが話しているのは、残虐に彩られた道の終点にたどり着いた人々です。子供や親族を切り刻まれ、犯された人々です。苦難の長い道を歩み、死に追いかけられながら、ようやく最後の砦であるここにたどり着きました。そこへまた敵が攻めてきます。勢力は圧倒的です。この砦は何日もつでしょうか。数日?もしかしたら一、二週間くらい?ですが、最後には全員虐殺されることがわかっています。いまこの腕に抱いている赤ん坊も、やがて血まみれのおもちゃになって、玉石の上を蹴られ、転がされるでしょう。もうわかっています。そういう光景から逃げてきた人々ですから。家を焼き、人を切り殺す敵。息も絶え絶えで横たわる娘を順番で犯していく敵。そういう敵を見てきました。そういう結末が来ることを知っています。だからこそ、包囲されて過ごす最後の数日くらいは——のちの残虐行為の代償を先払いさせうる最初の何日かくらいは——十分に生きなければなりません。要するに、アクセル殿、これは事前の復讐です。正しい順番では行えない人々による復讐の喜びの先取りです。だからこそ、わがサクソンの同胞はここに立ち、歓声をあげ、拍手をしたはずなのです。死に方が残酷であればあるほど、その人々は陽気に楽しんだことでしょう」
これを読んで、現実のいまの世界を思い浮かべるな、というほうが無理ではないでしょうか。
そして、ここからが、考えさせられるところですが、わたしたちはこういう記憶を鮮明に持ち続けるほうが幸せなのか、それとも記憶を奪う霧にまぎれて、このような憎悪と復讐の渇望を忘却することのほうが幸せなのか、という問いに立ち止まってしまう。
じつはわたしが、本書で最初に考えたのは広島と長崎です。
先の大戦では日本人が近隣諸国の人々の加害者であったことは確かですが、たとえそうであっても、原爆投下は日本の軍隊を目標にしたものではなく、日本兵の家族である無辜の赤ん坊や幼児や年寄りや女たちを狙って、見せしめとして残虐に殺戮するものであったことは疑いありません。目的は日本の戦争指導者たちに戦争の継続を断念させ、すでに日本の敗北が誰の目にもあきらかになったあとでの無意味なアメリカ兵の戦死者を出さないようにするということでした。そして事実そのとおりになった。しかし、原爆に対しては、日本人は(わたしをふくめて)そのような見方をあまりしていないと思います。
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」というあの言葉が、いちばんそれをあらわしています。悪いのは戦争だ、と。もしかしたら、これは日本人の記憶障碍ではないのか——
ネットの上でいろいろな書評が出ていますので、ざっくりと目を通してみましたが、欧米の書評で、もちろん著者がナガサキの生まれであることに触れたものはいくつかありますが、本書と原爆を直接つなげたものは見当たりません。アウシュビッツや、ボスニアやルワンダに言及したものはあります。当然のことだと思います。しかし、どこか心の奥でわたしは著書の意図を勝手に忖度しています。ねえ、書きたかったのは、ひょっとするとこのことだったのかい、と。
コメント
私は、この本を読んで「忘れる」ということが心に残りました。私自身の過去を振り返ってみると、忘れてしまったことは多くあると思いますが、反面いつまでも覚えていることもあります。それを吟味するとどうも、心になんらかの刻印を付けたものが残るようです。それは傷であったり、心を輝かすワックスであったりします。傷は、思い出すたびに負の感情を呼び起こしますが、時間と共に内省の機会になっていき、ワックスは落ち込んでいるときの励みになります。
私がホノルルに住むようになったのは戦後20年たったころです。15歳でした。学校でも街中でも戦争があったことを感じさせるものはありませんでした。人々もなにもなかったように暮らしていました。しかし、私がこの歳になって20年という期間を振り返ると、忘れていないことがいくつかあります。同様に、戦争に翻弄された方々にとってもその経験は20年たってもはっきりと心に残っていたはずです。私には、なにもなかったように暮らしていると見えた人々は、実は心の内で様々な考えを巡らしながら暮らしていたのでしょう。
キンドルの充電が済みしだい、もう一度この本を読んでみるつもりです。
投稿: 清水国治 | 2015/07/29 17:13
いろいろ考えさせられるコメントでした。20年という時間は、2015年から遡れば、1995年(阪神大震災、地下鉄サリン)ですから、ほんの昨日のような過去ですものね。戦争の記憶はホノルルの大人たちにも、はっきりとあったでしょうね。どうもありがとうございました。
投稿: かわうそ亭 | 2015/07/30 20:56
「忘れられた巨人」のブログをたいへん興味深く拝読しました。小生の次回でもこのサイトを紹介させていただきます。
ご興味があれば
http://nishida-shoten.co.jp/atlas/
(このままでは開けられないようですが)
を覗いて頂けるとまことに幸甚です。
投稿: かわもと | 2015/07/31 12:18
かわもと様
「キング『11/22/63』とネット時代の読書」拝読致しました。最後の方でナボコフの意見が出てくることに、わが意を得たりの思いがいたしました。キングもそうですが、わたくしナボコフには思い入れがありまして。(笑)
読書とインターネットについては、まったくおっしゃるように、ちょっとしたこと(とくに海外小説などで)が気になると、すぐに写真や動画まで見られるのはありがたいことです。翻訳家などに言わせると、インターネット以前はどうやって仕事をしていたのか、いまでは想像もできない、なんて言うようですよ。
投稿: かわうそ亭 | 2015/07/31 20:54