« 2015年9月 | トップページ | 2015年11月 »

2015年10月

2015/10/19

芸人と俳人ほか

Img_0359_2『芸人と俳人』又吉直樹×堀本裕樹(集英社/2015)

活字になった対話というのは、脚色とまでは言わなくとも、編集の過程でかなり加工されるものだから、実際にこのとおりのやりとりがあったということではないかもしれないが、又吉直樹の「打てば響く」といった俳句の理解と成長が見事。

『新訳 から騒ぎ』シェイクスピア/河合祥一郎訳(角川文庫/2015)
新訳と聞くとつい読みたくなるのが沙翁の戯曲。河合訳は初めてだが、頭に入りやすくてよい。台詞としても覚えやすいような気がする。

『本に語らせよ』長田弘(幻戯書房/2015)
長田弘の紹介によってはじめて知るという本や人物や事跡がこれまでも多かった。よい読書の指針だったが、惜しい人を亡くしたという思いがつよい。本書でも、中江丑吉、深田康算、斎藤勇、野村修といった人の名前が印象に残る。なかでも中江丑吉についてこのような記述をメモとして——
中江兆民の息子で、丑吉という名だった。父親は息子が俥(人力車)引きになった場合にもいいようにと、丑吉という名を付けたのだそうだ。自恃によって突っぱって、変わり者と指さされながら、一人の無名の市民の生き方を通した。『中江丑吉の人間像』(阪谷芳直、鈴木正編)という心の籠った一冊に、身近に親しんだ人たちの追憶が集められている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

see haiku here

Img_0357

俳画アーティストの清水国治さんから俳画集を二冊ご恵贈いただいた。
『清水国治 俳画集』と『松尾芭蕉+清水国治 俳画集』。
前者のなかに収録された俳文にもあるが、清水さんは多感な少年時代にハワイに行かれた方で、日本語と英語の二つの言語で表現をされる。バイリンガルの俳人というのは貴重な存在だ。詳しいわけではないが、ウェブ上で世界俳句協会の関連サイトを見ると必ずそのお名前を見つけることができる。したがって、この俳画集の俳句、俳文も日本語と英語が併記されている。芭蕉の句は、許可を得てドナルド・キーンの英訳である。

俳句にはいくつかの約束がある。五七五の韻律、切れ、季題など。俳句を詠まない人はそれを制約と見るだろうし、俳句を詠む人は、これらの約束をむしろ詩境を導く枠組みと見る。とはいうものの、俳句を作る人にとっても、なんせこの世界にはセンセーがやたら多くて、なにかというと煩いことを言うので、だんだん窮屈に感じているのではないか。だから俳句を、haiku として表現された短詩を読むのは、そういう窮屈さを取っ払った爽快感がある。本書の楽しさはそういうところにありそうだ。

本のほうはオンデマンドで印刷製本されたようだが、そうと聞かなければわからないだろう。たいへん美しい仕上がりである。清水さんのアートワークは、おそらくコンピュータを駆使するものだと思うので、こういう本作りと相性がいいのかもしれない。
個人的な意見だが、俳画というのは、これくらいのサイズとボリュームで眺めるのが心地よい。あんまり大きすぎたり、重かったりすると、よそ行きの畏まった感じになるが、俳画というのはもともと人間の普段の暮らしの中に溶け込んだ軽みのあるものだったのではないか。

お行儀が悪くて著者には申し訳ないが、カウチに寝そべって、haikuと俳句を代わる代わる読んではイメージを眺める。幼い子供が絵本のページを繰るような読み方が楽しい。

清水さんの俳画の実例は、こちらのブログで見ることができます。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2015/10/03

デイヴィッド・ロッジとジュンパ・ラヒリ、その他

『必笑小咄のテクニック』米原万里(集英社新書/2006)
方法論で分類したジョーク集という触れ込みなんだが、まあ、それほど大したものではない。思えば、一昔前のジョークはおもわずニヤリとさせられるものが多かった。このごろはなんだか現実がジョークみたいな気がするなあ。憲法解釈を反転させる閣議決定について内閣法制局には公文書がないそうな。やれやれ。

『絶倫の人 小説H・G・ウェルズ』デイヴィッド・ロッジ/高儀進訳(白水社/2013)

Img_0300

ひどい題名だなと思いながら読み始めて、なんだ、そのまんまじゃんと感心したり、呆れ返ったり。H・G・ウェルズという人は、二度結婚したが、家庭の外に何人も愛人をもっていた。短期間の情事は些事だから別のこととして、本気で好きになって長くなりそうな愛人は妻にもきちんと報告していた。つぎつぎに新しい女が愛人として本書に登場するので、名前を覚えるのも面倒くさい。しかし登場人物はすべて実在した人間で、手紙や刊行物、書籍、談話なども大半が出典があるそうな。小説ならリアリティないじゃんと思うところだが、まさに事実は小説よりも奇なりであるな。ちなみに原題は"A Man of Parts"。
Partsには二つの意味があって、ひとつは才能という意味。もう一つは、陰部(private parts)の短縮形。同じ伝記小説という手法では『作者を出せ!』のヘンリー・ジェイムスのほうが心穏やかに読めるなあ。

『小田嶋隆のコラム道』小田嶋隆(ミシマ社/2012)
「が、読者は、実際には、彼らが考えているほど、細かく読んでいない」というのが推敲についてのアドヴァイスで、「つまり、書いてしまえば良いのである」が書き出しについてのアドヴァイス。まあ、実戦的な文章術だわな。

『低地』ジュンパ・ラヒリ/小川高義訳(新潮社/2014)
これはよかった。たぶん、今年読んだ中でもベストの一冊。
1950年代にカルカッタで双子のように育った年子の兄弟。活動的な弟と内省的な兄。それぞれ違う理系の大学に進学して、兄はアメリカで博士課程に、弟は学問よりも政治運動にのめり込む。やがて兄の元に弟が殺されたという電報が届く。毛沢東思想に強く影響を受けた極左組織の党員となった弟は、当局に追われ、自宅に潜伏していたところを発見されて、両親と若い妻の目前で射殺される。兄が帰国すると弟の妻は身ごもっていた。兄は、彼女を妻とし、生まれてくる子供を自分の子供としてロードアイランドで生活をはじめるが——
予想したようなお涙頂戴的なオハナシには全然ならないところがすごい。とくにこのはじめは無力な脇役のように思えた妻が後半はむしろ主人公のようになる展開に舌を巻く。
ジュンパ・ラヒリはこれまでの作品も素晴らしかったが、本書はとくに傑作ではあるまいか。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2015年9月 | トップページ | 2015年11月 »