d)俳句

2020/12/10

蕪村句集講義のこと

東洋文庫から出ている『蕪村句集講義』全三巻を読んでいる。
第二巻のはじめのあたり、碧梧桐筆記の前書き。

明治卅三年八月廿二日夜、根岸子規庵に会する者、鳴雪・主人・虚子・碧梧桐。蕪村句集上巻十八丁裏より一枚。主人は数日前喀血の事あつてより身体の疲労甚だしく、この夜輪講に加らず。傍に黙聴して、時々其意見を言ふに過ざりき。

この蕪村句集の輪講は明治31年の新年一月から始まって毎月子規庵に上記の人々を中心に数人が集まって議論を戦わしていた。子規年譜によれば明治33年(1900年)8月に大量喀血、翌34年より『仰臥漫録』が始まる。そういう時期に、しかしこの人々は時に激しく、時に破顔一笑しながら会を続けていたことになる。

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2014/04/13

『俳句の詩学・美学』から二題

『俳句教養講座第二巻 俳句の詩学・美学』(角川学芸出版/2009)を読む。尼ヶ崎彬氏の「俳諧のレトリック 余情・やつし・本歌取り」という文章が示唆に富む。たとえば日本の詩歌の流れをこういうかたちで切り取った一節——。

まず漢詩・和歌は「雅」の文芸(現代風に言えば「芸術」)として公認され、上流階級や知識人の必須教養であった。その和歌の形式や技法を借用して生まれたパーティー・ゲームが連歌である。二条良基が「当座の興」と言ったとおり、その場かぎりの座興である。中世に連歌が和歌をしのぐ隆盛を見たのは、この気軽な娯楽性のためだと言える。その連歌を和歌に並ぶ風雅の文芸に引き上げたのが宗祗らであった。するとシリアスになってしまった連歌の重苦しさを嫌ってか、連歌師の中にふたたび娯楽を主眼とする一派が出てくる。即ち俳諧連歌である。これは「俳言」つまり「俗」な言葉を用いて、滑稽を身上とする。
この軽快な通俗文芸が流行すると、こんどはこの俳諧連歌をふたたび風雅な文芸に昇華させようという試みが出てくる。松尾芭蕉である。彼の発句こそ、今日私たちが「俳句」と呼ぶものの原点である。と、こうして見ると、俳句は和歌を出発点に雅から俗へ、俗から雅へという往復運動の産物であるということがわかる。

この方は、学習院女子大学の美学がご専門の先生らしいのだが、(Wikipediaによる。本シリーズには執筆者のプロフィールが載ってなくて不親切)短い文章ながらシャープな論考でありますね。

もうひとつ、この巻で面白かったのは櫂未知子氏の「無季俳句をどう読むか」で、内容もよく腑に落ちるものでしたが、意外だったのはこんな話。

しんしんと肺碧きまで海のたび   篠原鳳作

俳句の好きな方なら、無季俳句といえばまずこの句がうかぶだろう。ところで、この句について大輪靖宏氏が次のようなアンケートをとったらしいんですね。(「俳句の基本とその応用」角川学芸ブックス)

  • 季節を感じない
  • 春を感じる
  • 夏を感じる
  • 秋を感じる
  • 冬を感じる

さて、みなさんはどうでしょうか。わたしはこれ夏以外にないじゃん、とまず思ったのね。
アンケートは俳句とは無関係の二十代の男女104名の回答を得た。
それによると。季節を感じない人——0名。春——2名。夏——35名。秋——0名。冬——67名。

櫂さんによれば、この句を夏の景として読む(俳人の感覚ではそうなる)のは、じつはあとから植え付けられた部分がかなりあるかもしれないという。なるほど、そういえば、この句と中村草田男の「秋の航一大紺円盤の中」を並べた解説をよく目にしたような記憶があり、草田男のほうは季語は秋ではあるが、8月7日頃からは秋だから実質的には夏の海の情景として想起されるのだろう。いずれにしても真っ青な海と船尾から一直線に伸びた航跡(わたしのイメージだが)は、夏以外にはないと思っていたのだが、先入観を排して素直な気持ちで「しんしんと肺碧きまで海のたび」を読むと、むしろ冬のイメージが湧くというのは面白い。


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2014/04/05

蛇穴を出づ

歳時記にはいろいろ面白い季語がある。今の時期だと「亀鳴く」とか「雁風呂」などをつかった俳句を詠んでみたくなる。ただし実際には亀は鳴かないそうだし、雁の供養もつくりばなしだというわけで、どちらも、見て来たようなウソを吐きみたいなものであります。

やはり春の動物をモチーフにした季語に「蛇穴を出づ」がある。こちらはたしかに、この時期の自然の事象にはちがいないので、見て来たようなウソと言っては失礼になる。だが、多くの俳句作者にとっては、見慣れた光景というほどでもないので、これまた「亀鳴く」とか「雁風呂」のような気分の俳句に近いような気がしますね。

けつかうな御世とや蛇も穴を出る   一茶
蛇穴を出て見れば周の天下なり    虚子

ところで、百姓をしていると、この長いやつとは、あんまりお近づきになりたくなくとも、頻繁に遭遇する。今日も、土手の草を刈りながら、小さな穴を見つけるたびに、うーん、こいつはもしかしてアレじゃないかしらん、などと考えていたら、いましたね。まだほんの子供でしょうか、太い雑草の茎とか、でかい蚯蚓とかと間違えそうなちっこいのが。こういうのはまだ可愛い。いや、可愛いったって、仔猫なら思わず頭を撫でてやりますが、小さくても蛇は蛇ですからね、鎌の先ですこしじゃれてやるくらいですけれど。

蛇穴を出てこなければこなければ   獺亭

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2013/10/23

農工商の子供たち補遺

どちらかといえば自分用の覚えとして。
国文学者の井本農一の名前について、かなり前に「農工商の子供たち」という記事を書いた。(こちら)リンクをたどってもらえればいいが、簡単に要点を書けば、父親である青木健作が、士農工商という言葉から、士を除いて、長男には農一、次男には工次、三男には商三という名前をつけたというハナシである。
いま読んでいる井本農一の『私の季語手帖』(小学館ライブラリー)には、こんな話が載っている。井本さんには二人の弟のほかに妹があったというのですね。

私の妹は花野という名前でした。私が農一などいう変わった名前なのに、妹は名前があんまり良すぎたせいでしょうか、まだ四つのときに急に亡くなりました。
きれいで、頭がよくて、しっかり者でしたから、生きていてくれたらどんなによかっただろうと、今でもときどき思うことです。「死児の齢を数える」たぐいでしょうか。

この本は季語にことよせて作者の思い出などが書かれているのだが、妹の名前が出てくるのは「花野」の項目。「紅葉」という項目には、こんな作者の俳句がさりげなく出ている。

ままごとのお金はもみぢ兄いもと   井本農一

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2013/06/25

もの喰う虚子

岩波文庫の『虚子五句集』の上巻から、虚子の食べ物の句を抜き出してみる。
ことさら多いということではない。ふつうに俳句を詠んでいれば、おそらく誰でもこれくらいの割合かしら、というくらいの頻度で出てくるだけ。また、どれも(たぶん)とくに名句というわけでもない。とくに深い意味はないのだけれど、せっかく抜き書きをノートに取ったので、披露します。まだ下巻が残っているが、気が向けば続けるかもしれない。
上巻は、いずれも自選の『五百句』と『五百五十句』、『六百句』の三つの句集を収録。明治27年から昭和20年までの句を、基本的に年代順に並べてある。

折の蓋取れば圧されて柏餅
蕗の薹の舌を逃げゆくにがさかな
柴漬の悲しき小魚ばかりかな
雑炊や後生大事といふことを
焼芋がこぼれて田舎源氏かな
水飯に味噌を落して濁しけり
葛水にかきもち添へて出されけり
枝豆を喰へば雨月の情あり
奈良茶飯出来るに間あり藤の花
七草に更に嫁菜を加へけり
重の内暖にして柏餅
鯖の旬即ちこれを食ひにけり
落花生食ひつつ読むや罪と罰
草餅をつまみ江山遥かなり
麦飯もよし稗飯も辞退せず
おでんやを立ち出でしより低唱す
ハンケチに雫をうけて枇杷すする
失せてゆく目刺のにがみ酒ふくむ
又例の寄せ鍋にてもいたすべし
いかなごにまづ箸おろし母恋し
見事なる生椎茸に岩魚添へ

さすがに敗戦の前後は食べ物の句はあまり出ない。「おでんや」や「目刺」の句に酒がからむけれども、どちらかといえば、ごくごく普段の夕餉やおやつや野外の飲食の光景が思い浮かぶ。うまいとか下手であるとかをノンシャランに無視できる、虚子ならではの俳句。


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2012/12/24

冬の日

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巷はイヴのにぎわい、小雪が舞ってホワイト・クリスマスとかなんとか、言ってますが、我が家は、別に嫌がらせではないが、御院主さんにお越し願って御取越である。

旧暦の霜月二十八日は親鸞上人のご命日。これを御正忌といいます。俳句の季語でもある。歳時記をひくと、別に親鸞忌、報恩講、御講、お霜月、御七夜と並んでおります。御七夜というのは、本山で七昼夜連続の法要をおこなうから。
門徒の間では、本山の修忌の前に繰り上げて営むことになっていて、ためにこれを御取越とか引上会と呼ぶのである。
どうせ今日は粉雪が舞う寒い一日、暖かい室内で冬籠りとしゃれ込むとしよう。

野良に出ず山にも行かず御取越  獺亭



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2012/12/15

物売りいろいろ

定斎売橋一ぱいに通りけり

『芥川竜之介俳句集』(岩波文庫)を読んでいて、恥ずかしながら、この句の定斎売が分からなかった。句意を考えれば、天秤棒のようなものを横にかけて、両端に売り物を下げている物売りだというイメージはわかるのだが、田舎者なので、おそらくは江戸風物のような物売りはこの目で見たことがないのであります。

季語であることは見当がつくので歳時記をみるとちゃんと出ていました。

定斎売(三夏)じょうさいうり/定斎屋
豊臣秀吉の時代に泉州堺の薬種商の定斎が、明人の薬方を伝えたという煎じ薬が定斎である。夏の諸病に効くという。その定斎を薬櫃を左右にした天秤棒で担いながら売り歩くのが定斎売・定斎屋である。半纏・股引・手甲の姿で売り歩く。薬を「延命散」ともいった。現在では東京にも一人か二人と言われるほど過去のものになって、なつかしいもののひとつにされている。〔山田みづえ〕

引いたのは『カラー図版日本大歳時記』(講談社)で奥付によれば昭和58年11月18日第一刷発行とある。30年ほどまえに一人か二人であれば、いまは道楽でやってるいかさま以外には存在しない職種だろうなあ。櫃の引き出しについた取っ手の金具がかちゃかちゃ鳴って、知っているひとにはなつかしい記憶なのだそうである。

そういえば、時代劇やら落語にはこういう市井の物売りがたくさん出てくる。Wikipediaで「物売り」を引くと、こんな商売が並んでいた。まあ、いまでもいくつかは軽トラで音楽流しながらやってくるけれど。

蜆浅蜊売り : 「しじみーあさりー」
鰯売り : 「いわしこーいわしこー」
納豆売り : 「なっとー、なっとなっとうー、なっと」
豆腐売り : ラッパを使い「とーふー」と聞こえる様に吹いた。
定斎屋 : 昭和30年頃まで存在したといわれ、江戸時代の物売りそのままの装束で半纏(はんてん)を身にまとい、天秤棒で薬箱を両端に掛け担いで漢方薬を売っていた。また力強く一定の調子で歩いた為、薬箱と金具や天秤棒のぶつかり合う音が独特の音となり近隣に知らせた。
羅宇屋 : 煙管の羅宇と呼ばれる部分のヤニとりや交換をしていた。小型のボイラーを積みその蒸気で掃除をし、また蒸気の出口に羅宇を被せ蒸気機関車の警笛の様に「ぴー」という音を出して知らせた。
竿竹売 : 「さおやーさおだけー」
鋳掛屋
金魚売 : 売り声「きんぎょーえー、きんぎょー」
風鈴売
竹売

こんなサイトもありました。物売りの声のMP3。面白い。



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2012/12/14

追悼・丸谷才一4

あとは長谷川櫂の「玩亭先生、さようなら」から、興味深い箇所を引きたいと思う。
連句の捌きの依頼を承諾して半年ばかりたったころのことである。

梅雨の最中、歌仙も半ばをすぎて名残の折に入ったころ、丸谷さんから小さな小包が届いた。添え状をそのまま書き写す。

腎盂癌といふやつが見つかつて余命数ヶ月から数年ださうです。まあせいぜい一年ぐらいでせう。
原稿を書きながらぽつぽつ身辺の整理をしてゐます。それで出て来た硯を一つ差し上げようと思ひ立ちました。母から貰つた今出来の品ですが、あなたに使つていただければ格が上るでせう。
 五月闇いろに墨すれ客発句 玩亭

水色の紙に緑のインクで旧仮名の文面がしたためてある。箱から出てきたのは歌仙のとき、いつも使つておられた小ぶりの硯である。はじめて手にとって眺めると蓮の花びらをかたどってある。
手紙はもう一枚あって薄緑の紙に、

わたしの晩年は俳諧のおかげでずいぶん楽しいものになりました。御厚情感謝します。ありがたう。
二〇一二年六月二十日午後

最後に。
丸谷さんはかつて古希に『七十句』という句集を出しておられる。その流れで行くと傘寿には『八十句』となるわけだが、機を逸して果たせなかった。そこで、米寿に合わせて『八十八句』という句集を出そうと撰を長谷川さんに頼まれたということです。いま長谷川さんの手元には令息から預けられた句稿の写しがあるとか。
なお、新聞の記事によれば、丸谷さんの墓誌に刻まれた句はかつての句集『七十句』から採られているのだそうですね。いわく——

出羽鶴岡の人、小説家、批評家、玩亭はその俳号、大岡信撰『折々のうた』に『ばさばさと股間につかふ扇かな』がある

ご冥福を祈ります。



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追悼・丸谷才一3

角川「俳句」のほうは、長谷川櫂が「玩亭先生、さようなら」という追悼文を寄せている。じつは、前回も少し触れた丸谷・大岡・岡野の三吟の連句だが、毎月一回、赤坂の三平という蕎麦屋の二階で半歌仙を巻くというのが恒例であったそうな。ところが、一昨年から大岡さんが体調不良で続けることができなくなったというのですね。
ということで、昨年のお正月に丸谷さんから電話があって、長谷川さんに宗匠として加わってくれないかという依頼がきた、ト。

さて、ここで丸谷さんが、歌仙の捌きとして長谷川櫂を指名したというところが、ちょっと面白い。べつにわたしだって俳壇の事情にくわしいわけではないが、いかにもなるほどなあ、という人選であり、また、多少深読みするならば、この人選自体が、丸谷才一の現代俳句への批評になっているようにも思えます。

というのは、結社によっては、この歌仙形式の連句というのを、主宰がはっきり禁止しているところもあるようなんですね。これは実際に、わたしが複数の方から聞いています。
「あんなものをやると俳句が荒れるからおよしなさい」とか、「あれは遊びだから初心者がやると俳句の方が上達しませんよ」てな感じで、主宰本人やら先輩に言われるそうです。
そこまであからさまではないにしても、下っ端が、わいわい連句で盛り上がっていると、結社の年長者が苦虫をつぶしたような顔になるのはわかるような気がする。つまり、連句を認めるかどうかというのは、大げさに言うと、俳句の根本にかかる重要な試金石になるのです。

なぜなら、いまわたしたちが俳句として知っているものは、もともとは俳諧の発句と呼ばれるもので、この五七五の短詩形式は、そこから始まり、それに挨拶のように付けられる脇、そしてさらにそこから転ずる第三と続き、全体では百とか五十とか、あるいは芭蕉によって頂点に達した三十六の歌仙形式による長句と短句の連なりの一部なのであります。
しかし、そういう俳諧を低俗なものであるとして完全に否定し、そのなかの発句だけを芸術として創作するにたるものとして打ち出したのが正岡子規であり、いうまでもなく現代俳句の結社の多くがその師系をたどって行くと、最終的にはほとんどかならずここに行き着くことになるのであります。
現代俳句の作家たちが連句に対して立ち位置が微妙なのは、正岡子規によって確立された俳句という文学の骨格(それは俳諧を俗悪なものとして退けることによってなされた)を自分たちが継承しているという自覚があるからなんだと思う。

そういうわけで、著名な俳人は(そのほとんどは結社の主宰か幹部であるから)いかに文壇の大御所とは言え、丸谷さんたちの歌仙興行という遊びにつきあうことは、原則に反することになる。
ところが、長谷川櫂という俳人はすこし変わっていて、この人は飴山實という俳人に惚れ込んで師事するのですが、飴山はそもそも結社を持たない俳人なのですね。わたしも大好きな人で、俳句の上では安東次男に連なる。(そういう意味では、安東次男の孫弟子を迎えたいという意もあるいは丸谷さんにはあったかもしれない)
すなわち、長谷川櫂という俳人は、結社の建前(俳諧から俳句へ)にあまり義理立てをしないでもよろしい、という立ち位置にあるのだとわたしは理解しました。

この話、エントリーをあらためてもう少し続けます。



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2011/12/24

松本幸四郎の俳句、松たか子の俳句

幾千の木漏日いだき山眠る  錦升

日経新聞の連載「私の履歴書」、今月は松本幸四郎が書いているのだが、今日の分はとくに面白かった。
1942年生まれの高麗屋が俳句を始めたのは二十代後半からということなので、句歴はざっと四十年以上になる計算だ。俳号は錦升。
最初の手ほどきは母親からお受けになったという。(このお母様が諸事にわたってすぐれたかたであったことが連載の冒頭に熱心に語られていたことも印象深い)母親の師匠は、その父(つまり幸四郎の祖父)である中村吉右衛門である。吉右衛門の俳句は、このブログでも以前、取り上げたことがある。(こちら

新聞をお読みになっていない方もおられると思うので、以下は今回の文章の引用――

祖父の句に「雪の日や雪のせりふを口ずさむ」というのがあった。中学生のころは、功成り名を遂げた名優がコタツにあたりながら詠んだ風流な句というような感じしかもっていなかったが、父の死をみとって大阪の襲名披露公演に戻る機中、ふいにその句が口をついて出た。実は自分が今出ている舞台で、雪のセリフをしゃべっていることに気がついたのである。祖父のその句は雪が降っても、親が死んでも、舞台でセリフをしゃべっている役者の宿命を詠んだものだったのだ。

役者というのは、毎日の肉体労働で心身へとへとになっているものだから、こういう短い十七文字くらいしか最後にはしゃべれない、つまりは役者松本幸四郎の労働句なんだよ、と韜晦しながらも、セリフはしゃべっていない時のほうが難しい、俳句はその一瞬の間を教えてくれる、という言葉にはさすがに説得力があるね。

ちなみに松たか子も俳句を詠むのだそうな。

打ち出して銀座は薫る月の道

オフィーリアを勤め終えての帰路に詠んだ句だという。いいですね、これ。

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