『俳句教養講座第二巻 俳句の詩学・美学』(角川学芸出版/2009)を読む。尼ヶ崎彬氏の「俳諧のレトリック 余情・やつし・本歌取り」という文章が示唆に富む。たとえば日本の詩歌の流れをこういうかたちで切り取った一節——。
まず漢詩・和歌は「雅」の文芸(現代風に言えば「芸術」)として公認され、上流階級や知識人の必須教養であった。その和歌の形式や技法を借用して生まれたパーティー・ゲームが連歌である。二条良基が「当座の興」と言ったとおり、その場かぎりの座興である。中世に連歌が和歌をしのぐ隆盛を見たのは、この気軽な娯楽性のためだと言える。その連歌を和歌に並ぶ風雅の文芸に引き上げたのが宗祗らであった。するとシリアスになってしまった連歌の重苦しさを嫌ってか、連歌師の中にふたたび娯楽を主眼とする一派が出てくる。即ち俳諧連歌である。これは「俳言」つまり「俗」な言葉を用いて、滑稽を身上とする。
この軽快な通俗文芸が流行すると、こんどはこの俳諧連歌をふたたび風雅な文芸に昇華させようという試みが出てくる。松尾芭蕉である。彼の発句こそ、今日私たちが「俳句」と呼ぶものの原点である。と、こうして見ると、俳句は和歌を出発点に雅から俗へ、俗から雅へという往復運動の産物であるということがわかる。
この方は、学習院女子大学の美学がご専門の先生らしいのだが、(Wikipediaによる。本シリーズには執筆者のプロフィールが載ってなくて不親切)短い文章ながらシャープな論考でありますね。
もうひとつ、この巻で面白かったのは櫂未知子氏の「無季俳句をどう読むか」で、内容もよく腑に落ちるものでしたが、意外だったのはこんな話。
しんしんと肺碧きまで海のたび 篠原鳳作
俳句の好きな方なら、無季俳句といえばまずこの句がうかぶだろう。ところで、この句について大輪靖宏氏が次のようなアンケートをとったらしいんですね。(「俳句の基本とその応用」角川学芸ブックス)
- 季節を感じない
- 春を感じる
- 夏を感じる
- 秋を感じる
- 冬を感じる
さて、みなさんはどうでしょうか。わたしはこれ夏以外にないじゃん、とまず思ったのね。
アンケートは俳句とは無関係の二十代の男女104名の回答を得た。
それによると。季節を感じない人——0名。春——2名。夏——35名。秋——0名。冬——67名。
櫂さんによれば、この句を夏の景として読む(俳人の感覚ではそうなる)のは、じつはあとから植え付けられた部分がかなりあるかもしれないという。なるほど、そういえば、この句と中村草田男の「秋の航一大紺円盤の中」を並べた解説をよく目にしたような記憶があり、草田男のほうは季語は秋ではあるが、8月7日頃からは秋だから実質的には夏の海の情景として想起されるのだろう。いずれにしても真っ青な海と船尾から一直線に伸びた航跡(わたしのイメージだが)は、夏以外にはないと思っていたのだが、先入観を排して素直な気持ちで「しんしんと肺碧きまで海のたび」を読むと、むしろ冬のイメージが湧くというのは面白い。
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