3)俳句

2008/05/04

あなたの俳句はなぜ佳作どまりなのか

『あなたの俳句はなぜ佳作どまりなのか』辻桃子(新潮社)を読む。
うるせえ、ほっといてくれ、てな題名ですが(笑)、具体的なアドヴァイスは参考になりますな。
たとえば、次のような添削。

夏の月苔に染まりし石畳  和田雄剛

夏の煌々とした月に照らされて苔の石畳がありありと見える。ただ残念なのは、「苔に染まりし」である。「苔の緑に染まり」ということを省略したつもりだろうが、これでは省略しすぎ。また苔の緑をあえて強調すると、月光に対してポイントが二つになってまとまりがつかなくなる。この句の場合は「夏の涼やかな月が、苔むした石畳を照らしている」ということだけでよい。一句のポイントは一つに決めよう。

→夏の月苔びつしりと石畳

凍蝶や廊下の隅の電話室  田代草猫

「や」で大きく切ると、凍蝶がどこにいるのかわからない。電話をかけている人が凍蝶のようにも読める。電話室の中で凍えて死んだ蝶を見つけたとすればリアル。

→蝶凍つる廊下の隅の電話室

どこまでも現実の「蝶」として写生すると、これが限りなく「幻想の蝶」に近づいてゆく。

大時化の海見に行かむ耳袋  山野むかご

これから「行かむ」でなく。「もう来た」とすれば。大時化の海が想像ではなく現実になる。

→大時化の海見に来たり耳袋

「あとがき」に1987年、四十二歳のときに始めた結社「童子」も20年を超えたとして後継者問題についての言及があるのが注目される。

しかし、結社の主宰や代表も、毎月何千句も選び続けて二十年、三十年たつと、高齢化し疲れが出てくる。結社を辞めたり、後継者に引き継いだりする時期に直面する。そうなったらどうするか、と私も考えてみることがある。私が始めた会なのだから、一代限りできっぱりと辞めてしまうのもよい。だが、遺された会員たちは行くところを失ったり、ちりづりに別れたりするのを悲しみ、これまで通り精進し合う場、今まで続けてきた方針を引き継ぎ、指導してくれる人を求めるのではないか。多くの結社や同人誌が、弟子や近親者によって引き継がれてゆくのは、自然のことなのだ。
引き継ぐのが子供なら世襲だが、世襲というだけで拒否すべきではない。誰が引き継ぐかは、そこに集まった人たちの意思に任されるべきなのだ。仮に主宰にふさわしくない後継者なら、弟子であれ子であれ、長く連衆がついてゆくはずはない。

正論で、とくに異論もない。
ただし、本書のなかで明らかにされているが、如月真菜が辻桃子の娘であることを念頭におくと、多少、微妙な感慨も憶える。
このことは、本書ではじめて知ったことだが、ああ、それで、という腑に落ちることもあった。
まあ、わたしにはなんの関係もないことだから、どうでもいいのだけれど。

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2008/03/18

川田ひさを句集

『空白と余白 川田ひさを句集』を読む。
1995年、翌年に米寿を迎えることを節目に上梓された第四句集。それまで還暦、古希、傘寿と句集を出してこられた由。著者は故人だが、先日、ご縁があってご子息(といってもわたしよりずっと年上の方だが)にご恵贈いただいた。
「まえがき」を引いて、著者の紹介とする。

さて、私の俳句との出会いは、昭和九年の春、ふとしたはずみで誘われて出席した職場(京都大丸)の句会です。

 鐘の声どこかで一つ春の月

この句が、鈴鹿野風呂師の特選に入ったのが切っ掛けとなり、爾来俳句にのめり込み、京鹿子、ホトトギスに投句を続けていましたが、私個人の環境の変化と日本の戦時体制の波により句作は中断。終戦後新しい職場(大阪電通)の句会に参加。京都支局句会へ那須乙郎氏を迎え、いづみ句会、冬青句会等を経て、乙郎氏の「向日葵」創刊に協力、その同人として参加。大阪の職場句会に乙郎氏を招聘、後に、堀葦男氏の指導を受けていました。「向日葵」が「馬酔木」の僚誌であった関係で暫く「馬酔木」にも投句していましたが、秋桜子師の逝去、野風呂師、乙郎師、葦男師の没後は特に師を求めることもなく、向日葵の同人、顧問、俳人協会の会員として、旧知句友と句座を共にし、京都近鉄文化サロンの俳句教室の講師として今日に至りました。

俳句が文学だ芸術だと論じることは、俳人と称しておられる方々にお委せして、私は私なりに、一匹狼ならぬ一野犬として気侭に俳句を楽しんでいます。

昭和の俳人の上品な雰囲気を感じさせる俳句で読んでいて気持ちがよい。いくつか紹介したい。

縁起絵巻にいくさ図多し秋の蝉

手応えの無き闇へ打つ鬼の豆

針山に針が一本春の風邪

推敲の行き詰まりたる春蚊打つ

疲れまだ知らぬ折り目の紙風船

春雷や錠剤一粒見失う

考えるとは腕を組むこと鳥曇

ラムネ瓶の重さ幼き日の記憶

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2008/03/08

俳句鑑賞450番勝負

中村裕『俳句鑑賞450番勝負』(文春新書)は「海」「酒」「生死」といった30のテーマを設け、それぞれのテーマごとに15句、全部で450の俳句を取り上げている。
選んだ句には短い解説(半頁くらいの分量)をつけているが、その文章の中にも別の句が三、四句はいっていたりするので、数えたわけではないが、この本一冊読めば、見当としてはおおよそ1500句くらいを知ることになるのではなかろうか。
よく知られた定番のような句もあれば(たとえば後藤夜半の「滝の上に水現れて」とか)だれも知らないはずの句もある。
ただ、誰の句を取り上げるかについては、はっきりとした傾向がある。これを手っ取り早く説明するには、巻末の索引で、俳人ごとにいくつの句が紹介されているか、多い順に並べてみればよい。
上位3人は次の通り。

 三橋敏男 21句
 渡邊白泉 14句
 西東三鬼 12句

このあとに多いのは7句で、阿波野青畝、池田澄子、石田波郷、高屋窓秋、遠山陽子、永田耕衣、中村草田男、山口誓子といった俳人が並ぶ。
著者の中村さんには同じ文春新書から『やつあたり俳句入門』という好著がある。四年前の旧かわうそ亭読書日記(2004年9月24日)にこんな感想を書いた。(一部抜き書き)

ホトトギスの世襲制の家元制度を真っ向からくだらないと言い、日本伝統俳句協会なんて名乗りのいけ図々しさを批判し、山本健吉とかれによって勢力を固めた戦後の大家たちの去就に疑問を投げかける。なにごとも旗幟鮮明は気持ちのいいもので、本書を読む快感はそこにありそうだ。
豊かな詩的精神を現代俳句が身につける可能性が過去にあったとすれば、それは新興俳句運動が立ち上がった時点であり、その代表的な作家は渡辺白泉だったというのが、著者(とおそらく師の故三橋敏雄)の立場のようだ。新興俳句運動は戦中の軍国主義によって弾圧されたが、この時代に俳句の水源をもつ戦後の大家たちが口をぬぐって新興俳句運動に正当な評価をしてこなかったことが、いまの俳壇の問題だという指摘は傾聴に値する。

『俳句鑑賞450番勝負』の元になったのは、三橋敏男がやり残した仕事(「昭和俳句栞草」)だったようだが、選句の姿勢は上記の考えにつきる。「450番勝負」なんて言い方自体に、「ホトトギスだとぉ、てやんでえ」みたいな感じがないでもない。もちろん、稲畑汀子は一句も入っておりませんよ。(笑)
ただし、そういう傾向の割にはあまり偏った感じはなくて(つまりアレはあってもなくてもかまわないんだなきっと)むしろ目配りはよく利いているから、俳句好きの人にも、これから俳句を知ろうという人にも、これはたくさんの句を読んで憶えたりするうえでとても重宝するのではないかと思うな。

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2008/02/22

松岡青蘿という俳人

Kuniharu Shimizuさんに教えていただいた『江戸俳画紀行』磯辺勝(中公新書)はとても面白い。
俳画という切り口で、江戸期の俳人を紹介していくというのは、めずらしいようだが、考えてみると、俳諧というのはもともと画賛などで、絵と一緒に味わうほうが本来だったのかもしれない。
著者は、俳画の収蔵品をもとめて日本各地の文学館や図書館を訪ねたり、俳人ゆかりの寺を探しては掃苔にこれつとめたり、それでいて、江戸期の発句集、評伝や資料などの文献の渉猟もおこたりない。俳号は磯辺まさる、結社は黒田杏子主宰の「藍生(あおい)」だそうだが、こういう人が、さしてでしゃばることもなく、静かにさりげなくいたりするから俳句の世界は油断がならない。(笑)

本書の中で、わたしが注目したのは、松岡青蘿(せいら)の発句についての次のような記述だった。

月の夜は地に影うつる蛍かな
戸口より人影さしぬ秋の暮
蘭の香は薄雪の月の匂ひかな
薄霧に花の香あらんけふの月
苦しみをはなれて動く生海鼠哉
荒波に人魚浮けり寒の月

一読、月の句が多いことに気づかれるだろう。辞世の句も月であったが、青蘿は日の光よりも、月光の世界に心を寄せた人のようである。こうした青蘿の句を、かつて詩人の日夏耿之介は、「象徴句風」と呼び、蕪村に次ぎ、暁台と比肩できる俳人であるとした。その後、やはり詩人の中村真一郎が、日夏に共感し、青蘿を「江戸俳人中の最大のサンボリスト」であると言っている。

そして、『青蘿発句集』(玉屑編)から、青蘿自身のこんな言葉を紹介している。

予人に会するごとの夜、此幻術の箱をひらきて、眼前に海山をつくり、厳寒に花を咲かせ炎天に雪を降す。是無幻の幻なり。幻人幻境に対し、幻境もまた幻なり。

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2008/02/19

句会小説はいかが

Haihu3reija1_2 これまでありそうでなかった小説というのは面白い。
三田完の『俳風三麗花』(文藝春秋)は帯のキャッチを引けば、「本邦初の句会小説!?」。
本邦初かどうかはともかく、たしかに俳句の世界をモチーフにした小説は珍しくはないが、本書のように句会そのものに焦点をあてた小説は、わたしはほかに知らない。

オハナシは、昭和七年の梅雨明け前後から昭和九年の立春までの東京を舞台にした、五話の連作短編である。
五・一五事件や松岡洋三の国際連盟脱退、滝川事件に小林多喜二の虐殺、満州国建国、皇太子誕生の提灯行列などがこの物語の時代背景として走馬灯のように流れてゆく・・・

日暮里の暮愁庵で毎月開かれる句会は、主人の暮愁先生がやもめの数学教授。写真館の主である穂邨や古本屋の南海魚、三井合名のサラリーマン、政雄、筆職人の銀渓などの俳句好きにまじって、なぜか妙齢の美女が三人加わった。暮愁先生の友人だった父の遺志をついで俳句に精進するちゑ、震災で両親を亡くした女子医専の学生である壽子(ひさこ)、それに浅草の花柳界をこれから背負って立つという松太郎姐さん—というわけでこの三麗花の恋模様と俳句がちょっぴりくすぐったいタッチで描かれる。
これはなかなか拾い物のよい小説。

本書では暮愁先生はホトトギス会員で、虚子からもその力量を買われているという設定なので、おそらく暮愁庵句会の手順は、ホトトギス系の結社に共通のものだろう。

全員がそろうと、最初に暮愁先生が半紙に席題などをさらさらと書いて鴨居に鋲留めする。

  席題 端居 守宮
  投句 各一句
  〆切 二時
  選句 三句(うち天一句)

一時間で席題の二句をつくって投句する。投句は半紙を切って作った短冊で行う。
誰の句かわからないようにするために清記を行うが、達筆の筆職人銀渓さんが半紙数枚に墨書し、席題を書いた紙の隣に張り出す。(いまはコピー機で人数分焼くことが多いだろう)
つぎに各人は三句選んであらかじめ配られた句箋にその句を記入し選者である自分の名前を右下に記す。選んだ三句のなかでもっともよいと思う句の上に「天」と書いて提出する。提出するのは披講の係の人の前である。
披講係は声のよい政雄さんで、まず披講係その人の選からはじまる。並選ふたつを読んでから天を読む。
披講係によって自分の句が読み上げられた作者は、すかさず「松太郎」というように自分の俳号を名乗ることになっている。
一通り披講が終わると、自分の句に天がいくつ並選がいくつ、というように、その日の成績があきらかになるので、最後に合評に移る。
とまあ、これが普段の暮愁庵句会の進め方である。

気づくのは、席題が季語であること。わたしが参加する句会では逆に季語は席題にしないのが普通。それから、投句数が一時間で二句ということ。これはかなり少ないね。わたしの知っている句会では一時間で六から八句くらいを課すことが多い。これはつまりじっくり時間をかけて推敲することを重視するか、一種の自動筆記のような効果を狙って自分でも意外な詩想の発見の機会を重視するかということの違いかもしれない。
あとは披講のやり方。これはこの時代のホトトギスの方式だろう。わたしたちの場合は、岩波新書の『俳句という遊び』方式である。つまり、作者を伏せていろいろ講評をおこなってから、ではこの作者はどなたでしたか、と聞いていくやり方だ。

いずれにしても、句会の模様が物語の付け足しではなくて、むしろ軸であることや、俳句好きの人間の心のうちがよく描かれていることなど、出色の俳句小説ではあるまいか。

なお本書は昨年の直木賞の最終選考に残った作品である。もし受賞していたら、低迷気味の俳壇のカンフル剤になったかもしれないなあ。

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2008/02/07

独吟半歌仙「鬼やらひの巻」

鬼やらひ炎の粉を貰ひけり

  むかし平家の落ちし梅林

つばくらめこよと表の戸を開けて

  ぬけた八重歯を瓦に抛る

繊月の夜に異国にゆきし友

  しり端折りして硯を洗ふ

早稲酒に酔ふて十八番の安来節

  社長室より皇居見下ろす

たしなめるつもりがかかる恋の罠

  朝のルージュをきりきりと引く

赤い目に何を摘もうか雪うさぎ

  悉皆生滅無常迅速

洋上の補給艦にも月凉し

  三代前は団扇職人

上京のしもた屋間口二間半

  ゆうべの菜飯ののこりをむすぶ

花筏見ては長生きしたと言ふ

  霞たなびくここぞ青山

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2008/02/06

はてなで連句のひとり遊び

「はてな」が新しく「Hatena Haiku」というシステムの運用をはじめたので、これをつかって連句の独吟でもしてみるかと思い立つ。
「Hatena Haiku」といっても、このサービス自体はべつに俳句と直接関係があるわけではない。
ごくごく短い会話をユーザー同士で楽しむミニブログというのがコンセプトのようである。
一、二行書いて、ぽん、と投稿するのが「ハイク」みたいだというのでこういうネーミングにしたのかな、よく知らないが。
でもまあ、たまたまではあれ「haiku」と名付けられているシステムなら、ハイク的な使い方を誰かがしてやるのもいいのではなかろうか、と思ったのですね。

とりあえず、独吟で半歌仙くらいをやってみようと思うのだが(こちら)、できれば時系列に積み上がる方式と下に並んでいく方式の選択ができると使えるような気がするなあ。
あと、もしかしてやり方があるのかも知れないが、字句の修正があとからできないようなので、この点でもこのシステムで歌仙を数人で巻くのはちと問題がありそうである。
しかし、こういう使い方する人はあまりいないだろうなあ。「Hatena de Kasen」なんてシステム、わたしのために開発してくれないでしょうか。(笑)

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2008/01/14

陽美保子さんの俳句

「俳壇」2月号にて第22回俳壇賞の発表が行われている。
今回は菅野忠夫(春野)と陽美保子(泉)の二篇受賞である。
応募総数388。選考委員は友岡子郷、宗田安正、宮坂静生、黛執、片山由美子の五名。

受賞者のお一人である陽美保子さんは、わたしは直接お会いしたことこそないが、数年前までネット句会などでご一緒したことのある方である。
こんなことを言ってかえって失礼になってはいけないとも思うのだが、俳句の作り方の、いろはのいの字も知らないようなわたしが初めて参加した句会で(はは、いまでもほとんど進歩はありませんが)なるほど俳句の骨法とはこういうものかと啓蒙していただいたのが、この陽美保子さんのおつくりになる句であった。
その頃は、まだ陽さんご自身もたしか結社に入られてそれほど年数のたたない頃だったかに聞いていたが、早いうちに同人に推されたことをほどなく知った。

今回の「遥かな水」三十句を読みながら、ああ、やっぱりこの方の俳句は好きだなあ、と思った。
「言葉を軽々と使って心の弾みを表している」(宮坂)、「どの句にもこの人の特色である詩のあること」(宗田)という選考委員の評があるが、何度か句会の選やわたしの旧サイトの掲示板でのやりとりで、わたしなりに感じていた、この方のあたたかい人柄や聡明さがのびのびと出ていて、読んでいて、ほんとうに気持ちのほどけていくよい俳句である。
わたしたちの人生は、軽々したこと、明るいことばかりではない。それはだれにとっても同じで、この方についても例外であるはずがない。しかし俳句はつらいこと悲しいことを詠うよりも、それを乗り越えていくこころのかたちを指し示すのに向いている文芸なのではないかと、わたしは常々考えている。この方の俳句を、わたしが好きなのはそういう「かたち」を感じるからではないかと思うのだ。

三十句(どれも好きだが)のなかから十句ばかり選んでみた。

 湖面より空の始まる帰雁かな
 藁屑の高く飛んだる牧開き
 人ごゑのとどかぬ辛夷咲きにけり
 腰下ろす隣に蝮草の丈
 麦刈つて夕風かるくなりにけり
 砂山は叩いて作れ土用波
 またここに集つてゐる木の実かな
 遥かなる水かがやける浮寝鳥
 雨降つて山の消えたる鳰
 静けさに佇むことも冬木の芽

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2007/11/14

種芋の歌仙

 萱草の色もかはらぬ戀をして     半残
  秋たつ蝉の啼しにゝけり      翁
 月暮れて石屋根まくる風の音     良品
  こぼれて青き藍瓶の露       土芳
 蕣の花の手際に咲そめて       翁 (蕣:あさがほ)
  細や鳴來る水のかはりめ      半残

『定本 柳田國男集 第十七巻』の「俳諧評釈」、「種芋の歌仙」初折裏第七句から折端まで。
「午ノ年伊賀の山中春興」なる前書きがあります。
翁はいうまでもなく芭蕉翁。
半残、良品、土芳はいずれも伊賀の門人で、気心も知れた郷里の俳友である。
午ノ年は、年表をみると元禄三年(1690)庚午(かのえうま)ですので、奥の細道の翌年の春でありますね。
柳田國男の言うところでは、楽しく巻き上げた歌仙ではあろうが、門人三人の技量にはややものたらぬところもあり、完成品と目してよいかどうかは疑問なきにしもあらずとの評価である。
にもかかわらず、柳田はこの四吟歌仙にはいくつか捨てがたい佳句もあり、これを知った人々が珍重したことも自然であり、この一巻が世に遺ったことは「何れの點から見ても」有難いことであった、と言う。
おそらく柳田がかく言うことの理由の一つが、上記の初折裏の後半の運びにある。

 萱草の色もかはらぬ戀をして   残

じつはこの句の前に三句恋句がつづいている。萱草は忘れ草、花の色がいつまでも変わらぬものもあわれである、と、さらに情痴の世界に耽溺してしまうのも、気のあった連衆ならではのこと。
しかし、そこをずばっと非情に断ち切る芭蕉。

  秋たつ蝉の啼しにゝけり    翁

お前たちいつまでにゃんにゃんやっているんだ。はや蝉も啼き死んだこの秋の気配に気がつかないか。師のきびしい切っ先に、弟子たちは、はっと我に返った。月の座も繰り下げられている。

 月暮れて石屋根まくる風の音   品

寂寞たる秋の夕暮れ。石で押さえた屋根を風がはためかす。

 こぼれて青き藍瓶の露      芳 

その強い秋風に、紺屋の藍瓶もたぶつき青い珠が露と結ばれる。

 蕣の花の手際に咲そめて     翁

秋の朝顔の花の色をここで取り合わせる。

   細や鳴來る水のかはりめ   残 

朝顔の咲く垣根の近く谷水を引く筧を取り替えて、はじめ細々とやがて高く音のなりゆくさまではないかと、柳田の評釈。ここはちとわかりづらい。

さて、ここでぜひ注目しなければならぬのは、お気づきになったかどうか、芭蕉の「蕣の花の手際に咲そめて」であります。
歌仙には式目という約束事がいろいろありまして、この折端(表十八句の末尾の句)の一つ手前は花の定座である。さらに俳諧連句の約束としては、この花の定座は、なんの花でもよいというわけにはいかなくて、かならず「正花」でなければなりません。「正花」とは簡単に言えば桜であるが、これも「桜」と詠んではならない。かならず「花」と詠むのが約束なんである。なかなか、うるさいのであります。

ところが、ここのところで芭蕉は「蕣の花」をもってきたのですね。
ここのところ、柳田の評釈を引きましょう。

古來花といへば正花(しょうはな)、必ず櫻であり春の季でなければならぬといひ、近世の宗匠も之を墨守して居るのを、芭蕉は平然として前例を破つたのである。是だけは是非とも援用しなければならない。月の座はすでに四季に通じて居るのに、花の座だけ春に限つたのは融通のきかぬことだつた。こゝに何の花でも詠じ得られるやうになつたら、連句はきつと今一きは面白くなると思ふ。

芭蕉の言葉に「格に入りて格を出でざるときは狭く、また格に入らざる時は邪詠にはしる」(俳諧一葉集)というのがあると加藤郁乎の本で教えられましたが、なんかそういうのを連想させるこの捌きでありますね。

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2007/10/25

尾張の杜国をめぐって(下)

さて、女房殺しで打首となった坪井庄八と、芭蕉の愛弟子杜国すなわち坪井庄兵衛が、兄弟ではないかという疑いが「鸚鵡籠中記」から浮かび上がった、というのが前回までのオハナシ。
これに気づいたのは最初に申し上げた国文学者の大磯義雄さんですが、これは興奮するでしょうね。
当然、裏付調査に熱が入る。

まず疑問となるのが、「鸚鵡籠中記」の坪井庄八のもとに嫁した女房は、「近江守家来野々村喜蔵の女」となっているので、あきらかに武士の息女である。縁組としては相手も武家であるのが自然である。だからもし尾張藩の家中に坪井姓があれば、これは町代でもあった杜国・坪井庄兵衛とは無関係であろう。

坪井庄八の父隠斎は「清須越よりみそのの住」という小書があるので、大磯さんがまずあたったのは、清須城主松平忠吉の家臣が下級武士まで載っている『清須分限帳』。ここには坪井姓なし。
つぎに尾張藩士の家系を詳細に記した『士林泝洄』をあたる。同じく坪井姓なし。
享保頃あるいはややそれより時代の下ると思われる『尾張藩名古屋敷鑑』(写本)登載の武士と見なされる者約1600名をすべて見る。坪井姓なし。
尾張藩における諸士の刃傷を記録した『紅葉集』およびその補遺『柿の落葉』にも、坪井姓の記録は見出せない。
一方、御園町というのは富裕な商人が居住する地域であり、現に杜国・坪井庄兵衛もここの町代を務めていたことは先に述べました。

以上の調査に基づき大磯さんの出した結論は、坪井庄八は武士ではなく町人である、というもの。これは肯けますね。
おそらく、野々村喜蔵は言葉を発することのできない娘を不憫に思い、かなりの持参金と心をゆるせる家老をつけて、格式の高い町人に嫁がせたのではないか。そのような例もあると大磯さんの考証がありますが、これは煩瑣なれば省略。

以上をふまえて、大磯さんの推理―

これを試みに杜国の追放と関係づけて解してみよう。杜国が家督を相続し、庄八は御園町の家に同居していた。杜国は米問屋の主人として家業にたずさわる一方、名古屋の富家に生育した者の常として趣味の道を楽しみ、庄八も遊芸にこって太鼓などをよく打ち、藩主が御能を観覧する際など格式高い町人として地方に加わって出演することを許されていた。ところが空米事件がもち上がって杜国が追放になり、家屋敷も没収されたので、庄八も追い出されることになり、続けて御園町界隈に住むことも憚られるので、郊外ともいうべき出来町に借家を求めて移住した。このように解すれば庄八の太鼓も零落も出来町住も一応解釈がつくのである。
(中略)
そこでわたしの想像であるが、杜国が追放に処せられたとき、併せて闕所になり、家屋敷のみならず財産も没収されたに違いない。杜国は三河の畑村に屏居、庄八は出来町に移住、生活が楽ではない。いままでの大金持ちの生活に慣れた庄八としては何としても金が欲しい。その上、町人の身分の悲哀を身にしみて感じたに相違ない。そこで金に目がくらみ、また武士の娘ということで口のきけぬ女を女房とした。しかし家老付の女房では何かと悩みが多く、ついに乱心して身の破滅を招いた・・・・

わたしはこれはかなりいけるのではないかと思うのですが、その後(大磯さんのこの論文の発表は1970年3月「連歌俳諧研究」)どのように評価されているのかはまったく不案内であります。ご存知の方はご教示ください。

貞享元年(1684)、芭蕉が「冬の日」五歌仙を興行し蕉風を確立したとき、杜国はその連衆であった。二十九歳か三十歳。家は米商で裕福、町代を勤めるほどの人望、力量もそなえた男であった。まさに人生の絶頂期といってもよい。
ところが、わずか一年後、空米事件によって杜国はすべてを失い追放された。さらに二年後、今度は弟が殺人事件をひきおこし打首になってしまった。杜国の心中はいかばかりであろう。師、芭蕉と巻いた「冬の日」、あの時代こそが、杜国の人生の輝かしい記憶ではなかったか。
おれの人生は終ってしまった。おれはもう死んでいるんだ。おれは生きるしかばねにすぎない。杜国ならずともこんな風に思うのではないか。
そこに自分を尋ねてきてくれたのが芭蕉である。

  鷹一つ見付てうれしいらご崎

このような文脈において、芭蕉と杜国をみるとき、「嵯峨日記」の「夢に杜國が事をいひ出して、悌泣して覚ム」という記述もまた、しみじみと味わい深いのでありますね。
なにが、芭蕉と杜国クンのラブラブ旅行だ。バカモン。(笑)

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2007/10/24

尾張の杜国をめぐって(中)

今日の話は昨日の続き。
鸚鵡籠中記の貞享四年(1687)四月十三日と同年六月十一日の条にはなにが書かれていたのか。

まず、四月十三日。

出来町坪井庄八乱心、女房(近江守家来野々村喜蔵の女にて新左衛門姉なり)と村田角兵衛(野々村がおとな也。娘に付て庄八が処に居せり)を切殺。召仕女にも手負す。庄八は被召捕籠舎。庄八、父は隠斎とて清須越よりみそのの住なり。大金持なり。後零落す。庄八太鼓等打、御前へも出。喜蔵が女唖也。故金を付て庄八に嫁す。)

さほど読みにくいところはありませんが、整理しますと—

  • 出来町の坪井庄八という者が乱心し女房と村田角兵衛を斬り殺し、召使いの女にも怪我をさせた。
  • 坪井庄八の女房というのは、近江守の家来で野々村喜蔵という者の娘であり、新左衛門の姉である。
  • 村田角兵衛は野々村家の家老(おとな)である。野々村の娘の付き人として庄八の家に居していた。
  • 庄八は召し捕られ、牢に入れられた。
  • 庄八の父親は隠斎という号をもち、清須越より御園町に住んでいた。もともとは大金持ちだったが、のちに零落した。
  • 庄八は太鼓などもたしなみ、藩主の御前でも御能の地方(じかた)として出演をしたことがあるような人物であった。
  • 殺された野々村喜蔵の娘は唖者であったので、持参金をつけて庄八のところに嫁したものである。

  という内容であります。なおカッコ内は原本では小書二行になっている由。

六月十一日の該当の条は短く、

坪井庄八打首に成り、尸は親類へ被下。

「尸」は「し」または「かばね」と読むのでしょう。いずれにしても、坪井庄八が処刑されその屍は親類へ引き渡されたという内容であります。

さて、普通の人にとっては、今日の三面記事のような事件に過ぎませんが、なぜ俳諧研究の国文学者がおもわず目をむいたのか。それにはもっともな理由があります。

「俳文学大辞典」(角川書店)から杜国の項目の一部を転記します。

杜国(とこく)俳諧作者。?~元禄三(一六九〇)・三・二〇。享年三〇余か。本名、坪井庄兵衛。尾張国名古屋御園町の町代を務めた富裕な米商。早くより先輩の荷兮らと同じく一雪系の貞門俳諧や江戸談林俳諧に遊んだと思われるが、初期の俳歴は未詳。貞享元年(一六八四)冬、名古屋に立ち寄った芭蕉を迎え、野水、荷兮らとともに『冬の日』五歌仙を興行し蕉風草創に参画、初めてその名が顕れる。翌年八月、延米商いの罪に問われ領内追放となり、三河国保美村に隠棲。(以下略)

つまり、この杜国についての基本的な知識をもっている人が、鸚鵡籠中記の貞享四年の事件の記事を読むと、「おいおい、ちょっとまってくれ」となるのは無理もない。

乱心して女房とその付き人を切り殺したのは坪井庄八という男。杜国の本名は坪井庄兵衛ですから同姓の上に、名前の上の一文字が共通です。しかも、ふたりとももともと尾張国名古屋御園町の富豪の家柄である。時代もぴったりとあう。

杜国が空米事件で追放の刑に処せられたのが貞享二年八月十九日、庄八の殺人事件が貞享四年四月十三日、処刑が六月十一日、芭蕉が杜国を伊良胡に見舞ったのが、その十一月中旬である。すなわち、時代的に無理がなく、両者が兄弟であって差し支えない。
『芭蕉と蕉門俳人』大磯義雄

少々長くなったので、結論は次回に持ち越し。

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2007/10/23

尾張の杜国をめぐって(上)

 鷹一つ見付てうれしいらご崎  芭蕉

芭蕉、四十四歳、『笈の小文』で愛弟子杜国(とこく)との再会を詠んだ句であります。
うーん、獺亭さん、もしかして芭蕉の男色についての話題ですか、そんなのもう聞きあきましたよ、と言う声が聞こえるような気がする。(笑)
いかにもごもっともで、『笈の小文』の旅で万菊丸と名を変えて吉野の旅に同行した杜国が、芭蕉と衆道の関係にあったというのは別に目新しい説ではない。

え、そんなの聞いたことがない、なんて方がもしいらっしゃれば、たとえば、こちらの「俳聖・松尾芭蕉の純粋な純粋な恋」という記事などを読みいただくと現代のゲイのみなさんからみた美しいラブストーリーの構図が見えて面白いかもしれない。

まあ、わたしはこの作者の視点は、読者の興味を惹くためとはいえ、まったく感心しませんけれどもね。
芭蕉と杜国はたしかに衆道関係にあったと思いますが、この旅が二人のハネムーンのようなものであったとはちと考えにくいようですよ、というのが実は今回のオハナシなんであります。上下二回くらいに分けて書こうと思っとります。

元ネタは『芭蕉と蕉門俳人』大磯義雄(八木書店/1997)に収録された「杜国関係の資料か‐『鸚鵡籠中記』の一記事」という短い論文。

「鸚鵡籠中記」は尾張徳川家の御畳奉行、朝日重章の数十年にわたる詳細な日記です。
この朝日さん、さほど身分の高い役職ではなかったようですが、それだけに市井の噂話などにもよく通じておられた。筆まめで好奇心旺盛、情報通ということで、その日記は世上の出来事やらゴシップが盛り沢山の元禄期の貴重な資料となりました。

しかし、内容の一部に生類憐愍令への批判があったり、藩主一族の不名誉な記事などもあったために、ながらく尾張藩に秘蔵とされ、その全文が一般に公開されたのは1969年、名古屋市教育委員会が刊行した「名古屋叢書」の第9巻から第12巻がそれであった。ただし、これはおそらく原本の印影本のことだと思われますので、機会があったとしてもわたしなどには読めないものと思います。

神坂次郎が『元禄御畳奉行の日記』(中公新書)という本を出していますが、半分ほど読んで面白くなくて放り出した記憶あり。(笑)まあ、若いときだったので、いま読むとまた違った感想を抱くでしょうな。

さて、この「鸚鵡籠中記」の貞享四年(1687)四月十三日と同年六月十一日の条に、大磯義雄さんという国文学者が、おもわず身を乗り出すような記事があった—というところで、以下次号。

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2007/10/15

闇の夜は

   闇の夜は吉原ばかり月夜哉

『江戸俳諧にしひがし』飯島耕一・加藤郁乎(みすず書房)のなかで、其角のこの句について、加藤さんが数頁にわたって語っているのだが、やや不審な点があるので、以下、覚えとして。

其角は寛文元年(一六六一)の生まれだから明暦三年(一六五七)の振袖火事に全焼した元吉原を知る由もない。この句は芝居や戯作ほかに採られるなどして俳諧以外でもひろく知れわたっているが従来の解釈の大方は闇の夜でも吉原ばかりは明るく華やいだ月夜のような不夜城だという意味にのみ受け取っている。それはそれでよいが、高木蒼梧『其角俳句新釈』大正十四年刊は、吉原は明暦三年(一六五七)から夜間の営業が許されたとし、延宝、天和のころになって散茶つまり中等の女郎が沢山できて夜店を張るので「夜も自然明るくなったのであらう。それを珍しいことに見たので、闇の夜でも吉原だけは月夜である、と云ったのであると評釈した。
(中略)
ところで月夜と見紛うばかりの吉原の明るさは鰯から採った魚油による灯火照明だったと鳶魚の一書により教えられた。上方の人が見ると仰天するほど明るく見えたので其角もいささか江戸自慢の気味をこめてこの句を詠んだらしいと言っているが、これは俳文学者の誰もふれずだった新見というものだろう。
加藤郁乎「隣人其角」
『江戸俳諧にしひがし』p.132

後半の、吉原の夜間照明は鰯の魚油の灯火であったというのは、長辻象平の『元禄いわし侍』(講談社)を読むとよくわかる。これについてはとても面白い話なのだが、長くなるので今回はとりあえずパス。なお、この本はオススメです。

さて、わたしが加藤さんの文章を不審とするのは、この発句の鑑賞として、「従来の解釈の大方は闇の夜でも吉原ばかりは明るく華やいだ月夜のような不夜城だという意味にのみ受け取っている。それはそれでよい」としている点である。

たとえば、この発句については、次のような紹介がある。

この句は、夜間営業をしている吉原の明るさを詠んでもので、闇夜でも吉原は月夜のようである、といった趣向だろう。放蕩児である其角らしい句である。
しかし、そう解釈するのは「闇の夜は」で切って読むからで、「闇の夜は吉原ばかり」で切って、「月夜かな」と読むと意味が逆になる。この世は月夜だが、吉原は暗黒の夜だ、の意となり、これは言葉遊戯の「聞き句」といって、俳句の手法である。一つの句に意味が正反対になる仕掛けをするのが其角の腕で、この手は『新古今和歌集』よりの和歌の伝統でもある。古典落語の「芝浜」にもこの句が出てくるから、昔はよく知られていた。
嵐山光三郎『悪党芭蕉』

つまり、切れがスイッチのような働きをして、どこで切るかによって、空想の中で江戸の町全体が闇に沈んだり、逆に煌煌と月に照らされたりする、その機知を味わうのがこの句の醍醐味だと言うことだろう。
わたし自身、そういう一種のことばのマジックとしてこの句を頭の中で唱えては、ぱちん闇夜、ぱちん月夜と映像や意味が、一瞬で反転するのを面白がっていたのであります。

ところが、加藤さんは本書の中で、前者の情景の意味にのみ受け取るのが大方の読み方で、それはそれでよいとおっしゃるわけです。
「大方は闇の夜でも吉原ばかりは明るく華やいだ月夜のような不夜城だという意味にのみ受け取っている」としているのは、当然、別の解釈があることは知っているが、という含みがあるわけですから、ここで加藤さんはあえて、そんな落語家のような読み方はおれはしないよ、とおっしゃっているように思えます。

不審というのはここのことで、たしかに切れによって意味がかわってしまうのは駄目だという考え方をとる人もおられるようですが、はたして加藤郁乎ほどの人が—現代俳句のちまちましたお利口さん風の偽善を嫌う俳人が、そういうけちなことをおっしゃるだろうか。

やはりこの句は、其角が、どうだい、この「切れスイッチ」の利き。いいだろ。わっははは、という感じのお遊びをしているとわたしは思うのですけれど。

ま、それはダメよ、と加藤郁乎は言っているのでありましょうね。さて、なぜだろう。

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2007/10/08

桂信子とその時代

伊丹市にある柿衛文庫で「女性俳句の世界—桂信子とその時代」という特別展をやっている。

女性俳人として常に第一線で活躍した、桂信子が平成十六年十二月十六日に没し、所蔵の近現代の俳句史料が、翌十七年十一月三日をもって柿衛文庫に寄贈されました。
その中には、大阪空襲の際に桂信子が自ら防空壕へもって入って難を逃れた、第一句集『月光抄』のもととなった句槁、また山口誓子の「激浪」を綴った帳面など、貴重な資料が含まれています。
本展覧会では、桂信子の句帳・原稿・色紙や句集をはじめ、桂信子にあてた橋本多佳子や飯田龍太らの手紙や葉書などの資料を中心に、明治・大正・昭和の時代に生きた女性俳人にスポットをあて紹介します。  
   出品一覧の「ごあいさつ」より

2007_1008 たいへんよくまとめられた展覧会で感心した。
いろいろな資料は「へえ」と思わず手にとってみたくなるのだが、いかんせんガラスケースの向こうにあってもどかしいような思いにかられる。たとえば「旗艦」の第一号だとか、「火山系」第一号、「天狼」第一号なんてのは、目録によればすべて俳句文学館の所蔵のようだが、保存状態もよいように見受けた。

上記の「ごあいさつ」にある橋本多佳子筆の桂信子宛書簡は、なんという紙かわたしは書にはうといのでよくわからないが、特別の便箋に達筆で書かれたもので、もちろん美しいものであるが、同時に平畑静塔が多佳子をさして、彼女の俳句には「ヴァニティ」があるなんて意地の悪いことを言ったことなんかも連想しておかしかった。桂信子に出した私信には違いないが、どうも第三者の目を意識したような豪華さがあるように少なくともわたしの目には見える。まあ、やはり男というのは美人で才女という存在にはきびしいのかもしれない。(笑)

なかでも一番、興味深かったのは、高柳重信からの葉書(S23.4.10)とこれに対する桂信子の「返信」である。近畿車両株式会社(桂は昭和21年31歳でこの会社の秘書に雇われた)のうすぺっらな社内便箋を使用し、一葉の横書きの用紙を縦書きにして、見方によれば走り書きのようなあんばいで書かれている。

わたしはあまり深く考えずに、最初この桂信子の「返信」を実際のものと考えて、「あれま、ずいぶん乱雑な手紙だなあ」と思ったのだが、もちろんこれは下書きか、または自分用の控えである。自分の送った手紙は普通は手元に戻ってはこない。
というわけで、その雑な体裁からも重信宛に送られた実際の手紙ではありえないが、下書きかそれとも控えか。わたしは、おそらく、下書きではなくて控えであろうと思った。目録でも「桂信子筆高柳重信あて返信の控え」となっている。昭和23年当時には、控えはゼロックスでというわけにはいかなかった。

なぜ、これを控えだと思うかというのは、文面の内容に関わる。

残念ながら正確な引用はできないのだが、これは高柳の葉書が、桂信子の俳句観を批判するような内容だったので、これに対する反駁というか、抗議といった内容なんだなあ。「あなたはわたしを浅薄だなどとおっしゃまいすが、わたしはそんなことをおっしゃるあなたのほうがよっぽど浅薄だと思います」(記憶なので不正確)なんて感じの文面である。
やあ、怒ってる、怒ってる、と思わず吹き出してしまった。

たぶん、そういう内容だから、どんなことを相手に書いて送ったのか、自分用にも控えをつくっておこうと思ったのだろうし、やがてそういうことがあったのが自分でもおかしくて、なつかしくて、捨てずに手元に高柳の葉書とあわせて保存しておられたのでないでしょうか。

柿衛文庫の柿衛は「かきもり」と読みます。おなじ建物内に伊丹市立美術館があり21日まで「銅版画の巨匠・長谷川潔展—神秘なる黒と白」を開催中。この長谷川潔展がまた結構なものでした。

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2007/10/02

野中亮介さんの俳句

「俳壇」10月号にリレー競詠として野中亮介という方の作品「白木柱」が載っている。へえ、これいいじゃないかと思った。
ただし、わたしの見るところ、偶然かもしれないが、前半に佳い句が集まっていて、うまくこの人の頁に目がとまるようになったのだと思う。後半の句から始まっていたら見落としていたかもしれない。

こんな句だ。

  空海の筆勢夏に入りにけり
  山々も胡座をかけり冷し酒
  夕立が馬穴の尻を打ち騒ぐ
  分校の廊下走るな羽抜鶏
  でぼちんの瓜盗人でありつるよ
  柳家も三遊亭もどぜう鍋
  雨乞の幣のもつとも日焼けしぬ

作者は「野中亮介(馬醉木)」となっていて、お名前は「りょうすけ」とお読みするのだろうと思ったが、現代俳句協会の作者データベースによれば「きょうすけ」というよみがながついている。こちらには「苗代と死者を隔つる白襖」という句をあげてあるだけで、生年、句集名などの情報はない。

一方、ウェブ上の「俳句人名辞典」によれば
野中亮介(のなか・りょうすけ)1958(昭和33)・3・30−・「馬酔木(あしび)」「花鶏」・『風の木』・<鹿の斑のかそけき梅雨に入りにけり>
となっている。

昭和33年生まれだとすると、わたしより三つばかり若いが、まあ、ほぼ同世代に近いと見てもいいだろう。なんとなく作品に親近感(ああ、おれもこういうのが詠みたいんだよねという)を抱いたのは、そういうことも多少影響しているのかもしれない。

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2007/08/14

おもうわよー

角川「俳句」8月号、池田澄子さんの連載「あさがや草子」から。

以前、池田澄子さんの戦争をテーマにした俳句を紹介して、そこに父親への思いがあるようだ、ということを書いたことがある。(こちら)
おそらくよく知られたことなのだろうが、今回、ご自身の文章でそれを確認することができた。
今回の随筆のタイトルは「送り火のあとも思うわよ」。
文章は祖母の最期の話から始まる。

祖母は、長女次女長男を育てた。長女の夫の戦病死の報を受けたとき、南方に出征していた自分の一人息子の生死も知れなかった。その息子は昭和十九年六月三十日に西部ニューギニアで戦死した(ことになっている)。医者になったばかりの軍医、二十四歳であった。

あとで出てくるが、戦病死した長女の夫というのが、池田澄子さんの父君であるようだ。

祖母が逝ったのは昭和五十年の春で、春先から時々意識の混濁が始まった。(略)床にあって或る日、突然嬉しそうに話し始めた。
「まあ、よっちゃん!どうしたの、元気だったのね。死んだと思っていたら生きていたのかい?生きていたのねえ、よっちゃん」
それが最後の話し声。息子の名は好正で、よっちゃんと呼んでいたのである。話し掛けている視線の先には、ストーブがあった。間もなく祖母は死んだ。

死んだ人はもはやどこにも存在しない。しかし、と池田澄子さんは考える。

三十四歳で戦病死した父も、二十四歳で戦死したよっちゃんも祖母も、今、この世に存在している。私が居る限り、記憶がある限り、彼ら彼女らは存在していて、私が居なくなった時に消え去るのである。

「送り火のあとも思うわよ」の最後に池田さんが紹介しておられるのは、こんな話だ。

島の写真を撮っているという友人がいる。写真家である彼女が素敵な言葉を教えてくれた。ある島では、別れる時、例えば島を離れる彼女に対して、「さようなら」とは言わないのだそうだ。ましてや「じゃーね」などとは決して言わないだろう。船を見送る島人は、「おもうわよー」と手を振るのだそうだ。
(略)
こんな嬉しい別れの言葉があったなんて。おもうわよ。アナタが目の前から去っても、ずーっと思うわよ。今度逢うまで思っているわよー。

少しほろりとした。
お盆である。
明日は終戦記念日。

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2007/07/10

「平成秀句選集」(3)

「は」から「わ」まで。159人。長谷川櫂、正木ゆう子、森澄雄など22人を外した137人の1370句。
最初に丸をつけた句が30句。ここから24句まで絞ってみました。

春の星おんぶの腕が首を巻く     橋爪鶴麿
道なりに行くしかなくて大夏野
この先はと問うきりもなく降る雪に
雪礫われに投げし子吾子になれ    橋本美代子
分度器に透きたる海図秋の風     花谷和子
転ばずにお帰り狐火ともる頃     原雅子
野の草へ露を配りにゆくところ    ふけとしこ
スープ澄むどんどん雪のはやくなり  ふじむらまり
かかへくるカヌーの丈とすれちがふ  藤本美和子
懸大根火星の赤き夜なりけり     細谷喨々
秋かすむ戦艦といふこはれもの    松澤雅世
蚕豆は昔の顔をしてゐたる      武藤紀子
貝寄せに鯨の骨も混じるべし
淡雪や恋遂げ来しか魚青き      望月百代
赤い箸つかふ夏痩はじまれり
そこまでがこの世の高さいかのぼり  本宮哲郎
金泥の一巻を展べ春の海       八染藍子
ザリガニの音のバケツの通りけり   山尾玉藻
陽炎をよく噛んでゐる羊かな
林檎剥く皮ながながと戦前派     山口速
梨はをとこ葡萄はをんなの重さにて  山下知津子
動悸息切れ骨粗鬆症青き踏む     吉田未灰
この先は知らぬ存ぜぬ道おしへ
素つ気なき男の如し短日は      渡辺恭子

さて、以上で『平成秀句選集』を材にした未知の俳人私家版アンソロジーができました。
まとめてみると506人の平成俳人のうち知っている(ある程度の先入観をもっている)方が92人。わたしにとって未知の俳人が414人。ここから89句をいただいたことになります。おおよそ百句に対して二句の割合。
すべてを通して心がけたのは、その方の師系や年齢には重きを置かず自分の好悪に徹するということ。結果としてなんとなく言えるのは、大仰なポーズに見えるものは選ばなかった、閉じてかたくななものは選ばなかった、どこにもおかしみのかけらも見えないものは選ばなかった、というようなことになるようです。
逆に言えば、それがたぶんいま現在のわたしの俳句観なのだと思います。

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2007/07/09

「平成秀句選集」(2)

引続き「さ」から「の」までの161人。既知の俳人ということで除外したのは佐々木六戈、鷹羽守行、坪内稔典など29人。したがって選をしたのが132人の1320句であります。
最初に丸をつけた句が49句、ここから30句まで絞った結果が以下の選となりました。

そらまめの濡れたるいろを商へり    斎藤夏風
三日ほど前からのこと鉦叩       嶋田一歩
奴の国の金印しかと春の潮       嶋田麻紀
冬憶ふまじ今紅きななかまど      嶋田麻耶子
次の風その次の風芒原         島谷征良
山里に棲んできつねのやうな咳     嶋野國夫
銀漢や研師佐助は父の祖父       清水青風
見通しのよき坂道の梅の花       下鉢清子
生涯の配役は次女葱の花        須川洋子
悪相の魚の美味なる漱石忌       菅原鬨也
馬なればわれ透明の馬ならむ      宗田安正
日と月を穴と思へば白牡丹
さきほどの冬菫まで戻らむか      対中いずみ
実朝の海あをあをと初桜        高橋悦男
湧き出してすぐ春水として走る
焼き榮螺空は慈眼でしどけなく     竹中宏
後手をついて山見る冷し飴       舘岡沙緻
三面鏡のあちこちにゐて風邪心地    谷口麻耶
台風を海が身籠るうねりかな      辻美奈子
空蝉のどれも山頭火の背中       照井翠
水中花ときどき水を替へる恋
撃たれんと一頭の鹿澄みきりぬ
水温む鯨が海を選んだ日        土肥あき子
観覧車より夕焼のありつたけ
夏服となり帆柱の心持ち
どんぶりで水汲んで来る桜山      冨田正吉
猫にして恋の王者のひとゆすり     中尾杏子
プールより生まれしごとく上がりけり  西宮舞
げんげ田にこころ忘れて来てしまふ   野木桃花
望郷のゴリラに五月来たりけり

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2007/07/08

「平成秀句選集」(1)

『平成秀句選集』(「別冊俳句」)は、現役の俳人506名による一人十句の自選集。
こういうムックの性格として、ぱらぱらとなじみのある俳人のところを拾い読みしたら、あとは資料として本棚に放り込んでおくつもりだったのだけれど、あんまりわたしの知らない俳人が多いので、これを句会の詠草のようなつもりで読んでみたらどうだろうと、ふと思いついた。
つまり、まず知っている俳人(句集や俳句総合誌でその作品を読んだことがあるとか、評論などでその方の俳句観などをある程度想像できるとか)は除外する。すると、作者の名前と略歴そしてその方の作句信条はついているけれど、わたしにとってはまったく未知の俳人の自選十句が並んでいるということになる。
もちろん、わたしがそのお名前を知らないということは、単にわたしが俳句の世界にさほど詳しくないというだけのことですが、それでもそういう方の作品を千句、二千句と読んでいくということにはなんとなく、「平成俳句」の総体的な厚みとか深さといったものが感じられはしないかと思ったわけであります。
既知の俳人(俳壇に無知なわたしが知っているくらいだからみな有名な俳人)を除外してみようと思うのは、有名な俳人だから、人気のある作家だから、大きな賞を受賞している人だから、という先入観や、権威によるバイアスがどうもわたしにはかかりそうだと思ったからであります。
知らない方ばかりだから、遠慮もいらないし、なんの義理もない。単純に、「あ、これ、すごくいい」と思うものだけに丸をつけていくという方針です。

五十音順で並んでいるので、まず今回は「あ」から「こ」までの186人を見ていく。
この中から、多少なりとも作品を読んだことがあるので除外したのは阿部完市、池田澄子、宇多喜代子、櫂未知子など、41名で、畏れ多いことながら(いやまったく)選をさせていただくのは残る145名の1450句であります。
やってみて痛感したのは、同じ人に複数の選をしたくなるということですね。このあたり、ほんとうの句会であれば、作者が伏せられているので偶然そうなってもかまわないのだが、同じ作者から二句、三句と選ぶのはちと気が引ける。ただ、どうしても波長があう作者というのはあるようで、複数の選をいれた方の自選十句はどれもこれも面白い。

「あ」から「こ」で丸をつけたのが58句。ここからさらに35句まで絞ってみました。

焚火してさうかいつでも逢へるのか  有澤榠樝
春一番鞄の軽き日なりけり      藺草慶子
島唄は半音階よ夜の秋        石川星水女
あやとりは指が覚えてゐる小春    
あを空のどこかに火星蝌蚪生まる   井上康明
コーヒーの一杯分を時雨けり     岩垣子鹿
風にまだ芯が残つて浮氷       有働亨
長き長きエスカレーター百合抱いて  浦川聡子
剥身屋の女房もいいなあ銭葵     大木孝子
しやがみてもこどもになれず蝉の穴  大島雄作
どの山も己の丈に眠りけり      大岳水一路
かなしみの芯とり出して浮いてこい  岡田史乃
櫟山雪の来さうな月上げて      岡本高明
屑籠に英字新聞小鳥くる       奥名春江
くり返す助走西日はさらに西     小宅容義
わたくしが昏れてしまへば曼珠沙華  柿本多映
甚平やおつしやることの御尤も    角光雄
精神的に負けて背高泡立草      加藤静夫
縄跳びの円にすつぽり秋の山     甘田正翠
日傘ゆく法隆寺西一丁目       木内怜子
人にやや離れて生きて草の花     菊池一雄
実むらさきいよいよものをいはず暮れ 
ちやんちやんこ死なねばならぬ一大事 木田千女
敦盛の五倍も生きて新茶飲む
グラマンに追はれし丘の土筆つむ
チューリップわたしが八十なんて嘘
麦生うや哀しくまろき馬の尻     北原志満子
ひと頃のあなたのやうな闘魚かな   櫛原希伊子
死んでから先が永さう冬ざくら    桑原三郎
雛飾がらんどうなるものばかり    神野紗希
ヒーターの中にくるしい水の音
仏壇は要らぬさくらんぼがあれば   小西昭夫
草の花大人も小さくなればいい
にわとりの卵あたたか春の雪
一度くらゐは歩きたからう冬木たち  小檜山繁子

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2007/05/17

俳句の技法(承前)

今日の話は昨日の続き。

新潮社の季刊誌「考える人」の最新号(2007年春)の特集「短編小説を読もう」の冒頭に丸谷才一のインタビューが掲載されています。聞き手は湯川豊。ちなみにこの特集はなかなか読み応えがありまして、このインタビュー記事の次には村上春樹への15の質問、それから川上弘美のインタビューや、高橋源一郎と橋本治の対談なんかもある。さすが新潮社という貫禄であります。

さて、この丸谷才一のインタビューのなかに、前回マクラをふった楸邨の鰯雲の句が登場するのですね。文脈は短編小説と言うのはどういう楽しみ方をすればいいのかといったところですけれど、ここでは短編小説とのつながりはとりあえず置いて、この句の解釈だけ引用します。

加藤楸邨さんの「鰯雲人に告ぐべきことならず」。その解釈(1)。鰯雲がきれいだなあと見ている。ところで、自分が今悩んでいるあの女の問題(あの金銭の問題でも何でも)は、だれにも相談できない。やっぱりいわないほうがいい。沈黙を守ろう。もうひとつの、解釈(2)。ああ鰯雲きれいだな、これをいってもだれもわかってくれないな。二つの解釈で、たぶん俳句の初心者は(2)だけで考えていると思う。そして俳句の専門家は(1)だけで考えていると思う。おそらく、僕は(1)と(2)の解釈の二つが紛れるところが、俳句のあいまい性で、俳句のおもしろさなんだろうと思うんです。正解がどっちとも言えないところがおもしろい。

ここで丸谷さんがあげている(1)の解釈というのは、「鰯雲」(季語)と「人に告ぐべきことならず」(十二音)との間に直接の関係がないということですから、遠藤さんの言うところの「十二音技法」流の解釈であります。

これを丸谷才一は「俳句の専門家」の解釈だと見ているわけですが、「週刊俳句」で遠藤さんが言っておられるのは、むしろこういう五音の季語とそれ以外の十二音の間をわざと離して、そこに二句一章あるいは二物衝撃の効果を生むテクニックというのがハウツー方式で量産される俳句初心者の安直な技法になっているという批判であるように思われます。

事実、わたしのような初心者もこのテを多用していますから、丸谷さんの見方はかならずしも実態を正しくとらえていないと思う。 むしろ(1)は初心者もふくめて俳句の技法を多少でも習ったことがある人。(2)は俳句の作り方と読み方(乱暴に言えばこれは同じものですが)を読んだことも聞いたこともない人、であると見ていいのではないでしょうか。つまり片やごく初心者からベテラン、専門家までがひとくくりのグループになり、片や俳句に興味がなかったり、俳句になじんだことのない人々がもうひとつのグループになる。

そう考えると、多少意地悪く言えば、「十二音技法」に対する反発は、初心者が専門家面をして俳句を語っている(かのように見える)ことへの不快感が原因であると言えるのかもしれません。

さて、この丸谷さんの発言は、もともと俳句をテーマにしているわけではありませんから、少々言い足りないところが当然ありますね。

たとえば解釈(1)は、女の問題にせよ金の問題にせよ、人に告ぐべきではない具体的な問題がなにかその人に「ある」という読みですが、これとは別に解釈(3)、とくにこれといって具体的な問題は「ない」としても、「はあー、もうなんだか生きていくのがいやになったなあ」と深いため息をつくようなことも人間だもの、時にはありますよね。しかし、そういうことは、いい大人が口に出して言うようなことではない。ああ、これってなんか鰯雲を見たときの感じになんだか似てるみたい、というような読みもあっていいでしょう。まあ、こういう多義性を楽しむというところが丸谷さんの言う「俳句のあいまい性」「俳句のおもしろさ」なんだと思う。

ということで、最後の解釈(3)をわたしの答案といたします。(笑)

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2007/05/16

俳句の技法

ウェブマガジン「週刊俳句」の第3号、「十二音技法」が俳句を滅ぼす(遠藤治)という記事がおもしろい。
「十二音技法」というのは、まあ一種のジョークみたいな表現なのだが、「五七五のうち十二音だけ考えてあとは適当に季語をあしらう」という作り方のこと。
はは、大きな声では言いたくないが、じつはこれ、わたしもよくやります。(笑)

ところでこの記事に対するコメントで、こういう技法が「とりわけ初心者指導の現場において、まことしやかに流通している」という具体例はあるのかという指摘がありました。初心者指導の現場というのが、カルチャー・スクールとかなんとかそういう意味であれば、そういうものには出たことがないので知りませんが、初心者向けの入門書ではこのノウハウがたしかに説かれておりますね。

わたしがすぐに思い浮かべたのは、藤田湘子の『新・実作俳句入門』(立風書房)。
ここで藤田は現代俳句には次のような「原型」があると教える。

  1. 上五に季語があって「や」切れになっている。
  2. 下五には名詞が置かれてある。
  3. 中七下五は一つながりのフレーズである。
  4. 中七下五は、上五の季語とかかわりない内容である。
  5. 中七の言葉は下五の名詞のことを言っている。

もちろん藤田湘子は「これであなたも5分で俳句作家!」なんてことを言ってる訳ではなくて、こういう原型、典型を体が覚えるまで百でも二百でもつくる練習をすることで俳句の基本が身につくと言うのでありますが、それはともかく、これはかなり実戦的なメソッドでありますね。とくに(4)の「中七下五は、上五の季語とかかわりない内容である」というところがキモです。
藤田湘子は、あることで、わたしは人間として信用できないタイプだと勝手に決めつけておりますが、俳句は上手い。その上手さ(と信用のならなさ)がこういうメソッドにもあらわれておりますが、なんのことはない、わたしもこのテはちゃっかりいただいていますので、あまり偉そうなことは言えないか。
さて、この「十二音技法」の記事では、最後にテストがあります。次のような句をキミタチちゃんと鑑賞できるかね、という問いかけ。

 をりとりてはらりとおもきすゝきかな  飯田蛇笏
 鰯雲人に告ぐべきことならず      加藤楸邨
 中年や遠くみのれる夜の桃       西東三鬼
 たましひのまはりの山の蒼さかな    三橋敏雄

このうち楸邨の鰯雲について、たまたま丸谷才一が面白いことを言っているのを最近読んだので、別にテストの答案というわけではないが、ちょっと紹介してみよう。
(この項続く)

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2007/05/15

飯田龍太の百千鳥

小林恭二の『俳句という遊び—句会の空間—』(岩波新書)は、いまから17年前の1990年4月に山梨県境川村の飯田龍太邸で行われた句会の模様を伝える好著。この飯田龍太邸のことを俳句をやる人は「山廬(さんろ)」といいます。龍太の父である蛇笏が命名したのですね。
句会は飯田邸で行われたと今書きましたが、正確には4月12日と13日の二日にわたって開かれておりまして、初日は確かに山廬で行われましたが、二日目は太宰治が『富嶽百景』(富士には月見草がよく似合う)を書いた[天下茶屋]がその会場となりました。参加した俳人は本の見返しにある紹介の順番で、飯田龍太、三橋敏雄、安井浩司、高橋睦郎、坪内稔典、小澤實、田中裕明、岸本尚樹の8名。「はじめに」で著者の小林恭二が書いていますが、句会はある意味、真剣勝負です。これだけの名手が顔を揃えて競うわけですから、短い時間内に何句も仕上げるというプレッシャーはただごとではない。小林は名前はあかしていないが、ある参加者はあとになって、句会の二日間は「ほとんど発狂状態だった」、「僕だけでなく、みんなそうだったと思うよ」と語ったとか。

さてその二日目の[天下茶屋]での句会。ひとり十句の規定だからほんとうは全部で八十句になるはずでしたが、飯田龍太が九句で七十九句になった。

「うん、僕は九句だ。謙虚にやったんだ」と言った後で、
「これで負けても言い訳ができる」
と呵々大笑。

この本に出て来る飯田龍太はなんだかすっとぼけた爺さん風でおかしい。
このときに飯田龍太が出した句の一つにこういうのがある。のちに句集『遅速』(1991)に収録された。

 百千鳥雌蕊雄蕊を囃すなり   龍太

選んだのは三橋敏雄と田中裕明の二人。以下、句会の様子を本書から抜いてみる。

高橋「僕は選んでないんだけど、その句面白いね。なんか伊藤若冲の絵みたいで」
小林「そう言われるとなかなかいい句ですね」
(中略)
小澤「理が勝ってるんじゃないかなあ」
三橋「作ったという感じのする句ではあるね」
飯田「(しみじみと)惜しいねえ」
小林「作者はどなてでしょう」
飯田「わたしです」
一同爆笑。
小林「最後の惜しいねえというのはなんだったんです」
飯田「あはは」
三橋「作者名が決まったんでこの句は郷土詠として決まるねえ」
(中略)
ちなみに句会が終わった後、高橋睦郎がこの句を盛んに褒めていた。句会最高の一句だと言って。
わたしも素晴らしい句だと思う。

「俳句研究6月号」の飯田龍太追悼特集(去る2月25日に八十六歳で長逝)のなかで、正木ゆう子が、〈一月の川一月の谷の中〉と並べてこの百千鳥を鑑賞しておられました。(一月の川の句は、どうぞ頭の中で縦書きに直していただきたい)

 一月の川一月の谷の中
 百千鳥雌蕊雄蕊を囃すなり

片や死後のような、未生以前のような、命の姿の見えない景。片や、命の賑わいの極致のような一句。その対照をわたしは愛する。

同じ特集の次のページには小澤實がやはりこの句をとりあげてこんな風に書いておられ、感慨をさそいます。

小林恭二著『俳句という遊び』の句会に出て、この句を選べなかったことを、生涯、悔い、恥じるものだ。選んでいるのは、三橋敏雄と田中裕明のみ。二人ともはや亡い。

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2007/04/19

飴山實全句集