4)短歌

2008/04/29

俵万智の涙

「短歌」5月号の連載「語る短歌史」から。(岡井隆の談話、聞き手は小高賢)

岡井 (略)それで、早速、先にも言ったように豊橋に呼んだのです。まだ二十歳ぐらいでしたが、わたしが対談の相手をしたのですよ。そのときのシンポジウムにはたしか坂井修一君もいたはずです。その会場に「短歌研究」の新人賞を受賞した佐久間章孔君がいましてねえ。

小高 たしか俵さんを泣かした事件ですね。有名な。

岡井 うん、彼が泣かした。どうやって泣かしたかというと、「あなたの歌というのは保守、超保守だ。つまり今の短歌を革新するというものではない。思想的にも全く保守だ。こんなもので文学が変わるわけがない」と言っていじめたのです。俵さんは頭のいい人だけれど、保守ファンダメンタルだなんて言われたって、そりゃあ、俵さんには通じないですよ。それでもう、しようがないから泣いちゃった。
それに対して周りから、たくさん同情票が出るかというとそうでもなかった。そこらあたりはむかしからの歌壇の伝統ですね。新人に対する扱いは、戦争直後の近藤芳美しかり、昭和三十年代の塚本邦雄しかり、そのあとの寺山修司もそうでした。たしかに新人は明日はどうなるか、わからないからね。

この出来事は 1987年6月のことらしい。
その前年に『八月の朝』で角川短歌賞を受賞。『サラダ記念日』がベストセラーとなった年である。岡井の談話では、「二十歳ぐらいでした」とのことだが、正確にはこのとき俵は二十五歳であります。
岡井の言葉からは、この佐久間章孔の俵批判は新人に対する「いじめ」みたいなもんだったのよというニュアンスが伝わりますね。歌壇の伝統である、ト。ははは、おっかねえ伝統だ。

鈴木竹志さんの「竹の子日記」に、もうすこし詳しい内容がありましたので、興味のある方はご参考まで。
【こちら】

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2008/03/19

Macの縦書きエディタ

俳句や短歌を読む場合には、手書きのものは当然のこととして、本や雑誌などの印刷物であれば必ず縦書きでなければ、どうも気分が落ち着かない。
しかしコンピュータの画面で読む場合には、横書きの世界にそこだけ異質なものが挟まったようで、かえって縦書きは読みにくかったりする。なかなかむつかしいものだ。
ただ、このブログなどでも、ときどき縦書きの表示がしてみたくなったりするので、ふと思いついて、マックでも縦書きのできるフリーのエディターがあるのではないかと検索してみたら、あっさり見つかった。なんで、もっと早くに思いつかなかったんだろ。(笑)
iText Express というのがそれ。簡単に使えてなかなか便利である。(もちろん、縦書きというのは機能のひとつで、これを目的としたエディターというわけではない)
ダウンロードはこちら
縦書きで文書をつくってスリーンショットでコピペするとこんな風になる。
ちなみに、これは斎藤茂吉であります。

Mokiticapture


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2008/03/13

わたしの詞華集から

ほんとうに気が向いたときだけだが、そのときどきで、こころに響いた歌や句や詩を専用の小さなノートに書き写す自分のためだけの詞華集がある。
折に触れて読み返す。なんでこんなのを抜いたのかなあ、とふしぎに思う事もあるし、ちょうどそのときの重くしこった自分をふっともみほぐしてくれるような詩に再会する場合もある。
たとえば今夜はこんな歌。
窪田空穂の『鏡葉』から。

人の為に人は生れずその人を
よしとあしきとわが為にいふな

人をしも信ぜむとするこのこころ
持つに悲しく捨てむにさびし

よきところ一ある人は稀なるを
さな求めそといはしきわが父

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2008/02/11

穂村弘の短歌

20080211 穂村弘の『シンジケート』と『ドライ ドライ アイス』の新装版が図書館の書架に並んでいた。
とくに『シンジケート』はなかなかオシャレである。装釘は藤林省三。
穂村の歌は、ブーフーウーとか、降りますランプとか、ゆひらとさわぐとかは、するすると口をついて暗唱できるが、よく考えたらどれも現代短歌のアンソロジーなどから、ノートに抜き書きして憶えたもので、歌集として読んだことはこれまでなかった。だって、図書館などにも置いてなかったもんね。
この新装版は、どちらも2006年に沖積社から出たものだが、こうして歌集として再度、一般の読者の手にとれるかたちで流通するのはとてもうれしいことであります。

「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」

終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて

体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ

「キバ」「キバ」とふたり八重歯をむき出せば花降りかかる髪に背中に

新品の目覚めふたりで手に入れる ミー ターザン ユー ジェーン

ねむりながら笑うおまえの好物は天使のちんこみたいなマカロニ

ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり

「自転車のサドルを高く上げるのが夏をむかえる準備のすべて」

抜き取った指輪孔雀になげうって「お食べそいつがおまえの餌よ」

「海にでも沈めなさいよそんなもの魚がお家にすればいいのよ」

(『シンジケート』)

「奇麗なものにみえてくるのよメチャクチャに骨の突き出たビニール傘が」

「人類の恋愛史上かつてないほどダーティな反則じゃない?」

(『ドライ ドライ アイス』)

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2008/01/15

栗木京子『けむり水晶』

『けむり水晶—栗木京子歌集』 (角川書店)を読む。
昨年、迢空賞(第四十一回)、山本健吉文学賞(第七回)、芸術選奨文部科学大臣賞(第五十七回)のトリプルクラウンに輝いた歌集。
栗木さんの歌では第一歌集の『水惑星』の一首

 観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生

を愛唱しているが、同じ世代(栗木さんは1954年10月生まれ)の歌人として、もっとも親しみを感じる歌人のお一人である。短歌誌をぱらぱらと拾い読みするときにも、この方の頁では目をとめてゆっくりと拝見するのがつねだ。本書についても、共感が深い。

本書の中に「いのち還らず」という長歌がある。
長歌という形式は、窪田空穂の「捕虜の死」のように慟哭や憤りをあらわすときに、現代においてもわれわれ日本人につよく訴えかける力があるのは実にふしぎだ。この長歌がやはりこの歌集のハイライトではないかという気がするな。読みながら涙があふれてならぬ。

いのち還らず

平成十六年九月、栃木県小山市で幼い兄弟が無惨に殺される事件が起きた。

長月の 長雨かなし その行方 案じられゐし 四歳の 兄一斗ちやん 三歳の かはゆき弟 隼人ちやん つひに遺体で 見つかりぬ 下野の国 大利根の 流れにそそぐ 思川 その名もあはれ 思川 思うこころの なかなかに 届かざるまま 亡骸は 流れの底に 眠りゐき 弟の身は 中州より また兄の身は 下流より 二日遅れて 見つけられ この世の光に 戻れども 幼きいのちの 灯は点らず ぬばたまの闇 深き闇 永遠なる闇に もの言はず 呑まれゆきたり いたいけな いのち二つを 奪ひしは 子らと同じき 家に住む 父の友人 なりといふ 日々虐待を 兄弟に 加えし男に 連れ去られ 無惨に殺され たりしとは さぞや恐怖に すくみけむ さぞや助けを 求めけむ さぞや怯えて 震へけむ さぞや泣きつつ 叫びけむ 子らの父親 涙して 死にたる子らに 侘ぶれども 子らの祖母また 声詰まらせ 手放せしこと 悔やめども そのかなしみは しんしんと 伝わり来れど きりきりと 胸に迫れど 父親も 祖母も等しく 罪負ふと 思へてならず なにゆゑに 地獄のやうな アパートに 二人の子らを 戻せしか 虐待おそれ 父の背に 子らは貼りつき ゐしといふ 父を慕ひて 父の背に 添ふにはあらず おのが身を 守らむがために 父親を 求めし子らの 絶望を 大人はいかに 知り得るや 知るすべもなし 頭を垂れて ごめんなさいと ただただに われは謝る ばかりなり ごめんなさいと ただただに われは冥福 祈るのみ アキツ飛び交ふ 秋空に 子らのたましひ いつの日か きつと還り来よ すこやかに 朝光となり 夕風となり

反歌

おびえつつまたアパートへ帰る道 子らは見たるか露草や萩
かなしかるふたつのいのち月の夜は食卓の上でピクニックしよう

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2007/09/03

短歌研究新人賞、応募作を読む(下)

今回の短歌研究新人賞の選考委員は以下の6名。

 岡井隆
 佐佐木幸綱
 馬場あき子
 高野公彦
 石川不二子
 穂村弘

前回述べたように、約520編の応募作を、作者名などを消した上で、年齢、性別などの偏りを極力排して均等にわけて一次選考を行う。小説の新人賞などの場合は、選考委員が応募作全部を読むわけにはいかないので、下読みを専門にやる人がいるように聞いているが、短歌の場合は、選考委員が分担して全部目を通すということらしい。

計算すると一人の選考委員が87編くらいの作品を読むことになる。なんとなく信頼できる弟子なんかに下読みをさせているんじゃないかなあ、とわたしなどは勘ぐるが、これはあくまで推測。

「短歌研究」の説明によれば、選考委員は一次選考として、自分が分担した応募作の中から、4編を選び、1位から4位までの順位をつけて、第二次選考に上げることになっているそうである。

6人の委員が4人の候補者を出すということは24人が最終選考に進むことになるはずだが、今回は25人が候補となっている。説明をよく読むと一人の委員が5名を推薦したと書かれている。(これについては最後にわたしの考えを書く)

さて今回の応募作のうち最終選考にのこったこれらの25人の作品については、一人を除き、ここでは取り上げない。同時代の短歌のもっとも生き生きとした動きは、このレベルの作品群にあるのだろうなあ、と観察し納得もした、とだけ感想を書いておく。

ということで、わたしは最終選考には惜しくも進めなかった佳作のなかで、これはいいなと思ったものをここで取り上げようと思う。三人、おられる。3首ずつ抜いてみる。

井ノ上法子 平2生 高校生(所属なし)
一瞬が冴えゆく今朝の花冷えの四月は堕ちる夢をよく見る
叶わない夢を知ったよ微笑んで待っても咲かない薔薇の芽を捥ぐ
不器用なわたしのためかいつまでも咲かないあれは誰のひまわり

敷田千枝子 昭11生 主婦(泱・運河)
鎮めかねる心に摘めば山椒の香は指先をきしきしと刺す
散骨を望む方針に変はりなし今日の終はりに一行記す
春菜茹でる厨に平穏なる日々よ還りこよ無傷のこころ伴ひ

深森未青 昭36生 会社員(日月)
社殿なか蝋燭灯は点き消えぬわれはなににも待たれてをらず
放擲の儀式のための暗い部屋青磁の馬が夜ごと訪ひくる
さざめきて高い円柱を立てませうその先端に月を召ぶため

 (円柱:ポール)

上記の最終選考に残った25人のなかで一人だけは選考委員が選考規程(一人4編)をまげて候補に入れたということを上に書いた。少々思うこともあるので、最後にこれについて書いておきたい。この人がそれであるという証拠はなにもないのだが、たぶんこれだろうな、と思える作品がある。
誌面には10首掲載されているが、6首をここで紹介する。

「追憶―広島」
加瀬和男 昭8年生 奈良市 元会社役員(房)
焼き付きし着衣の柄を背に残す女蓮池に死にてゐたりき
溢れきし口いつぱいの黝き血を両掌のなかに吐きこぼしたり
全身の絶える間のなきけいれんに口も歪みて開かずなりぬ
我が走る足にケロイド無き夢の覚めて悔しき思ひ募り来
我が姉の死にしあたりか原爆のドームに近き場所に佇む
原爆の朝人多く死にてゐし蓮池あとに家建ち並ぶ

思うことと言うのは、たいしたことではないのだが、こういう短歌を前にすると、アンドロイドがどうしたこうしたとか、機兵士がなんたらかんたらとか、記憶チップがほおやれほう、というような短歌がどうでもよくなるなあ、ということ。
ただ、これを新人賞の応募作としてもってこられても選考委員は正直困るだろうなあ、と思う。

「空気読め」という言葉には、おおげさに言えばファシズムの響きがある。

しかし、まあ、そういう気分もときどきおこるのも事実で、わたしは、今回の応募作を何百首と通して読んで、正直、こころをゆさぶられたのは、この方の「追憶―広島」だけなのだが、しかし、あのですねえ、ここはそういうのを出されても、ちょっと困るんですよねえ、うーん、という気分もあるのですね。あくまで気分としてであって、その気分についても、いやそういう気分がもしかして問題なのかなあ、という微妙な思いもある。つまり、この方の作品を、あえて最終選考作品のなかに並べるというところが、すでにひとつの批評になっていると言ってもよい。

最終選考に残った人のなかで、この人にだけにはだれも票を投じていない。

わたしの考えでは、おそらく誰かが(岡井さんだとわたしは思うが根拠はない)「これはまあ、今回の新人賞の候補作に入れるのはまずいだろうが、わたしのわがままとして、どうか最終候補作の最後に掲載してほしい」とでも言って頭を下げられたのではないか、と想像する。

そして、そうであろうとなかろうと、この作品を誌上で読む機会が得られたことを、わたしは心からよいことであったと思うのであります。

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2007/09/02

短歌研究新人賞、応募作を読む(上)

今年の短歌研究新人賞は、吉岡太朗氏の「六千万個の風鈴」に決定した。
吉岡氏は昭和61年8月28日生まれ。応募締め切り時点で二十歳。もちろん若い人には違いないが、去年の受賞者、野口あや子さんは十八歳だったし、そもそも、この短歌研究新人賞の前身である短歌研究50首詠の初期の受賞者である寺山修司も当時十八歳だった。

現在、この賞は未発表30首というのが公募条件。今回の応募総数は591編、うち有効数が519編。内訳は男性42%、女性58%とのこと。

「短歌研究」9月号での選考結果発表と作品掲載は次のようなかたちになっている。

1)新人賞      吉岡太朗   30首掲載
2)次席       石橋佳の子  30首掲載
3)次席       浦河奈々   30首掲載
4)上位候補作    川口慈子   19首掲載
5)候補作      3名     12首掲載
6)最終選考通過作品 18名    10首掲載

以上25名が最終選考に残った候補者である。
なお「短歌研究」には、この最終選考まではいかなかった人たちの作品も次のようなかたちで掲載されている。

7)佳作     63名       5首掲載
8)予選通過作品 約350名     2首掲載

ということで今回「短歌研究」に名前が出た人たちは全部で約440人ということになる。
応募総数との関係でみれば、有効応募数約520のうち440人が予選通過というわけで、まあ規定に適った応募さえすれば、85%の人は、少なくとも短歌研究新人賞予選通過者という「肩書き」が得られるということになりますね。
いやこれは、「短歌研究」の雑誌社としての営業手法(懸賞当選などで雑誌に名前を載せると、その人や知人が1冊以上は買ってくれる、というのは昔からの雑誌商売のからくり)を批判しているのではまったくない。むしろ、このやり方をわたしは好意的に見ている。ただ応募者が、この事情をよく知らない人に「わたしもねえ、短歌研究新人賞、予選通過まではなんとか行ったんです」なんてしょうもないはったりをかますのはやめていただきたい。(笑)

さて、この短歌研究新人賞、最終選考にあがった人たちの作品をみれば明らかだが、一首、一首ずつ歌としての美しさ完成度を見るというよりも、まとめて三十首全体で、どんな心的世界を作者がつくりあげているかが競われているように見える。俳句においてもそういう傾向はとくに新人賞などには多少あるようにも思うが、この傾向は短歌のほうにおいてより強い。俳句では新興俳句のときの、「連作」というのはどうもうまくいかないという反省が、いまでも影響しているのかもしれない。違うかもしれない。

だから、たとえば本誌から、下位の作品の中にもいい歌がまだまだ隠れているのではないかという観点で、8)予選通過作品のところを丹念に見ていってもいいのだが、それはあまりよい鑑賞とはならないように思った。
あくまで30首を通して読んで、その作者の狙いがわかる。たまたま選者が抜いた2首だけで、その作者の資質まではとてもわからないと思うからだ
逆に、そうであればこれらの作品2首だけを読んでなんらかの感想を抱くことには、ほんとうは慎重でなければならない。
それを言った上で、しかしわたしの率直な感想を言えば、上記の8)予選通過作品の大半はまったく感心できない。
選者は6名で、応募者を隠して男女、年齢などを極力偏らないようにして均等に分けて、選をしていくらしいが、まあ、わたしだったら、とてもじゃないが出来ない仕事である。なんという徒労、なんという消耗。

ということで、まあ短歌の目利きが選んだ現代短歌とはどんなものかを知るには、おそらく上記の7)佳作から上の88名を見ていけばよいのではないかと思った。
(この項続く)

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2007/05/30

岡井隆の短歌読解法(2)

『わかりやすい現代短歌読解法』の続き。
歌はそのまま読み下して感覚的にとらえればそれでいいのだ、という風に言われると、そうか、そうか、読みなんてテキトーでいいんだなと、うっかり勘違いしそうだが、それだけではやはりつまらない。
「どこがどういいか口ではうまく言えないけどいい歌」とか、「なんとなく好き」なんていうのは、きっとその人にとって大切な謎が残っているということだ。だから、できればときどきその歌を口ずさみ、ああでもあろうか、こうでもあろうかと考えてみたほうがいい。ある日、なにかの拍子にすとんと胸に落ちる答えが見つかるかもしれない。
たとえば、本書で岡井隆はこんな歌を読者に提示する。

 馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人恋はば人殺むるこころ

塚本邦雄の『感幻楽』にある有名な歌である。現代短歌のファンであれば誰でも知っているといっていいほどよく知られたものですが、この歌をうっとりとしてしゃべっている人がいたら、ちょっと意地悪く、でも馬を洗うのと恋とどういう関係があるの?と聞いてみたくなる、と岡井さんは言うのですね。

これは困るね。相手が経験の浅い人であれば、ははは、詩というのはそう理詰めで考えるものではないよキミ、なんて言って逃げられますが(笑)、もし岡井隆にこう聞かれたら、これは冷や汗ものであります。

わたしは俳句も好きですので、この歌は、夏の季語の「馬洗う」や「馬冷やす」と絡めて解釈していました。
きびしい農事や輸送に使役していた馬を、夕方、川に連れて行って汚れた体を洗ってやる。しかし馬を洗うのだったら、ただ汚れを落としてやればいいだけではないだろう。つらい労働を共にし疲れ果てた自分の分身、兄弟のような馬である。ほてった体をゆっくりと冷やし、もし馬に魂というものがあるならば、それが透明な結晶かなにかのようになるまで、何度も水を馬の体にかけて人は馬と心を通わせるのではないか。馬を洗うのならそこまでする。恋をするなら・・・・

さて、以下は岡井隆の解釈。

この馬は武士の馬で、平家物語などに出てくるいわゆる「駿馬」でしょう。川のそばで馬を洗ったりするのは俳句の季題だと夏ですが、そんなことを考える必要はないと思います。馬は、漢字と一緒に日本に入ってきたといわれていますけれど、武士が自分の次に大事にしたという乗り物であります。しかも姿も美しい。そういうことを考えると、何か自分の中にある大事なものを徹底的に洗い上げて、あくる日の戦闘に備える。そういった気持ちと、恋をするならば、相手の命を奪ってもいいという激情をもちたいというのが、うまく合わせられているのではないかと思うのです。

古の強者、武士というものをイメージすることで「馬のたましひ冱ゆるまで」と「人殺むるこころ」がすっきりとつながるすぐれた解釈だと思います。これが正解か、どうかは別にどうでもいいことですが、「なんとなく好き」にとどまっていては詩を読む楽しみは深くならないのは間違いないでしょう。

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2007/05/29

岡井隆の短歌読解法(1)

岡井隆の『わかりやすい現代短歌読解法』(ながらみ書房)は、NHK学園短歌講座の機関誌「短歌春秋」に連載の現代短歌講座を五十二回分まとめたもの。
この「短歌春秋」は季刊なので、年に四回の発行。五十二回分ということは足掛け十三年に及ぶ。(1993年4月号から2006年4月号まで)ずいぶん息の長い連載でありますが、いまもまだ続いている様子です。「あとがき」に以下のようにあります。

生涯教育の講座の機関誌ですから、読者層は、中高年の人たちが多く、歌を始めたばかりの方々が対象であります。なるべく分かりやすく、現代短歌の作り方、読み解き方を話すかたちで書きはじめたのですが、目次をごらんになってわかるように、次第に書き方が変わってゆき、新刊の歌集をとり上げて、秀歌を解読するという、いわば時評または書評のような文章になって来ました。

歌集というのは、一般の読者にはなかなか目にとまらないし、偶然に目にとまったとしても、ちょっと、とっつきにくいものです。たまに短歌を読むのは好きですが、あえて未知の方の歌集を買って読むほどの熱意はない。毎月の短歌雑誌もところどころ拾い読みする程度の読者であるわたしにとって、岡井隆という大家がいろいろな歌人の紹介の労をとってくれるような内容の本書は、ちょうど手頃な現代短歌のガイドブックになっているような気がしました。
本書に取り上げられた歌集のうち何冊かは、わたし自身も目を通したことがあるものでしたが、大半ははじめてその歌人の存在を教えられるようなものでした。読んだことのある歌集にしても、ああ、そんな風に味わえばいいんだなと得心がいくことが多かった。
岡井隆の「短歌読解法」は、べつに権威的な嵩にかかった物の言い方ではない。二三、例をあげてみよう。

詩は、一般に、分析とか解釈を拒む性質があるので、細かく内容に立ち入って論ずるより、読んで一気に感じとるのが大切だとおもいます。

歌は、詩でありますから、ことさらに解釈にこだわる必要はありません。そのままに読み下して、一つの感覚として「感じのいい歌だ」とか、「はなやかな気分だ」とか、「すっきりと胸に落ちた」とか、思えばいいのであります。

そのこと自体は、美しくもないし醜くもないことを、歌の中に歌いとどめると、にわかに美しく見えてくるということがあります。歌の極意というものがあるとすれば、そういうなんでもない一瞬の景色や、一瞬の心の動きを、言葉によって一首の中に移し植えるという、その技法なのでしょう。

面白い本だったので、もう少し、この本にからめた話をつづけます。

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2007/02/14

『遺愛集』島秋人

2006_0214 先日教えていただいた、島秋人の『遺愛集』(東京美術)を読む。
大阪中央図書館の蔵書は昭和42年の初版本だが、糸綴じ本の頁がいまにもばらばらになりそうになるまで読み込まれた本だった。いかに多くの人が手にした本であるかが想像できる。
写真を見ていただくとかなり傷んだ本の様子がわかるだろう。題簽は窪田空穂、カバーの絵(桔梗の花)は吉田好道。
この吉田好道氏というのは、島秋人の中学時代の図工の教師である。
以下は『死刑囚島秋人—獄窓の歌人の生と死』海原卓(日本経済評論社)から。
死刑判決を受け、控訴して東京高裁での審理を受けるため東京拘置所に収監中だった島秋人は、昭和35年にこの先生のことを思い出して、先生の絵を頂戴できないかという手紙を書いた。それは開高健の芥川賞受賞作『裸の王様』を図書室から借りて読んだことがきっかけだった。この小説は子どもの絵画が重要なテーマになっているが、この小説で島秋人は自分の絵を褒めてくれた吉田先生のことを思い出すのである。近所の禅宗の寺、香積寺の六地蔵を描いたものを「絵は下手だが、構図がおもしろい」と言ってくれた、その言葉は、島秋人にとって学校生活で生まれてはじめて、たった一度だけ教師に褒められたというなつかしい思い出であった。

その手紙は、「昔、先生に教えていただいた生徒です」という書き出しで始まっていた。昭和三十五年(1960)秋の彼岸に届いた手紙だった。(中略)好道の妻絢子は、そのときの模様を次のように語る。
「主人は書斎で手紙を読んでいました。お茶を持って部屋に入りかけて、私は敷居際で立ちつくしてしまったのです。なにか躊躇する雰囲気が足を停めさせたのですね。すると、主人の背中がだんだん丸くなっていくのです。主人は泣いているように思いました。わたしは心配になって、『お父さん、何のお手紙ですか』と尋ねたのです。すると、黙って肩越しにその手紙を私に渡してくれたのです。ほんとうに驚きました。そこには、僕は今、人を殺め死刑囚となって東京拘置所にいます。とあったんですから‥‥」

吉田夫妻はただちに島秋人に返事を書き、それに所望された吉田の絵の他に吉田家の子どもたちの描いた絵と絢子の香積寺の六地蔵を詠んだ短歌を同封した。そして、この絢子の短歌が島秋人の心をとらえ、絢子に導かれてこの死刑囚は短歌の習作を始めたのである。
島秋人のペンネームを与えてくれたのも、のちに毎日歌壇の窪田空穂選に投稿するように助言をしたのも絢子であった。人の出会いや運命というのは不思議なはたらきかたをする。

ところで、いまにも分解しそうな本を慎重に扱いながら読むはめになったが、この『遺愛集』は40年近く版を重ね、2004年にも愛蔵版が出ていたことをあとで知った。また『死刑囚島秋人—獄窓の歌人の生と死』の著者の海原卓氏の舞台台本で、ポール牧が一人芝居を演じ、のちに演劇上の意見の相違から袂を分かつと、そのあとを、そのまんま東(いまや東国原英雄の名前の方が有名だが)があとを継いだらしい。そういう意味では、この島秋人という歌人は、(わたしは知らなかったけれど)いまでも多くの人のこころをとらえる力があるということなのだろう。
島秋人の虚像と実像をめぐるいくつかの疑問について海原卓氏の本は示唆に富むものだったが、あえてそのことにはここではふれないことにする。

最後に「遺愛集」から。

 肩冷えて深夜の床に覚めて聴く遠き汽笛の何か親しき
 洩るる陽を優しと思ひ掌に温むちいさき冬日愛ほしみたり
 やはらかく土に浸みつつ春の雨細く降り継ぎひと日昏れたり
 この澄めるこころ在るとは識らず来て刑死の明日に迫る夜温し(処刑前夜)

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2007/02/02

そののちのアララギ

「短歌研究」2月号の「アララギ系と非アララギ系―その『接近』と『反発』―」と題する特集を読む。
非アララギ系とアララギ系の歌人が交互に、一人につき見開き2頁でコメントを寄せている。

まず「非アララギ系の立場から」として以下の8名。
 高野公彦(コスモス・桟橋)
 外塚喬(朔日)
 鈴木隆夫(潮音)
 櫟原聰(ヤママユ)
 彦坂美喜子(井泉)
 島田修三(まひる野)
 寺田淳(かりん)
 矢部雅之(心の花)

一方、「アララギ系の立場から」は以下の9名。
 田井安曇(綱手)
 大河原淳行(短歌21世紀
 吉村睦人(新アララギ
 阿木津英(あまだむ・牙)
 大島史洋(未来)
 大辻隆弘(未来)
 川本千栄(塔)
 常磐井猷麿(アララギ派
 伊藤安治(青南

なぜ今月号でこういう特集が組まれているかというと、たぶん今年が「アララギ」創刊百周年だからなのですね。

伊藤左千夫が子規の根岸短歌会を母体にした「アララギ」を創刊したのが1907年。伊藤左千夫亡き後は島木赤彦が指導し、そのあとは斎藤茂吉、土屋文明と続く。
土屋文明がなくなるのは1990年ですが、この間にアララギから分かれた有力な結社は、近藤芳美の「未来」(現発行人は岡井隆)、高安国世の「塔」(現在の代表は永田和宏)、などがあります。もうすこし詳しく言えば、戦後の用紙難などを背景として、地域単位のアララギという組織もあったので話はすこしややこしいようですが、まあ、そこは部外者にはよく見えないところなので、省略。
さて1997年、突如アララギはその年の12月をもって終刊することを発表しました。短歌史のなかで、その時代を代表するような歌人を数多く輩出した歌壇の最大結社は、100年を待たず、90年でその歴史を閉じたことになります。すなわち、その1997年の実質的な解体がなかりせば、今年は創刊百周年という記念すべき年になるはずであったというわけであります。

と、まあ一応ここまでが調べればだれにでも手に入る基本的な情報なのですが、今回、この特集を読んでみて、どうもわたしには腑に落ちないことが多かった。

それは二点にしぼられる。

第一に、非アララギ系とアララギ系という結社の源流を根拠にして、現役の歌人を区分けして「接近」やら「反発」を語らせようというのは、あまり意味がないだろうと思えること。現に特集に寄稿した歌人の意見も多くはそういうものだったと思う。
第二に、しかし「接近」や「反発」が、もしあるとすれば、それはむしろアララギ系と称されるかつて同じ結社に所属した人々のその後の継承結社同士の間のことであるはずで、それならば短歌ファンとしても興味もあるし、また語るべき内容も多いはずなのに、今回の特集にはそこまで踏み込むつもりはないように見えること。

もっと具体的に言おう。

1997年のアララギの解散と分裂はなぜおこったのかが、この特集ではまったくふれられていない。まるで、なにもなかったかのように、結社の名前が羅列してあるのはなぜなんだろう。

そもそも、この「アララギ系」という呼称はいったい何ごとであるか。まるで頭の悪い連中が「なんたら系」と連呼しているような品の悪さで、およそ歌人たちが平気で用いるべき呼び方ではあるまい。
なんでこんな下品な呼称になっているかといえば、要は1997年にアララギが分裂したときに「アララギ派」という歌誌が誕生したのでこれとの混同を避けるという便法に過ぎない。

「現代短歌大事典」の記述によれば、1997年の廃刊後アララギは次の4つに分裂したとされる。
 「青南」代表:小市巳世司
 「短歌21世紀」代表:小暮政次/発行人:大河原惇行
 「新アララギ」代表:宮地伸一
 「アララギ派」代表:常磐井猷麿
この辞典では「青南」、「短歌21世紀」、「新アララギ」の3つのグループについてはそれぞれ短いながらも項目立てがあり、代表やその作歌姿勢などについて記述があるのだが「アララギ派」は独立した項目としては取り上げられていない。理由はよくわからない。(「アララギ派」の代表を常磐井猷麿としているのは「現代短歌大事典」には記述がないのでネットの検索の結果による)

ところがここで不思議なことは、この分裂騒ぎのことはWikipediaでは、

12月に終刊。これを不満とした同人たちの手により、『アララギ派』『新アララギ』『短歌21世紀』の三派に分かれ新創刊され、それぞれ後継結社を名乗った。

という記述になっており「青南」には一言もふれらていないのであります。Wikipediaは異論が出てくるまでは、言ってみれば書いたもん勝ちの百科事典ですから、これは想像するに「青南」を認めていない人物が意図的にやった記述と思われる。なんか悪意を感じるのは考え過ぎでしょうか。

ちなみに「青南」代表の小市巳世司(みよし)は、土屋文明亡き後の「アララギ」編集発行人であったらしいので、普通に考えればアララギの後継者なんでしょうが、どうやらこの方の代にごたごたが起こったのではないかと、傍目には思える。(実際はどうだったのか、もちろんわたしは知らない)

どうでしょう、このあたり人間臭いドラマが隠れているような気がしませんか?

いやアララギの流れをくむ人々の短歌作品そのものとは直接関係のない、結社の人事問題に好奇心を抱くのはわれながら浅ましいような気もするのですが、まあ性分なので仕方がない。(笑)

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2007/01/24

LONESOME隼人をめぐって

『LONESOME隼人』(幻冬舎 )を読む。

事件より拘置・裁判・判決を経て、服役生活の最初の十年の間、母は一度も僕に手紙を書いてくれなかった。あまりのショックと失望、落胆のために書くことができなかったのだ。

「(アメリカ)郷隼人」という表記を朝日歌壇に見かけると、身内でもないのに、なぜかほっとするという方は多いだろう。わたしもそういう一人で、とくにこの歌人の母がやはりこの紙面を見ているであろうことを想像して、ああよかったな、と思うことが多い。と、同時に20年以上を獄中に過ごして、まだ仮釈放も得られないのだなと同情もする。

 実名のあいつは死んであの日より
      虚名の「郷」が生きて歌を詠む  郷隼人

郷隼人は歌詠みのペンネームなのだろう。
明らかにされた略歴や、その短歌からわかるプロフィールはごく限定されたものだ。

  • 鹿児島県の出身者であること。
  • 博多の町でおそらく青春の一時期を過ごした人であろうこと。〈無気力な「ペタンコ座り」の若者が群れているとか愛しの博多〉という歌がある。
  • 1970年代に3年間、シアトルに住んでいたこと。
  • 1982年の母の日に生まれた娘がいること。
  • 1984年に殺人事件を起こし、終身刑の判決で現在も服役中であること。
  • 朝日歌壇に投稿するようになる前に、ロサンゼルスの短歌会のメンバーであったが、その時代には俳句を六年、川柳を三年ほど学んだこと。
  • イチローに驚くほど似ていること。囚人仲間や看守から「ichiro」と呼ばれるだけでなく、鹿児島の母もイチローを見ては渡米前のお前のことを思い出すと便りをくれた。

こうした、断片的なことのなかで、しかしわたしが一番知りたいと思うのは、やはり犯した殺人事件がどのようなものであったのかということだ。とくに誰を殺したのかということが気にかかる。
本書の解説に島田修二はこのように書いている。

アメリカにおいて無期懲役の服務者として投稿を続けて来る郷氏の作品についての評価に、四人の選者(朝日歌壇の選者のこと:獺亭注)に濃淡の差があることは当然のことであり、私自身は後述するような理由もあって、郷隼人の作品については、強い関心を持ちはじめていった。しかし、私自身が、郷隼人というペンネームで投稿して来る人の実人生について、とりわけどのような事件によって裁判を受け、現在に至っているか、ということに特別の興味を持っているわけではない。事実、知っても仕方がない、と思っているくらいである。

Vol95_gallery_f 公式な意見の表明としてはもっともなものだし、あんたらが知っても仕方がないだろう、と言われればその通りである。しかし、それでもあえて、わたしは知りたいと思う。もしかしてそれは、モーニング・ショーのレポーターが、恥知らずにも悲劇に見舞われた人々に「いまのお気持ちは」とマイクを突きつけて話を引き出そうとする卑しい姿と同じなのだろうか、と自問する。よくわからない。そうかもしれない。

郷が最初に収容されたのはレベル4と呼ばれる最厳重警備の監獄で、凶悪犯罪を犯し有罪となった者が最初に服役する施設である。その後、服務態度が良好であれば次第に警備段階の低いレベルの刑務所に移送されていく。いま、郷が服役しているのはレベルがどの段階かは具体的に書いてないが、「最初の施設に比べれば幼稚園のようなものだ」とあるので、おそらくはレベル1か2といった比較的自由が許される刑務所であると思われる。
服役態度はおそらく良好なのだろう。(毎日のように食堂で刺殺事件が起こり、そのつどM1ライフルの威嚇射撃が鳴り響いたという最厳重警備の刑務所は3年で終え、いまはレベルの低い刑務所にいるというのが事実であれば、そうなのだと思う)
〈事務的に「仮釈放拒否」のスタンプをガシリと捺さる審問会にて〉
映画、「ショーシャンクの空に」でモーガン・フリーマンが、この審問会に何度も出て、その都度「拒否」のスタンプを押されるシーンを思い出す。
だが、刑務所の過密問題はカリフォルニア州でも大きな問題ではなかったか。短歌のイメージで、凶悪な犯罪者とはおよそかけはれたように思える郷が、それでもなかなか仮釈放の認可が得られないというのは、やはり同じ殺人罪でも故殺(manslaughter)のようなものでなく謀殺(murder)であったことを示しているような気がする。
娘がいるが、収監されてから一度も会っていないと本人が書いていること、会いたくてならないが、このまま会わずにいることが彼女のためだと思うと書いていること、などから、なんとなくこのあたりの事情は察することができるような気もするのだが—。

卑しい好奇心だけなのか、自分でもやはりよくわからないのだが、それでもいつかこの人が、誰をなぜ殺めてしまったのか語ってくれる日がくれば、それをじっくり読んでみたいと思う。

 一瞬に人を殺めし罪の手と
      うた詠むペンを持つ手は同じ  郷隼人

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2007/01/05

時局の短歌二首

時局にからめて印象に残った短歌二首。いずれも永田和宏。(「短歌」1月号)

 助命など請うこと莫れフセインの
 捕われしのちの顔のよろしさ

 もうやめたと言うときはすなわち死の刻にして
 チャウシェスクの場合金正日の場合

BBCのバクダッド特派員の新年の記事によれば、イラク人の同僚が出社して「今朝は通りに頭が六つ転がっていたよ」などと言って仕事に取りかかるのだとか。そのこと自体はもはやニュースにもならないのですね。内戦というものの凄まじさを、イラク情勢からわたしたちはよく見ておいたほうがいいようです。フセイン処刑の映像をみながら感じたのはやはり人間どうせ殺されるなら命乞いなどせず最後の根性を見せるに限るということ。かれはスンニ派の殉教者として美化されることになるでしょう。ブッシュの負けです。

国内ニュースでは、朝鮮半島有事で北朝鮮難民は10万から15万人、政府予測とある。
麻生外相が例によって口の端をゆがめて「これ武装難民もいるんですからね」と話していたが、この人の特徴で、本人はシニカルな表情のつもりなんだと思うが、ただひたすら品性があんまり芳しくないことを天下に知らしめているとしか思えない。政治家は見た目が10割、まことに気の毒な方である。
この問題、中国が北朝鮮を「処置」する責任があるだろうが、北京五輪が迫っているから決断が難しいだろうなあ。
日本も今年は多難な年になりそうであります。

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2006/11/05

ワーズワースの庭で

最近、拾い読みをした雑誌類の中で、なぜか心に残って、おりにふれて反芻している話。
岩波「図書」11月号に掲載された河野裕子さんの「羊の時間—イギリス湖水地方短歌の旅」。河野さんが、今年の6月に、総勢24名でNHK学園の短歌の旅をなさったときの軽いエッセイである。

バスのなかで昨日ワーズワースの家の庭で大門さんと長いあいだ話したことを考えていた。ご主人は経済学者、大門一樹氏。「一〇年前に夫が死んだときなんだけど。死ぬまえに昏睡からさめて、紙にやっと字を書いた。もう目が見えていなかったのね。字のうえに字が重なって。そしてまた昏睡して一日して死んだの。死んでから、毎日まいにち紙の字を一週間見つめていてやっと読めたわ。アリガトウ、モウ、ワガママハ、イワナイって書いてあってね。それを、わたし額に入れてあるの。三ヶ月ほど夫が死んだのが信じられなくて、三、四年たって、人は死ぬんだってやっと腑におちた。骨は海に散骨したの。」

旅の最終日はロンドンの宿で歌会だった。
河野さんがとった大門さんの歌。 

丘の上に一頭の馬立つをみぬ青草の野と空のはざまに  大門恵美子

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2006/10/10

苺どろぼう、夏蜜柑どろぼう

角川「短歌」10月号の特集「永田和宏を探検する」に馬場あき子さんが「素顔でつきあえる人」という一文を寄稿しておられる。
むかし馬場さんが多摩丘陵の端っこに引っ越したとき、若き永田和宏、河野裕子夫婦や大和書房の佐野和恵、講談社の鷲尾賢也、下村道子、教え子の田村広志などが手伝いにきてくれた。とりあえず半片付けのリビングに車座になって楽しく酒を飲んだ。

家は多摩丘陵の末端の丘にたった二軒建っていたわけで、あたりはほぼ草の原。五月の闇はとても濃く、一同がやがやと帰って行った後姿はたちまち見えなくなってしまった。あとでわかったことだが、山を下ると苺畑がある。微醺を帯びた連中はそこにもぐりこんで苺を食べたという噂である。その中にあの長身の永田さんがいたかと思うとじつに愉快だ。どうせみんな面白がって一つか二つつまんだくらいだろうが、若いというのはいいもので、今からは想像できないその姿を想像するのは何とも楽しい。

同じような話は、俳句の方にもあって、こっちの意外なドロボーの一人はこともあろうに橋本多佳子である。西東三鬼が昭和34年5月号の「天狼」に書いた「どろぼう」というエッセイから。ことはやはり五月のことである。横山白虹、岡部麦山子両名に招かれて三鬼と多佳子は九州に赴き、小倉、博多、田川で講演や句会に出た。その慰労会と称して、こんどは海峡を渡って山口県の川棚温泉で歓待を受けた。宴もたけなわ、話は麦山子のえんどう豆どろぼう、鶏どろぼうの武勇伝になって一同、げらげら笑い転げているうちに、麦山子が緊急動議を出した。きみらに少し真の反俗精神を教えてやらにゃならん、この近くの禅寺に手頃な夏蜜柑があった。あれをこれから採集に出かけよう。

先ずその時のいでたちは、男はゆかたの尻つぱしより、頬かむり。女(すなわち橋本さん)は、手拭で伊達な吹き流し。まんまと寺苑に忍び入り、ましらのごとく木に登る。手あたり次第に捻り取るは、夜目にも黄金の夏蜜柑。垣の外ではをんな賊、ドンゴロス袋に詰め込んで、ソレ引揚げろと親分の下知を合図に逃げ出した。甚だ薄気味悪かった。
その翌朝、麦さん平然として、昨夜の夏蜜柑をお住持に土産に持つてゆくという。これにはびつくりしたが、実は戦時中、麦さんはその寺に疎開していて、坊さんとは親交がある由。それを伏せての昨夜のいたづらであつた。

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2006/09/02

或る最終楽章(3)

今回、近藤とし子さんのことを知りたいと思って、図書館で「短歌研究」のバックナンバーに目を通していくうちに、あることに気づきました。
いや、別にたいしたことではないのですが、「短歌研究」という雑誌は毎年3月号で、「現代代表女流歌人作品集」という特集を定番にしているようなんですね。毎年、お一人につき七首の歌が並んでいます。なんでこの月に女流の特集かと言えば、たぶん雛祭りにちなんでいるのだと思う。

この「現代代表女流歌人作品集」という特集を調べると、2002年、2003年、2004年に近藤とし子さんの詠草があります。(それ以前は調べていません。※補注コメント参照)各年号から、ご夫妻の日常が伺えそうな作品を少し抜いて見ます。

 2002年「小公園」より
 ナンキンハゼ紅色の葉の散り敷ける小公園は君と来る道
 日溜りの椅子に暫しを来て憩うを小さき喜びとする一つ生
 老いの日を微かの希い秘めて来し五十年住み古りし家を離れて
 南より射す日は二人の部屋に満ちひと日そのまま仕合せのごと
 ソウルに逢いて六十五年共に行きし滝つ瀬の音幻に聞く

 2003年「白鷲」より
 病みあとの君を置き来し朝川に白鷲一羽立ちいるしじま
 岩に立つ白鷲の影静かなる小波に揺れている長き時

 2004年「冬の鴨たち」より
 小さく鳴き合い流れを遡りゆく鴨ら夕昏るる光にわが帰るべし
 昏れぐれとなりてゆく道足痛しと君の待ちますマンション灯る
 昏るる光に群れつつ流れを登りゆきし今宵鴨たち何処に眠る

じつは2002年3月号の「短歌研究」には、散文も書かれています。
淡々として味わい深い文章ですが、部分的な引用をすると、かえってお気持ちを損なうような気がいたしますのと、さほど長いものでもないので、全文を転記いたします。いまの世の中は、激しく変わっていくものだけが生き残れるという阿呆丸出しの処世術が溢れていますので、わたしなどはこうした文章を読むとほんとうに心からほっとして、もう少し生きてみるのも悪くないかなと勇気づけられるのです。
また、今回は近藤芳美の追悼からはじまったお話でしたので、これを締めくくるにも、ふさわしい一文だと思います。

変らない私

旧制第八高等学校の正門の前を通り、滝子から吹上に向かって一本の郡道が続いていました。その道に沿う日本家屋に、私達姉妹八人は十五年近く住みました。父が八校に勤めていた為でした。鐘が鳴ってから走って行っても間に合う程近い御器所尋常高等小学校に通い、姉達三人から四番目の私は、すべて姉達に倣うようにして、それを不思議に思わなかったのかも知れません。
卒業と同時に、父が先に移り住んでいました京城(今のソウル)に行き、その京城での五年の間にアララギを知りました。父と同じ京城帝国大学予科のドイツ語教授がアララギ会員で、御紹介いただいた為でした。
京城アララギ会で、土屋文明先生を金剛山にお招きし、安居会のあと外金剛から内金剛への嶮しい山越えを先生と御一緒にしました。この会で初めて夫とも逢いました。父が旧制新潟高等学校長になりました為、私共は結婚式を早めて、京城に残りました。慌しいことに今度は夫の勤めが京城支店から東京本社となり、私共は上京しました。そして私は肋膜炎になり新潟の両親の許に行き、その直後夫に召集令状が来て出征しました。中支で負傷し、紙一重で命拾いをし還ることが出来ました。病後の身を労わりながら住んだ東伏見に空襲が激しくなり、定年後の両親の住む浦和に疎開し、終戦を迎えました。
浦和から東京の千歳船橋に移って七年、その間に「未来」の創刊などがありました。昭和二十八年、山小屋のような家を建てて豊島園に住み、五十年が過ぎました。そして再び世田谷の成城に老後を住み始めました。
今こうして、少女からの日々を振り返る時、ありのままに生きて来たに過ぎない、何一つ変わらない自分に気付きます。そして、何も変わろうとしなかった自分であったように思われます。
きっとそれは、その儘に続くひと生かもしれません。

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2006/08/31

或る最終楽章(2)

今回興味をもって調べてみてはじめて知ったことですが、近藤とし子さんも歌人なんですね。

平成18年版の「短歌年鑑」を繰ってみると、近藤芳美と近藤とし子は、二人並んで人名録に掲載されています。本来、この名簿は氏名の五十音順だと思うのですが、このお二人は隣りあわせで、しかも近藤芳美の方を前にして掲載されています。単純な五十音ならばこういう並び方にはならないはずですが、たぶん編集上の慣行なのでしょう。
もちろんこの方が自然で好ましい。

ところで「短歌年鑑」には、角川の「短歌」と短歌研究社の「短歌研究」の二種類があります。どちらもこのお二人については同じ並べ方で、当然ながら、生年月日、住所なども同じ内容です。ただし、不思議なことにお二人の出生地が両誌で異なる。

 近藤芳美  T2.5.5   (角川:広島生  短歌研究社:朝鮮生)
 近藤とし子 T7.3.26 (角川:東京生  短歌研究社:台湾生)

前回取り上げた岡井隆さんたちの座談会のなかでも、近藤芳美が、こせこせ、ちまちましたことが大嫌いな性格で、とにかく大陸的なスケールの大きなものが好きだった理由は、近藤が朝鮮生まれだったから、なんて話題があるので、たぶん短歌研究社の方が正確なのかなという気がします。朝鮮や台湾という旧植民地生まれという記述は、角川はあえて避けたいということなのかもしれませんね。

いけない、いけない。こうしてのんびり書いてたら、いっこうに本題に入れないや。(笑)

ええと、先の座談会のなかで、いちばん印象に残ったのは、近藤芳美が亡くなる数ヶ月前のご様子のことでした。

三月のころのことだそうです。
ご夫妻は成城のケアハウスにいらしたらしいのですが、近藤芳美はこんな歌を詠んでいます。

 マタイ受難曲そのゆたけさに豊穣に深夜はありぬ純粋のとき
  「未来」6月号

座談会の中で佐佐木幸綱が(近藤さんは)「洗礼を受けられたそうですね」と言うと「そうです」と岡井隆が答えている。
マタイ受難曲を聴きながら最期の日々を送っておられた。
そして、座談会のなかでとし子夫人の「老耄」という少しショッキングな言葉が出てきます。妻の老耄を「無心」と表現して歌を詠んでおられたと言うのであります。
こういう歌です。

 くり返す放心を無心の思いとし君におさなきときはめぐりつ

 君にしばし留まる心を無心とし空にかすみて残る夕映え

戦中に詠んだ『早春歌』の「たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思いき」で君と呼びかけられたその人のことを思うと、なんと遠いところまで、このご夫婦は歩んで来られたことか。93歳の歌人は最後まで、歌の中では88歳の彼女を君と呼びかけていたのですね。

なんだか胸がじんとなりました。

もう少し、書きたいことがあるので、さらに次回に続きます。

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2006/08/30

或る最終楽章(1)

「短歌研究」9月号で近藤芳美の追悼座談会を読む。岡井隆、馬場あき子、佐佐木幸綱、篠弘(司会)という構成。
一緒にはじめた「未来」から高安国世が抜けて「塔」をつくったいきさつだとか、近藤が宮中の召人になったのを杉浦明平がかんかんになって怒って「未来」から出て行った話だとか、なかなか面白い話がある。近藤と高安については、以前読んだ 上田三四二の『戦後短歌史』で知っていたが、岡井によれば、「未来」はこの二人と杉浦明平の「三頭立て」で出発したのだという。この当時、杉浦は共産党員だったから、宮中に呼ばれてそれに応じる近藤に裏切られたような感じをもったのだろうな。

それはそれとして、今日書こうと思ったのは、そういう現代短歌史にかかることではない。

 たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき

わたしが諳誦できる近藤芳美の歌は、『早春歌』のこの一首だけだが、これはたぶん短歌にそれほど興味のない人でも、どこかで読んだり聞いたりしたことがあるのではないかなあ。戦後の短歌を代表するもののひとつと言っても過言ではないでしょう。
そして、これはわたし自身が誤解をしていたことなので、あるいは多くの人が同じ間違いをされているのではないかとも思う。
それは、近藤芳美はこの歌をいつ頃詠んだのかということである。

わたしは、てっきりこれは戦後のリリカルな恋愛歌だとばかり思っていたのですね。
ところがそうではないようです。
この歌がつくられたのは戦時のことだった。
近藤は大東亜戦争大詔渙発の日、すなわち昭和十六年十二月八日に二度目の応召をします。この歌はその頃につくられたものであるらしい。
このときに近藤は、同じく『早春歌』にあるこんな歌を詠んだ。

 吾は吾一人の行きつきし解釈にこの戦ひの中に死ぬべし

この戦さがどういうものであれ、その中に自分の身を捧げることは当然であるという「解釈」をしたと同じころ、「或る楽章」の歌もつくられたとすれば、その「解釈」がなんであったかは、誰にも自明ではないでしょうか。

近藤芳美が「君の姿を霧とざし」と詠んだ「君」は、妻の近藤とし子です。
こんな歌もあります。

 あらはなるうなじに流れ雪ふればささやき告ぐる妹の如しと 
  『早春歌』
 すでにして寝ねたる妻よいだくとき少年に似てあはれなるかな
  『静かなる意志』 

この話、もう少し続けることにします。

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2006/08/10

島は悲しき

「文藝春秋」8月号、「慰霊の旅と失語症回復の真実—美智子皇后と硫黄島奇跡の祈り」は、なんだか女性週刊誌の吊り広告にあるような題名で、はじめはあんまり読む気になれなかったのだが、藤田嗣二の「サイパン島同胞臣節を完うす」の話題から入る導入で、引きこまれて読んでみるとなかなかいい記事だった。
執筆は梯久美子さん。(梯は「かけはし」と読む)
最近本屋で見かける『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』の作者 である。この本の取材のサブストーリーのような記事だが、所々で思わずまぶたが熱くなった。

 皇后御歌
 いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏思へばかなし

この皇后陛下の御歌と藤田嗣治の「サイパン島同胞臣節を完うす」の前で号泣する老人は深いところでつながっている。

両陛下がサイパン島をはじめとする戦没者慰霊の旅に出られたのは昨年のことだった。

硫黄島総指揮官、栗林忠道中将の辞世は最後の総攻撃を前にしてしたためた決別電報に添えられていた。

 国の為重きつとめを果たし得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき

しかし大本営はこの歌の末尾の「悲しき」を「口惜し」と変えて新聞発表した。
「悲しき」と嘆じることは、当時の軍人にとってタブーであったという。
わたしはこの記事を読むまで知らなかったが、この大本営の姑息な改竄は戦史にも必ずといってよいほど記されていることなのだそうだ。
両陛下は当然このエピソードをよくご存知であった。
この旅で、両陛下が硫黄島を読まれた歌は次のようなものだった。

 御製
 精魂を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき

 皇后御歌
 銀ネムの木木茂りゐるこの島に五十年眠るみ魂かなしき

ふたつの御歌ともに「悲しき」で終わっていることは、偶然ではないのではないか、と梯さんは控えめに書いている。
たぶんそうだろう。
大本営の参謀たちが握りつぶした「悲しき」をあえて蘇らせて祈りに代えた、これは戦没者達への返歌なのだろう。

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2006/06/28

作歌の上達に薦めたい古典

「短歌研究」7月号の特集をぱらぱらと読む。
第一線の歌人52人に対して「作歌の上達に薦めたい古典」を5冊選んでくださいというもの。
回答をいくつか。

  • 岡井隆   古事記・梁塵秘抄・閑吟集・松尾芭蕉集・与謝蕪村集
  • 河野裕子  徒然草・和泉式部日記・記紀歌謡・奥の細道・三冊子
  • 小島ゆかり 古事記・源氏物語・今昔物語集・伊勢物語・奥の細道
  • 永田和宏  古事記・源氏物語・奥の細道・三冊子・平家物語
  • 水原紫苑  源氏物語・風姿花伝・楊貴妃・桜姫東文章・心中天網島

回答としては水原紫苑のものが面白い。
ちなみに、「楊貴妃」は能(金春禅竹)、「桜姫東文章」は歌舞伎(鶴屋南北)であります。(ふたつともわたしは知らなかった)
ご本人いわく、鶴屋南北は学生時代に演劇博物館の図書館に通いつめて全集を読んだのだとか。「桜姫東文章」は——

大筋を貫いているのは、昔も今もない、ひとりの「女の子」の物語だ。「女の子」がお姫様であり、荒くれ男の情婦であり、高僧を破戒させる女であり、最下級の娼婦であり、夫とわが子を殺す女であり、やがてまた何事もなくお姫様に戻る。

うん、なかなか面白そうじゃないか。「作歌の上達に薦めたい古典」という設問にはなんとなく反則に近いような気もするが。(笑)

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2006/01/12

トロンハイムの運河を行けば

今年の歌会始のご様子が夕刊に出ていた。
今年の御題は「笑み」だとか。

御製  トロンハイムの運河を行けば家々の窓より人ら笑みて手を振る

歌会始の御製でこのように外国の地名が詠まれるというのは、めずらしいことのような気がして、ざっと調べてみた。管見の及ぶところでは、昭和天皇の歌会始の御製に二首ある。

     昭和三十六年一月十二日(御題 若)
御製  旧き都ローマにきそふ若人を那須のゆふべにはるかに思ふ

     昭和四十七年一月十四日(御題 山)
御製  ヨーロッパの空はろばろととびにけりアルプスの峰は雲の上に見て

もちろんローマはオリンピック大会(昭和三十五年)だから、ローマそのものを詠まれたとは言えない。
今上にも海外旅行を詠まれた歌会始がある。しかし、外国の地名は使われていない。

     平成五年一月十四日(御題 空)
御製  外国の旅より帰る日の本の空赤くして富士の峯立つ

五月に訪問なさったトロンハイム( Trondheim)というノルウェイの町の思い出がよほど素敵なものであったのだろうと、ほのぼのするな。6784411_5ae4736894_b

さっそくFlickrでトロンハイムの写真を公開(Creative Commons. Some rights reserved.)している人を捜してみた。こんな、運河の町のようです。クリックして大きな写真でぜひご覧ください。

photo by AdamLogan.thank you for sharing.

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2006/01/11

詩人商売は要領が一番

短歌新聞社の「短歌現代」1月号の歌壇時評を読む。
島田修三さんの「模倣の素地」という文章だ。昨年の「文学界」11月号に掲載された片岡直子さんの「インスピレーションの範囲——小池昌代さんの『創作』をめぐって」という評論を軸にした内容である。
この「文学界」の評論(というか正確には告発だな、これは)については、内田樹さんのブログ(2005年11月4日「オリジナリティについての孔子の教え」【ここ】)で取り上げられたときに、はじめて知ったのだが、実は小池昌代さんの書かれたものを全然読んだことがなかったので、さほど興味を覚えなかった。
まあ、それと内田さんの立場は、あんまりオリジナリティにこだわりなさんな、というものだからあまり切実な感じを受けなかった、ということもある。

しかし今回、島田修三さんの論評を読んで、やや気になったので、昨年の「文学界」の件の評論を読んでみた。

結論的にいえば、小池昌代さんというのはそうか「塀」の上を歩く人なんだなあ、ということだ。中途半端に良心的な作家は明白な剽窃をして(先行作品への敬意があえて丸写しをさせるのではないかという気もする)世間の指弾を受ける。
しかし、この人は「塀」の内側には落ちないように巧みに先行作品をいただいちゃうやり方であるようだ。
片岡直子さんたちのいらだちもおそらくはそこにあるのだろう。
先行作品があることがバレなきゃ、それが一番。
万一バレてしまっても、「はい、たしかにあの方の作品にインスパイアされて、そこからわたしの世界をつくったんですが、それが何か?」と堂々と言ってのける「度胸」が(たぶん)ある。

島田修三さんはこのように書いておられる。

いまスポットライトを浴びている詩人小池昌代は商業的メジャーの表現者としてであり、現代詩壇という商業的過疎地に閉じこもる多くの詩人たちはマイナーだということになる。陽のあたることの少ない(つまり、商業的なメディアが対象とする読者の目に触れる機会の少ない)場所をみずからの表現の資源として、陽のあたる場所にみずからのオリジナルであるごとく意図的な焼き直しをしているのだとしたら、小池昌代は表現者としての最低限の節操や倫理を踏みにじっていることになるだろう。

つまり、問題をややこしくしているのは、文芸作品のオリジナリティという側面と、商業的なメジャーとマイナーというリアルな側面が縒り合わさったかたちになっているからだろう。もっと、あからさまに言えば、片岡さんの義憤の底にはやはり嫉妬があるだろうなということだ。それを否定してしまってはキレイゴトすぎる。しかし、それを割り引いた上で考えても、商業主義から距離を置いた世界からちゃっかり表現のネタを収集して、自分の作品として発表する小池さん流のやりくちは、へえあなたやり手ですねと、メディア業界では感心されるのかも知れないが、もちろんかなりみっともない。
小池昌代さんという方を検索すると、朝日新聞(asahi.com)の書評も担当されているようだな。書評の方は大丈夫なんじゃろか。しかしあの朝日伝聞社だからなあ。まあ、どっちもどっちか。

もちろん先行作品にインスパイアされてできる作品はある。
たとえば、島田修三さんが、「短歌現代」でとりあげておられるのは葛原妙子と斎藤史だ。

 他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水
             葛原妙子「朱霊」(1970)

 死の側より照明せばことにかがやきてひたくれなゐの生ならずやも
             斉藤史「ひたくれなゐ」(1976)

しかし、残念ながら小池昌代さんの詩作品などは、「文学界」の検証を見る限りでは、この域にはとうてい達していない。ちゃっかりいただいて、口をぬぐっていると非難されても、これでは仕方ないかも知れない。
たしかに法的な手段に出られても、小池さんは逃げ切れるだろうが、まあ、せめて詩人は名を惜しむ人であって欲しいと思うのは気楽な読者の勝手な願望だろうか。

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