f)国際・政治・経済

2011/09/14

TPPについて語る時にやつらの語ること(下)

大前研一のあげているコシヒカリ1キロが日本は500円、オーストラリアは25円というのは、ほんとうはもうすこし丁寧に説明する必要があるのだが、大筋で間違ってはいない。

日本のコメの価格は農家が売る価格(農家庭先価格/price at farmyard)で、だいたい60キロ1万4000円ほど。だからキロにすれば230円くらいです。
魚沼産コシヒカリなどのブランド米は(そんなに味に差があるかどうかはさておき)店頭でキロ800円くらいで売ってるところもあるから、まあ大前研一のキロ500円というのも嘘ではない。
一方コメ1キロつくるのにいくらかかるかというと、農水省の「農業経営統計調査 平成20年産 米生産費」によれば、275円となっている。(正確には「60キログラム当たり全算入生産費は1万6497円」という表現)
コメ価格というのはだいたいどの国でも生産費と国内価格は同じくらいになるんですね。
でタイやオーストラリアやアメリカでは、生産費はキロ当たり25円くらいですから、関税がなくなって現地の価格そのままで輸入できるとすると、為替レートにもよるが1キロ20円以下で日本に入ってきてもおかしくない。

でもねえ、御存知ですか。いまでさえご飯はお茶碗一杯30円から40円くらいですよ。これが1円とか2円になることがそんなにいいことなんですかね。
やだ、ドックフードのほうが100倍以上するのね、ご飯なんて水みたいなもんだわねということになりますわな。やれやれ。

TPPに入らなければ、企業は世界市場を失い、金融も投資機会を失い、日本は衰退するんだよ。だから農業の人には気の毒だけど廃業してほかの仕事してもらって、日本の強みである農業以外の産業で食っていこう、それしかないじゃん、ということにどうやらなりそうです。

ふーん、とわたしは思う。ほんとうにそうなのかなあ。

わたしの意見だが、たしかに日本の企業やビジネスマンはかなりいいプレーヤーではあるけれど、政界、官界、経済界のお偉いさんたちが夜郎自大に思っているほど強いわけでもない。
エリートのみなさんは、このままでは企業が日本を見捨てて外国に出て行っちゃうぞ、と国民を脅しているが、外国に拠点を移せばまだまだ勝てると思っているところがそもそも間違っています。出て行きたきゃ行けばいいけど、出て行った国で、ぼろぼろに食い物にされ、せっかく国内で貯めた資本をあっという間に使い果たしてしまうね。(ほんの例外のように海外で成功する企業もあるかもしれないが、そういう企業は日本の雇用や税収にはまったく貢献しないかたちをとっているはず)
したがって国民がTPPに反対したら、逃げ出した企業は生き残るけど、残された日本は空洞化するというふうにはたぶんならないとわたしはにらんでいます。やっぱり、日本で食わせてくださいねと媚を売ってすり寄って来るでしょう。

TPPに入ったら、当面は企業は関税のないアメリカを中心とした経済ブロックでそれなりの果実を手に入れるでしょうから、それはそれで悪い話ではない。ただし、問題はそれがおそろしく不安定なバランスの上での果実であるということで、気象変動、国際政治などのほんのわずかな狂いで、食糧危機が日本を襲うことになるでしょうね。
集約化、大規模化して強い農業をつくると、かれらは言いますが、おそらくTPPに入った数年の間に、あらんかぎりの資本を投下して集約化し大規模化した農業法人からどんどん行き詰まるとわたしはにらんでいます。結局残るのは、自分の家族親戚などのためだけに耕作するという、経済合理性から外れた零細農家だけでしょう。実質的に日本から産業としての農業は一時的に消滅します。

ええやん、ご飯一杯1円のコメが入らなくなれば、200円出してでも外国から買えや、とおっしゃる?わたしはもし気象変動や戦争などで食糧が不足したら、いくらカネ出しても無理と思いますよ。どの国だってそもそも余ったコメがなきゃ国際市場には出さない。自国民優先である。あたりまえ。たとえカネづくで買い集めることができたとしても、それは産地に飢餓をもたらすことになりますから、恨みを買いテロを呼ぶのじゃないかと、わたしなどは思いますがね。
土地はあるんやから、また田んぼに戻して百姓にコメつくらせえや、とおっしゃる?まあ数年かかるので、その間、みなさん小さなお子さんにも食べるの我慢させはるんでっか、とわたしなどは思いますがね。

いずれにしても、クルマや、デジカメはなんぼ市場にあふれていても、それは食えませんよ。60年間、日本人が仕合せなことに忘れていた飢餓が甦り、コメよこせのデモが頻発しても、そのとき日本の農業は死んでいます。
自業自得とむかしの人は言ったものであります。

たしか憲法の前文にこんな言葉がありますな。
日本国民は「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」
そうですか、あれはそういう意味もあったのか。
自分らは農業を捨てますが、いざ食い物がなくなって飢え死にしそうなときはみなさんお恵みをよろしくお願いします、という国になるわけだ。さぞかし物乞い国家とさげすまれることでありましょう。
ほんとうにバカばっか。



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2011/09/13

TPPについて語る時にやつらの語ること(中)

TPPの推進派は、おれたちは農業を見捨てるんじゃない、強くしてやりたいんだと言い、反対派は農民エゴでごねてるんじゃないんだ、農業以外も心配なんだと言う、というのが前回のオハナシ。

しかし、わたしのみるところ、この問題についての推進派の、農業だって大規模化すれば関税撤廃してもやっていける(はずだ)というのは、ほんとにそう思っているならバカだし、わかって言っているなら汚いウソであります。これについては、同じ推進派であっても大前研一氏の言うことのほうがよほど正直である。(「TPP農業問題」を解決するただ一つの道/プレジデント 2011年1.31号)
こちらも端折って要点を転記する。

そもそも日本の国土が農業に向いていないという問題もある。日本は国土の90%が山地であると中学時代に習ったはずだ。私はかねてから「農業は世界の最適地でやるべき」と主張してきた。

ある農業最適地に日本の農家の人を連れて行ったことがある。見渡す限りの広大な土地に、考えられないほどの少人数で大々的に機械化された農業を営んでいる姿を見て、彼らは感動のあまり涙を流していた。

そうした大規模農業と比べたら日本の農業など家庭菜園のようなもの。生産性は比較にならない。たとえば日本で「1キロ500円」でつくっているコシヒカリが、オーストラリアでは「1キロ25円」ほどで生産できるのだ。

TPPに参加すればこうした国々とハンディなしの“対等な土俵”に立たされるわけで、高齢化問題を云々する以前に勝負ありとなる。要するにTPPをやるということは、日本は「農業最適地から輸入する国になる」ということなのだ。

TPPに入って日本は通商国家として引き続き繁栄を勝ち取ろうぜ、そのかわりに、もう農業は日本からなくなるけど、いいじゃん、食糧なんてよそから買えばいいんだから、と率直に言っているのである。
よその国が売ってくれなくなったらって、心配なんかしたって意味ないって、そもそも石油がなきゃコメだって作れないんだから、と大前研一の意見は続き、農業をやりたい奴は海外の農業最適地に行ってやりゃいいじゃん、国もそういうやる気のある奴を支援してやんなよ、てなところまで行っちゃうのですが(石原莞爾かあんたは(笑))、少なくともこっちのほうが「大規模化で強い農業」にすればいいなんておとぎばなしよりは正直だと思う。

(以下次号)



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2011/09/12

TPPについて語る時にやつらの語ること(上)

池上彰さんには及びもないが、世の中の動きにそれなりに気を配っている人であっても、TPPとは何ぞやということについて、きちんと説明できるかどうかというと、少々あやしいような気がする。
もちろんわたしだって、これがなんであるか、さっぱりわからない。
わからないけど、どうやらこのバスに乗り遅れると、とんでもないことになりそうだという雰囲気だけはひしひしと伝わってくるね。

たとえば、読売新聞の9月6日付の社説は、タイトルからしてすごいよ。
「TPP 交渉のテーブルに早く着け――通商政策の出遅れを挽回するために、日本に残された時間は少ない」

ところどころ端折って転記すると、こんな感じである。

野田政権は、米国や豪州、シンガポールなど9か国が交渉中の環太平洋経済連携協定(TPP)への参加を決断すべきである。

米国主導のTPPは、鉱工業品、農産物、サービスなどの幅広い分野で貿易自由化を進め、自由貿易圏を形成する構想だ。

モノの関税を原則として10年以内に撤廃する内容とされ、アジア太平洋地域の新たな貿易や投資ルールとなる可能性が高い。

危機感が薄いのではないか。少子高齢化が進む日本は、成長著しいアジアなどの活力を貿易自由化によって取り込み、成長を実現する必要がある。

超円高と電力不足を懸念し、製造業が生産拠点を海外に移転する動きが進んでおり、産業の空洞化が懸念される。TPPの出遅れが重なると、日本経済の衰退を招きかねないだろう。

政府は8月、農地の大規模化などを盛り込んだ農業再生の中間提言をまとめた。提言に沿い、野田政権は、貿易自由化に対応できる農業の競争力強化策を打ち出すことが肝要である。

最後に農業再生について出てくるのは、TPPによって日本の農業が深刻な影響を受けることを推進派のみなさんもわかっているからでありますね。

ただ。ここからが、TPPの議論がねじれていくところなんだが、経産省や財界などのTPP推進派は、日本の農業はやり方によっては十分国際的な競争力を持てるから大丈夫だ。だからいまのダメ農業を守るためにTPPに参加しないのは国益を損ねるという議論の組み立て方をするんですよね。わたしたちだって日本の農業が心配で仕方ないんです。大規模化して強くしましょうよ。やり方はちゃんと教えます。だからこれはTPPとは分けて考えましょうよ、というような作戦のようです。

一方、TPP反対派は、TPPで日本の農業は壊滅し、食料自給率も危機的な数字になるよというストレートな反対意見ももちろんあるけれど、もう少し洗練された議論では、いやTPPは農業だけが問題なのではなくて、鉱工業もサービスも、医療も社会保障制度も、すべての国内の仕組みを最終的にはアメリカの法制、基準にそろえることになってしまうのだけど、ほんとにそれでいいのかい。グローバルな事業展開する企業とかお金持ちのみなさんには、それは歓迎すべき日本かも知れないけど、それ以外の圧倒的多数の人にとっては、おそろしくきびしい社会が待っているよ。ほんとうにみなさんは日本をアメリカみたいな社会にしたいのですか、というタマを投げてくる。

つまり、推進派は農業も成長産業にできるからやろうと言い、反対派は農業以外もおかしくなるから止めようと言っているわけで、どちらも農業問題だけに焦点を絞らないように議論を組み立てているところが面白い。世論形成は多数派工作だから、両陣営ともこういう作戦になっているのでありましょう。

(以下次号)



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2011/08/22

ほかの国より貧しくてはダメですか

もと日銀総裁の福井俊彦氏が、日本経済新聞(8月17日)に登場していた。いまも進行中の「新しい日本へ――復興の道筋を聞く」というシリーズ記事である。福井氏の現在の肩書きはキャノングローバル戦略研究所理事長。
ちなみにこの研究所(CIGS)は、TPP推進と農業の集約化、大規模化を主張するイデオローグであるところの山下一仁氏も研究主幹として抱えており、これから零細農家になろうという予定のわたしにとってはちと一物含むものがあるのだが、まあそれはまたいずれあらためて。

さて、定期的にここをのぞいてくださっているみなさんはご存知のように、ちょっと前にわたしは「バイバイ原発」という文章を書いて、そのなかで次のように述べた。

しかし、わたしは思うのだが、べつに生活レベルを50年くらい、場合によっては100年くらいむかしの水準に戻して、それでも不幸のどん底に落ちることにはならないのじゃないかなあ。いや、むしろそのほうが幸せになれるような気さえする。

じつは、今回、日経新聞で「おや、おや」と思わず、口をついたのは、福井氏が以下のやりとりを記者としたかたちになっていたからなのだ。

――昔の生活に戻れという人もいる。
「違う。国際的な生存競争に勝たないと、失う一方になる。安全で快適に暮らそうと思ったら、ほかの国よりも貧しくてはダメで、自分たちだけ成長を止めるわけにはいかない。「昔」とはいつか。都合のいい時期まで時計の針を戻す器用な方法などない。」

インタビューのかたちをとった記事だから、かりにこの通りの談話であったとしても、じっさいの語気の鋭さまでは想像するほかないが、わたしの受ける印象では、けっこう気合の入った発言のように思える。
なにもそんなにむきにならなくても、ねえ、という感じなのだが、逆にいえば、いまの生活レベルを落とせばいいじゃん、といった単純素朴な意見は意外に多いのかもしれないなあ。

まずなんの留保もなしに無条件に同意できることは、「都合のいい時期まで時計の針を戻す器用な方法などない」という意見。はい、そのとおりだとわたしも思います。
「自分たちだけ成長を止めるわけにはいかない」というのは、まあそうだよね、と同感する部分。

だが、以下のふたつの見解にはまったく賛同できない。

ひとつ目は「国際的な生存競争に勝たないと、失う一方になる」という見解。
まずもって国際的な生存競争というキツい言葉が意味するものが、わたしにはよくわからない。この部分の主語はたぶん「日本」だろうが、日本はいまその生存をかけて競争しているという認識を福井氏は示しているのだろうか。(研究所の金づるのキャノンが生存をかけて競争しているというならそりゃよくわかるけどさ)
負けると生存できないというのは、主権を奪われるという意味で言ってるのかな。いまはアメリカの属国だが、下手するとそのうち中国の属国にされちゃうよ、という意見なのか。まあ、ここは記者がおおげさに見栄をきって書いちゃった言葉かも知れないけれど。
さらにわからないのは「失う一方になる」というパセティックな言葉だ。
歴史は、どれくらいの長さでそれを見るかによって多少ずれはあるけれども、敗者が失う一方であったということはないことを示していると、わたしは思いますがね。1945年に戦争に負けて、日本は途方もないものを失ったわけだが、その後の復興と経済成長のことを考えれば、決してそれが「失う一方」ではなかったと云えるのではないかしらん。

二つ目は、「安全で快適に暮らそうと思ったら、ほかの国よりも貧しくてはダメ」というところ。ダメって言われたって、ほかの国より貧しい(あるいはほかの国より豊か)かどうかは、どこの国と比べるかだけのオハナシで、そんなものではないことは明白。だから、ここはわかりやすく言えば、北朝鮮みたいになったらダメという意味だろうね、実際に言いたいことは。
しかし、北朝鮮がダメなのは貧しいからというより、貧しい国にしている別のものが絶望的にダメだからである。
安全で快適に暮らすための条件は、ほかの国より豊かであることだと、かつての中央銀行総裁はおっしゃるのであろうか。いやみに揚げ足をとれば、ほかの国のほうがビンボーだったらわが国は安全で快適である、ト?

核発電(もうわたしは個人的には「原子力発電」という表記は止めました)でじゃぶじゃぶ電気を使って経済をまわし、カネがうなるほどあっても、それがもし、いまの中国のような国になるということだったら、わたしはそんなのぜんぜんいいとは思わないけどな。

ただし、公平に言って、福井氏の考えは、なにがなんでもいまの核発電体制を維持せよというのではない。核発電を組み込んだ日本のエネルギー政策を、徐々に核抜き発電にソフトランディングさせていく現実路線以外はオハナシになりまへんでとおっしゃっているのである。(たぶん)

現実論として、これが国の政策としては、まあ妥当なものだろうとわたしも思う。
できうることであれば、新設の核発電所はもうあきらめて、現役の核発電を10年くらいで順次、廃止、解体するのがよいと思うが、この点に関しては、率直に言ってわたしは悲観的である。たぶん、国のエネルギー政策という言葉は、国の安全保障という言葉と同じように使われて、エリートのみなさんのお手盛りで、核発電の割合を四分の一程度にするとかなんとかいうあたりに落ち着くのだろうと思う。
そして、そのときにきっと、福井氏のような支配層のみなさんは、「国際的な生存競争に勝たないと、失う一方になる。安全で快適に暮らそうと思ったら、ほかの国よりも貧しくてはダメ」とわたしたちにむかって説教なさるでありましょう。
くそをくらえ、であります。

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2011/07/24

あの年のオールド・グローリー

The ceremony was laden with symbolism. Missouri was the home state of President Harry S. Truman, whose major decisions regarding Japan had been to use the atomic bombs on two Japanese cities and to hold firm to the policy of "unconditional surrender" of his deceased predecessor Franklin D. Roosevelt. One of the flags displayed on the Missouri was the same Old Glory that had been flying over the White House on December 7, 1941, when Pearl Harbor was attacked. Another, rushed by plane from Annapolis, was the standard with thirty-one stars used by Commodore Matthew Perry on his flagship Powhatten when his gunboat diplomacy forced Japan to end more than two centuries of feudal seclusion. The appearance of Perry's small, mixed fleet of sailing vessels and coal-fueled, smoke-belching "black ships" in 1853 had propelled Japan onto its ultimately disastrous course of global competition with the Western powers. Now, a shade under a century later, the Americans had returned with a gigantic navy, army, and air force that reflected technology and technocracy of an order Perry could not have envisioned in his wildest dreams --flaunting the commodore's old flag as a reprimand.

EMBRACING DEFEAT
John W. Dower

1945年9月2日、東京湾に停泊した戦艦ミズーリ甲板で日本の降伏の正式な調印式がおこなわれた。日本の全権大使は重光葵。爆弾テロで右足を失った隻脚の重光が正装で体を傾げながら前に進むのを、ブリッジや艦砲に鈴なりになった水兵たちが見守る場面である。ユーチューブでそのときの映像を見ることができるようなので貼り付けておく。

このときアメリカはふたつの星条旗をミズーリに持ち込んでいる。ひとつは真珠湾攻撃の日にホワイトハウスに掲げられていた国旗。もうひとつはペリーが浦賀にやってきたときの旗艦ポーハタン号の星条旗である。このときの星は31個のもの。アナポリスからこのためにわざわざ空輸させたのですな。
映像でちらっと写るのはこの100年前のオールド・グローリー。
アメリカ人流の歴史意識というやつなんでしょうが、日本人としてはやや複雑な気持ちを抱きますね。

さてここまでが、現代史のおさらいですが、これにからんでちょっと気になったことがあった。たいしたことではないのだが、5月に米軍がビン・ラーディンを殺して、ただちに空母カールビンソンからアラビア海に水葬したという発表がありましたね。
911をパールハーバーになぞらえる気分が「対テロ戦争」開戦当時はあったと思うのですが、今回の儀式に、911当日ホワイトハウスに掲揚されていた星条旗が持ち込まれたという話はなかったように思います。日本の降伏とはちょっと違うわなとは思いますが、たんに公表されていないということかも知れない。
安楽椅子探偵のわたしは、ちょっと怪しいと考えているのですが、さてどうでしょう。

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2011/04/16

バイバイ原発

ほんとうかどうかわたしにはわからないが、現代の都市文明を支える規模の電力をつくる方法は現実的には

1)化石燃料を燃やして熱をつくりこれで発電する
2)核燃料を「燃やして」熱をつくりこれで発電する

というふたつしかないのだそうです。

水力や風力や太陽光や潮力や地熱やいろいろな再生可能なエネルギーと呼ばれるものはあるが、どれひとつとして現代の都市文明を支えるに足るほどの発電量はない。こんなものをいくらつくっても追っつかないし、それぞれいくらでも不都合な問題点をあげることができるといいますな。

火力発電所は稼働中は常時大気を汚染している。中東の地政学的な不安的さに左右される。
原発は、今度のようなことさえなければ、環境に与える負荷は小さい。国際的な影響も受けにくい。
だから冷静に検討すれば原発はもちろん危険で悪いものだが、電源としてはこれ以上のものはいまはないというのですな。
池田信夫氏などは、原発で死んだ人とクルマで死んだ人の数を比べてみなさいよ、とまでいう。まあ、たしかに。いまのところは。

だから問題は、つまるところ梅原先生ではないが、いまの文明――というのはちと大げさで、むしろ先進諸国のライフスタイルといったほうがいいような気がするが――をどうしても維持したいのか、それとも手に入る核以外のエネルギーでまかなえる文明にギヤを入れ替えるのかということであります。
しかしこの点で、押しなべて経済学者をはじめとする自称リアリストは悲観的で、人間というものはいったん手に入れた安楽な暮らしは絶対に手放さないという確信があるようだ。
姉は水くみに弟は柴刈の重労働に酷使された安寿と厨子王のような時代に帰れますか、というわけである。そんなん、わしはともかく、あんたらには無理やろ、というのである。

しかし、わたしは思うのだが、べつに生活レベルを50年くらい、場合によっては100年くらいむかしの水準に戻して、それでも不幸のどん底に落ちることにはならないのじゃないかなあ。いや、むしろそのほうが幸せになれるような気さえする。

もともと、あるものでなんとかする、というのが人間の「野生の思考」である。
危険で汚い原発を捨てたら電力は半分になるで、というなら、いまの半分の電力で生きていく工夫をすればいいのである。世界から取り残されて、貧乏な三等国になってもいいのか、というなら、わしらぜんぜんかまわない、といえばいいのである。家族が飢えずに生きていければそれでいい。原発がなくなったら、日本人は何万人も飢死にするんでっか、そこまで原発はんはエライんでっか、と反対に訊けばいいのである。そこまでの覚悟をしたら、あとはそうならないように知恵をめぐらせばいいのである。

与謝野馨は、原発推進をしてきたことは間違っていなかったし、これからも原発の増設推進は必要だと語っていますね。なるほど、これもひとつの立場である。きちんと将来を指し示してみせるということでこの発言は正直で、ある意味立派です。
つまりこういうことだ。

現にそうなったように、40年に一回くらいは原子炉のメルトダウンが起こって居住できないエリアはこれからも出るだろうが、できるだけそうならないようにはするけど、ま、どうせみんな過疎地だし、そういうリスクは許容範囲として、電源はやっぱり原子力で行こうぜ、みんな。おー!

与謝野がいた自民党や官僚や、もうすぐつぶれる民主党や、大企業や、そういう日本のエスタブリッシュメントさまたちの国策とやらはこれであろう。

好きにしろ、とわたしは匙を投げる。ほんとうにバカばっか。

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2010/04/06

飛耳長目という言葉

「前原誠司は、『首相の器』なのか/坂本龍馬を意識する国交相」という記事が、朝日のThe GLOBE に出ている。記者は梶原みずほ。
べつに前原誠司に肩入れする気もないのだが、読んでいたら、前原が坂本龍馬に自分を重ねあわせていることが強調されていて、龍馬を形容する時に「飛耳長目」という言葉が使われるという一節がある。前原にとっての「目や耳」となったのは副大臣の辻元清美なんだそうな。あんまりに低レベルで笑っちゃうね、どうでもいいけど。

龍馬の形容として「飛耳長目」という言葉が使われるというのは、なにが出典なのかはわからないが、たまたま、この言葉を荻生徂徠がつかっていることを山内昌之の『鬼平とキケロと司馬遷と』(岩波書店)で目にしたので、その部分を孫引きしておく。徂徠がこの言葉をつかったのは歴史の役割とはなにかというコンテキストであった。

惣じて学問は飛耳長目之道と荀子も申候。此国に居て、見ぬ異国之事をも承候は、耳に翼出来て飛行候ごとく、今之世に生れて、数千載の昔之事を今目にみるごとく存候事は、長き目なりと申事に候。されば見聞広く事実に行わたり候を学問と申事に候故、学問は歴史に極まり候事に候。(「徂徠先生答問書 上」『荻生徂徠全集』第一巻、みすず書房1973年)

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2009/08/27

みそもくそも自民党

朝日新聞の中盤情勢調査によれば、民主は320議席、自民は100議席前後に落ち込む見通しとの報道。
いくらなんでもこれはまずいなあ、と思うのだが、テレビ・コマーシャルで麻生さんが出てくると、やっぱ自民には入れんとこ、とそのつど「決意」を新たにする。
逆効果だと思うので、自民党は即刻テレビCMなんかやめたほうがいいと思うのだが、ま、もしかしたら日本の支配者のみなさんにはなんか別の深い理由があるのかもしれん。(笑)

わたしのみるところ、今回の衆院選については、民主党の政策には首を傾げる点が多い。たぶん大増税になるだろうし、景気も悪くなるだろう、財政はさらに悪化するに違いない。あんまりうまく行くとは思えんよ、てな感じをマニフェスト読んでも受けるのでありますね。
しかしそれでも、結局は民主党に入れるだろうなと思うのは、この政党を支持するからではない。だいいち、民主党の中核は自民党のかつての田中角栄の一派であります。これを第二次経世会と呼ぶ人もいるようですが、あんまり冗談にも思えない。

むかし西宮に暮らしていたころ、王子動物園によく子供を連れて遊びに行った。
ゴリラの檻の前に透明のアクリル板だか強化ガラスだかが据えてありまして、注意書きに自分の糞を投げますのでご注意くださいと書いてありましてね。うーん、これはちとすごいなあと感心した。つまり、ゴリラはおそらくぶしつけで無神経な見物客に怒って自分の糞を全力投球なさっていたのであろう。

今回、もし民主党に投票するとしたら、すくなくともわたしの場合は、この怒れるゴリラと同じ気持ちであります。総選挙で国民の信任を受けてもいない総理たちの無責任な政権たらいまわしや、アル中の閣僚をはじめとする不適格な政治家の言動に対して、無力感を感じていたここ数年の歯がゆさが、いま、一票という「力」をにぎりしめたとたん、むらむらとした怒りに変ってしまったのでありますね。

だがまことに残念なことに、選挙というのは、怒りの対象に糞を投げつけるようなわかりやすい行為ではない。だから、わたしは自民党への怒りを、民主党への支持というかたちであらわさざるを得ないのだが、ところが、たとえそれで溜飲を下げたつもりになっても、たしかに自民党は100議席を割ってざまあみろということですが、それでもほんとうにわたしが落選させたい安倍晋三だの麻生太郎だの中川昭一だのは無事当選してしまうのですね。まあ、せめて中川昭一くらいはなんとか落として欲しいけど、こればかりはいかんともしがたい。
しかし、いうまでもなく、自民党にだって政治家として、役に立つ人材はいるのでありますね、たぶん。
だから結局ここでも、味噌も糞も一緒の場合は、たいてい味噌が割をくって、糞が生き残ることになるのかもしれませんなあ。まあ、その場合は自民党が純度の高いクソ政党になって、さすがに国民に見捨てられるというシナリオもあるかもしれませんねえ。
さて、総選挙まであと実質2日。

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2009/02/11

おぬしもワルよのお

キヤノンの御手洗冨士夫会長の名前が、大分のコンサルタント会社社長の裏金、脱税事件とのからみで新聞紙上におどっております。キヤノンも本人も事件とは無関係であるとのコメントのようですが、財界総理であるところの日本経団連会長がこれですか、やれやれ。

一昨年の12月に、わたくし「Like A Rolling Stone」というエントリーで、この人物に対する感想を書きましたが、やっぱりねえ、という感じ。政治も経済も現在の「総理」にはちとお粗末な人物が居座っているようですな。

まあ、東京地検特捜部というのは、いろいろと権力内部での暗闘(今回の摘発のゴーサインは当然そのように考えられる)はあるにせよ、「ぐふふふ、越後屋、おぬしもワルよのう」「そういうお代官さまこそ、ふぉふぉふぉ」なんて人たちを、懲らしめるというモチベーションもまったくないわけでもないと思うので、たぶん、今回のこともそういうことなのでしょう。どこまで、捜査が及ぶのかは、国民としては興味深い。

ところで嘘か本当か(本当だと思うけど)、この御手洗という男、こういうことを書かれています。【こちら】

御手洗社長は、30~40代をずっと米国で過ごし、1989年に帰国するまでの10年間、キヤノンU.S.A.の社長を務めた。実際の御手洗社長にはわがままな面があり、米国での社長時代には、秘書は昼前までに、常に、中華、フレンチ、日本料理といった3件の予約をしておかなければならなかったという。その日の気分で選び、2件はキャンセルさせるのだ。

ははは、やっぱ、越後屋かな、この男。

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2008/11/16

「倫理的規律と自己否定」田母神問題をめぐって

航空自衛隊の田母神幕僚長の懸賞論文問題について、新聞やテレビの報道を見て、なにか釈然としないものを感じながら、それが何であるかがよくわからなかった。
まあ、いいけどさ、とやり過ごしていたのは、たぶん、自分なりの考えをまとめるためには、やはり田母神論文なるものを一応は読むべきだろうなあ、と思って、しかしそれがあまり気の乗らないことだったからだろう。
しかし、テレビで見ただけだが、この人物と、これをどうやら叱っているつもりらしい国会議員たちの風貌や言動を見ていると、わたしには命令に従わせるべき軍人に、国民の代表たちが言い負かされているように見えた。一言でいえばたよりない。こんなやつらで、ほんまにだいじょうぶかいな。

今日、村上龍のメールマガジンJMMで、評論家・会社員という肩書きで寄稿している水牛健太郎氏の「田母神論文問題――浮き彫りになる政治とメディアの危機」というエッセイを読んで、ああ、そうだな、これがもやもやのポイントだったんだなと思った。JMMはその公式サイトでメールマガジンに発信したエッセイを毎週掲載しているので、おそらく来週にはメールの購読をしていない人にも読めると思う。

わたしが思うに、この水牛健太郎氏の文章のポイントは、次のようなところではないかと思う。少々長いが引用する。

日本の過去に対する考えは人それぞれであり、国内に大きな世論の分裂を抱えている。しかし、村山談話と言われる一つの立場を政府が国際的に打ち出し、それを基礎として周辺諸国との関係構築を進めてきたことは事実だ。国際政治において、過去の歴史に対する見方は外国との関係構築の基盤となるものであり、現実的な意味を持っている。好むと好まざるとに関わらず、ある一つの歴史観の上に日本の国際的立場が築かれてきた。田母神氏の行為は、そうしたこれまでの積み重ねを危険にさらす。

村山談話に対する異議があったとしても、その議論は、政治の場でなされるべきである。文民統制の対象である自衛隊員は、この議論に公に参加する資格はない。自衛隊員は政治的な意思決定とは距離を置き、自分の職務を着実に果たすことが務めである。現在の政府の立場と異なる意見を公に表明する自衛隊員にも言論の自由は保障されているので、逮捕されることはないが、自衛隊員としての適格性がなくなるので、職を失うのは当然と言わなければならない。

つまり、今回の問題では、田母神氏の主張の具体的な内容の一つ一つが問題なのではない(だから、この文章でも、田母神氏の論文の内容を検討する事はしていない)。
この問題は、国家運営に関する原理原則の問題である。統一された政治意思のもと、海外との関係を構築していくという、国家のあるべき姿をいかに守っていくかが問題とされているのである。

ここで、わたしが思い出したのは、マックス・ヴェーバーの『職業としての政治』だった。
政治家の職分・責任・倫理と官吏の職分・責任・倫理について書かれたものがあったな、と思った。探してみた。ここの箇所だ。

官吏にとっては、自分の上級官庁が──自分の意見具申にもかかわらず──自分には間違っていると思われる命令に固執する場合、それを命令者の責任において誠実かつ正確に──あたかもそれが彼自身の信念に合致しているかのように──執行できることが名誉である。このような最高の意味における倫理的規律と自己否定がなければ、全機構が崩壊してしまうであろう。

マックス・ヴェーバーがここでいっていることは、もちろん文民統制についてではないし、ここでこれを想起することが、適切なのかどうかもよくはわからない。たぶん、適切な連想ではないだろう。
しかし、わたしなりに考えて言えることは、国会議員は、国民の代表としてこの田母神という軍人を、気概と信念とをもって、叱り飛ばす必要があったということだ。
それは、わたしの大嫌いな政党なんかが言っているように、かれが間違っているとか、思想的に問題があるから、ということではない。そんなことはここでは問題ではない。国家意思という権威に対する服務規律の問題である。

あくまで国に仕えるつもりならば、自分の個人的な思想信条と明らかに異なる見解を政府が出しても、公式にはあたかもそれが自分自身の信念に合致しているかのように仕えなさい。もしそれができないなら(人間としてはそんなことはできないという場合が多いだろう)、もし政府見解は間違っていると公の論文などで批判したいなら、まずその地位を離れてから主張なさい。その地位を保って、しかもその仕える政府の見解を否定するとは、なにごとですか。この点についてあなたは申し開きができるのか。

そういうふうに聴聞が行われたとすると、たとえばわたしが田母神氏ならどうするだろうか。ふたつの道がとりあえず考えられる。

その一。たしかに、その点に限っては、わたしの不心得でありました、と誤りを認めて謝罪する。

そのニ。いいえ、そうは思いません。政府の見解や方針そのものが「正しくない」と信じる場合には、国の高官はあえてその立場に留まれるだけ留まって、良心にしたがい「正しい」と信じる行動をするべきです。かつて第二次世界大戦で杉原千畝がしたように。すべては歴史が判断するでしょう。

後者の場合は、あきらかに確信犯で、現政府への反逆ですから、即刻、懲戒免職にすべきでありましょう。前者の場合も、当然、相当の処分を行うべきである。

そういう議論を、堂々と国会でわれわれ国民にしかと見せて、ありゃ田母神のほうが正論だよな、などという意見が世論になるようなことがないようにするだけの、真に言論だけで立てる政治家は、いまの日本にはいないのかなあ。
いないんだろうなあ。

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