j)その他

2012/01/14

猫の皿

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煮魚の食べ方がきれいだと、ときどき褒められる。遠慮のない家族には、むしろあきれられる。ほら、猫も食べるところがないだろ、なんて威張るのだが、よく考えると、この頃のペットとやらの飼い猫は、ご飯の残りなんか食べてないんだろうな。

むかしは猫は自然に家に居着くものだから、勝手に土間にいるものというくらいで、座敷に上がったりしようものなら、こっぴどく叱られるのがふつうだった。いまから思えば、猫といえどもたんに愛玩の対象ではなく、鼠とりや残飯処理という役目があって、それなりに役に立つから家に置いてもらっていたのだろう。とくにご飯の残りは、猫がガシガシたべることで、一種の生ごみのディスポーザーになっていたのだと思う。循環型の暮らしの一角を猫も占めていた、というとちと大げさかもしれないけれど。

「猫の皿」という落語がある。わたしが持っていたのは、志ん生のレコード。
こんな噺だ。

骨董屋のなかに店を構えず地方をぐるぐる回って出物を見つけ、江戸に帰って高く売るという連中がいて、かれらのことを旗師というそうな。
あるときそんな旗師が茶店で一服しようとすると、へっついさんの傍らに猫が寝ている。じっと見ているとそこに皿が置いてあるのだが、その皿が「高麗の梅鉢」と言う、実にすごいような皿。まず江戸の物持ちでもこれが十も揃う家はないくらいで、一枚放しても三百両に羽根が生えて飛んで行くという逸品。
ははあ、知らねえんだ。知らねえから猫の皿なんかにしてやがる。知らねえてえのは恐ろしいもんだね。
というわけでこの旗師、茶店の爺さんに、カミサンが可愛がってた猫が死んでしまったが、この猫が生き写し、ぜひこの猫を三両で譲ってくれろと談判。
そんな毛の抜けかけた汚い猫に、三両なんてめっそうもないという爺さんに、いいんだ、いいんだ、おお、可愛いねぇお前は、ほら俺の懐に入んなと、無理矢理三両渡すと、そうだついでにこの皿ももらっていくぜ、宿屋にも猫に皿を使わせるの気の毒だからな、なんて言って、ひょいと皿を取ろうとする。
すると、この爺さんが、いえお客様その皿はいけません、こっちのをお持ちなさいと他の皿を棚から出してくる。いや、猫ってのは、皿が変ると餌を食べなくなる、こっちの使いかけのやつでいいよ。
するとこの爺さん、いや、お客様はご存じないことだが、この皿は高麗の梅鉢といって、まず江戸の物持ちでも十は揃わん、一枚だけでも手放せば三百両が羽根が生えても飛んで行くというようなお皿でしてな、家に置いてもおけんのでこうやって毎日茶店に持って来るんです、と言うのである。
へえぇ、そらあ、おらぁ知らねえから、つい言っちまったが、そうか、そうかよ、そんなら仕方ねえな、——おいこら、引っ掻くな、この畜生、ひえぇ、ひどい毛抜けだよこいつぁ。——しかし、親父、そんな高けえ皿なら、なんでそんな大事なもんを猫の皿なんかにしてやがんだよ、と旗師がぼやくと、茶店の爺さん、にやりと笑って、なにこうしていると、ときどき猫が三両で売れます。

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2012/01/06

最後の城の跡地

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あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、福岡県豊前市の千束というところに千束八幡神社というのがありまして、わたしにも縁のある土地なので、お参りをして参りました。南無八幡大菩薩というくらいで、神仏習合で日本全国に広がった、「村の鎮守の神様の今日はめでたいお祭り日」、といった体のまあ言ってみればどこにでもあるようなありふれた八幡社なのでありますが、秋の奉納の薪能舞台もあるなかなかちゃんとした聖域であります。また、じつはここはちと面白い場所でもある。
明治維新のとき長州藩が小倉小笠原藩と戦をしますが、これで城を焼かれた小笠原が日本で最後の城を築いた場所なんでありますね。築城は明治三年、翌年には新政府の廃城令で取り壊された短命の城でもある。
以下、神域内の説明板から——

旭城跡(千束城)

千束八幡神社の敷地とその周辺が城跡です。江戸時代には現在の豊前市と新吉富村の一部は新田藩と呼ばれる小倉藩小笠原氏の支藩でありました。
藩主の居城は、領内になく小倉城下の篠崎にありましたので、篠崎藩とも呼ばれていました。

慶応二年(一八六六)小倉藩と長州藩との戦いで、小倉城、篠崎邸ともに焼け落ちたため、当主の小笠原貞正は、小倉藩主小笠原富千代丸とともに田川郡香春に逃れました。

その後貞正は領内の当郡に来て安雲(新吉富村)の光林寺に入り、明治二年(一八六九)、塔田原と呼ばれていたこの地に居館を構えることにしました。ここにはかつて多くの古墳があり、その古墳の石を使って石垣を築き、明治三年(一八七〇)に完成して、旭城と名付けられました。

しかし時代は明治の新政府によって激動の時を迎え、明治四年(一八七一)の廃藩置県さらに廃城令が出される中、築城間もない旭城はその使命を終えます。短命であったこと、そして全国で最後に築かれた城と言う意味で、歴史にその名を残した城でもあります。
現在も城跡である千束八幡神社の周辺には多くの石垣が残されており、当時の名残をとどめています。

豊前市教育委員会

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2011/12/08

当尾の里の冬

最初、僕たちはその何んの構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危く其処を通りこしそうになった。その途端、その門の奥のほうの、一本の花ざかりの緋桃の木のうえに、突然なんだかはっとするようなもの、——ふいとそのあたりを翔け去ったこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなものが、自分の目にはいって、おやと思って、そこに足を止めた。それが浄瑠璃寺の塔の錆ついた九輪だったのである。

堀辰雄『大和路』

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昨日はいいお天気だったので、京都府加茂町は当尾(とうのお)まで紅葉を見に出かけました。クルマを走らせれば半時間くらいのところであります。
ここには浄瑠璃寺というけっこうなお寺がありまして、冒頭に引用した堀辰雄が訪れたのは春ですが、秋から初冬にかけても紅葉が池に映えてなかなか素敵です。ちょっと不便なところにあるので、それほど人も来ませんし、なにより拝観料をとっていないのが好感がもてます。でも、お庭の手入れもあるし、本堂や三重塔は国宝ですから維持管理も大変なのではないかとそれはそれで余計なことを考えたり。(笑)

ちょっと前のNHKの紀行番組で、夜、この本堂の阿弥陀如来様のライトアップされたお顔が鏡のような池に映っているシーンをやってました。池を挟んで本堂を眺めても深い庇でお顔は拝せませんが、池に目を転じるとありがたい極楽浄土の仏様が映っているという仕掛けなんですね。むかしから建築というのは舞台演出でもあった。

浄瑠璃寺のお参りをすませると、今度は山道を、はあはあ、言いながら登って岩船寺というお寺に参ります。
このあたりはそのむかし平安から鎌倉にかけて浄土信仰の一大修行地でしたから、山道のここかしこに石仏が点在しています。当尾は、鎌倉時代の文献には「塔尾」として出てくるそうですね。浄土信仰の伽藍や塔の多い尾根といった意味だったと思われます。
ところどころに無人の野菜や漬け物の直売所があって、鰹節の缶の蓋にピッグバンク風の切れ目があって百円玉を入れるようになっております。ダイコンのゆず漬けを買って帰りましたがたいへんおいしゅうございました。

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2011/10/04

「わたし」という密航者(下)

ゾウさんのお鼻はなぜ長いの、という子どもの質問にきちんと答えることができないのと同様、人間になぜ「わたし」という意識があるのかはほんとうのところはよくわからない。たまたま現生人類につながる旧人類のなかで、そういう「モノ」がそなわった種が突然変異として生まれ、そういう「モノ」をよりクリアに長時間維持できる集団のほうが、種の維持の上で優位に立てるためにそうなったのだということなのかもしれない。

しかし、そうであろうとなかろうと、人間という種のレベルで考えても意識の起源というのは、むしろ気がついたらすでにそこにあった、というようなタイプのものであろうと思われる。
そして、ここでも個体発生は系統発生を繰り返すではないが、わたしたちひとりひとりの人生の旅のなかでも、「わたし」という意識は、気がついたらすでにそこにあったようなあり方でしか考えることができないのではないか。

さて、では「わたし」という意識がクリアにあるというのはどういうことかと、ない知恵を必死にしぼって考えに考えていくと、なんだ、それはつまるところ「ことば」ではなかろうかとおぼろげながら理解できるようになる。

人間も動物の仲間である以上、眼や耳や鼻などの感覚器から得られた情報をもとにして自分が現在いる世界を脳のなかで再現するという仕組みは共通である。もちろん感覚器の性能が種によって大きく違う以上、人間が再現している世界と、イヌやウマが再現している世界はまったく違っているだろう。しかし、基本的な仕組みは同じである。

たとえばいま広大な草原に立って、目の前の地平線まではるかにひろがる大地をただあるがままに見る。風が吹き、草がゆれ、青い空を雲がゆっくりと動いて行く。そういう世界を、あるがままに感じているだけの無我に近い世界、それが動物たちにとっての世界に近いものだとしたら、かれらには無い(すくなくとも人間と同等のクリアなレベルには無い)意識というのは、なんだろうか。
それは「地平線かあ、広いよなあ、おや風だぜ、いい気持だ、大きな雲が動いてら、そういやむかしワタシの好きなソオーゲンって、歌があったなあ、アグネス・チャンあいかわらず日本語下手だよなあ」などといった意識の流れであり、それはとりもなおさず言語である。この言語を全部取っ払って、ただ世界を感じているだけの状態(というのは実際にはむつかしいのだけれど)が動物たちの脳のなかの世界なのではないかしらん。

つまりクリアな意識とは要するに言語そのものではなかろうか。
意識の構造とは畢竟、言語の構造のことである、とわたしには思えます。

「わたし」ははじめ密航者だった。長い航海のはじめのころにふと気がつくとみんなが、おやいつの間にこんな身元不明のやつが紛れ込んでいたんだろうと思うような、船の運航には本質的には必要のない、べつにそんなやつがいなくても船乗りたちにはかまわない密航者だった。
だが、やがて長い航海のなかで、嵐を乗り切るための選択のときにみごとな洞察を示し、あるいは船乗りたちの乱闘にいたるような利害を調整して、みるみる頭角をあらわし船長として君臨することになった。
しかし、この船長は操船にはまったく素人同然で、判断を仰がれないときは、操舵室の後ろでぼんやり海やら空をながめてぶつぶつ独り言をつぶやき、こまかいことはお任せしますからと只乗りの乗客同然、やがて船路の果にはもとの密航者よろしく役立たずに終るのであろう——。

今回のネタは、ブレインサイエンス・ポッドキャストの「エピソード75」、デイヴィッド・イーグルマン博士のインタビューから。もっとも内容は全然違っていますけれど。
【こちら】

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2011/10/01

「わたし」という密航者(上)

意識という言葉はたいへんむつかしい言葉で、「あれはぜったい意識的にやっているよ」とか「ちと意識過剰じゃないの」といった感じで、ふだんの日常会話でもよくつかわれるが、たとえば哲学用語としての意識には、それぞれ哲学者によって精緻な定義があるだろうし、心理学用語としても医学用語としてもそれぞれの定義があると思う。
まあ学問的なことはさっぱりわからないので、ここでは、ごくあたりまえにどなたにも「わたし」というものがある、その「わたし」のことをとりあえず意識ということにしておく。

さて自分の死のことを考えると誰しも足元が崩れて無限の深淵が広がっているような不安を覚えるわけだが、これはほかならぬ「わたし」が消滅したあとも宇宙は永遠に続くと考えるからだと思う。だから死ぬのは身体だけであって、「わたし」というのは消滅しない、「わたし」は姿を変えかたちを変えてやはり宇宙と同じように永遠に存在を続けるのだと、心底納得できれば、死の恐怖はかなり減るだろう。信仰というのはつきつめて言えばそういうことではないか。

ところで、これまたよく考えてみると不思議なことだが、かくもかけがえなく貴重なものと思い、その消滅を打ち震える思いで恐れる「わたし」というものは意外とたよりないものである。なぜなら、わたしたちは毎晩、眠りとともに「わたし」を見失っているからである。
朝、起きた後で考えると、いまここにある「わたし」は眠りの間にはなかった、としか思えない。だとすれば、「わたし」――意識は人間の生存にとって本質的なものではないのではないのか?なぜなら、意識があろうとなかろうと眠りの間も生命の維持には何の問題もなかったのだから。

いや、それは違うだろうと、すぐに言う人がいると思う。
それは意識のレベルの問題で、覚醒した意識に比べるとたしかに睡眠中は低くなっているけれども、なにか刺激があればすぐに、意識のレベルは高くなる。睡眠中であれ別に「わたし」は消滅しているわけではないのだと。

おそらくはどちらも正しいのだろう。
むしろ問題の立て方は、人間の生命維持にとって、「わたし」がクリアにあると自覚できる状態が自然なのか、「わたし」の存在がぼんやりしたり、もはやあると自覚できないないような状態が自然なのか、ということなのかも知れない。
そしてもし問題がそのようなものであれば、おそらく答えは後者のほうであろうとわたしは思うのだが、どうだろうか。
なぜなら動物は、人間の「わたし」のような形の意識があるようにも見えないが、自然界のなかできちんと生存を続けているのだから。

この話、もう少し続ける。

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2011/07/19

TOEIC 790

近いうちに郷里に帰って就農の予定とはいえ、すぐに百姓で食って行けるとはさすがに思えないので、しばらくは職探しもしなきゃならんだろう。この年で、雇ってくれる会社もないとは思うが、もしかして地方でも英語がわかる非常勤の嘱託なんて仕事があるかもしれない。しかし、いくら自分で多少は腕に覚えがありますと言ったってそんなのなんの意味もないので、めんどくさいけど、先月はじめてTOEICを受けてきました。
いまの先生は、まあ○○さんならスコアが860越えても別に驚かないけどね、なんて言ってくれていたので、そのつもりでいたのですが、(ずうずうしいね)結果は790とさんざんでありました。TOEICの説明によれば860から上がAクラスということらしいのね。とほほ。

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ええと、ちょっと前の日経ビジネスによれば、1998年の日本と韓国のTOEICスコアの平均はどちらも570くらいだったのだそうですが、その後、韓国はご承知のように大企業が英語を重視するようになったのを受けて、2009年では、日本が590とほとんど変化がないのに、韓国は平均が620、いまやその差はどんどん開いているのだそうですね。なにしろ、ヒュンダイやLG電子は、新入社員の一次のスクリーニングが800なんだとか。サムスンの課長昇進は920オーバーが絶対条件だそうですよ、若い皆さん。ははは、なんて気弱に笑われても困っちゃいますが。
もっともいまでは韓国は、いまぼくらがいうTOEIC——リスニングとリーディングのふたつでできたテストはもうそれほど重視しないようです。あの内容で900くらいとれるのは当たり前で、むしろ話すことと書くこともネイティヴ並みに出来ることが求められているのだそうで。いや、これからの方はたいへんだ。

実際に受けてみて思ったのは、このテスト、英語がある程度できなきゃ高得点はもちろん無理ですが、英語の理解力とか運用能力とかを見るというより、英語の思考回路をつかった瞬時の判断力、短期記憶力、時間管理能力(なにしろ時間がたりないわ)といった要素をコミュニケーション力として測ろうとしているのだと思います。今回はむしろ得意なリーディングで回答の時間配分を間違えたなあ。時間の要素がいちばんこのテストでは重要とあらためて痛感。精読したら負けという試験なんだよね、これ。わかっちゃいたのですが。
負け惜しみですが、案外、大学で英米文学を研究しているセンセー方が800とれないことだって十分ありそうであります。
それにしても、どうしようかなあ、もう一回受けてせめて800台のスコアが履歴書に書けるようにしたほうがいいかしらん。

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2011/04/23

スーちゃん、ユーミン、イースター

べつに大ファンだったとか、そういうことではないのだが、田中好子さんが亡くなったことを知ったとき、なんだかがっくりと気落ちした。スーちゃんは1956年の生まれだから、もしも学校がいっしょだったら、わたしのいっこ下になる。
これまたもしも同じ学校だったら、いっこ上には1954年生まれの松任谷由実がいるという年回りである。

そういえばユーミンのファースト・アルバムである「ひこうき雲」が出たのは1973年で、この年わたしは親元を離れて一人暮らしを始めた。18歳だった。なつかしいね。
このアルバムに収録されている「ベルベット・イースター」という曲、好きだったなあ。

空が低くて、天使が降りて来そう、いつもとちがう日曜日というリフレイン(歌詞をコピーすると叱られますから書けませんがどうぞ歌える方は歌ってくださいませ)はときどき口をついて出てきますね。

あしたが、その復活祭、イースターであります。雨もあがってビロードのような日曜日の朝がやってくることを願いましょうか。
だらだらと思いつくままのエントリーでした。おやすみなさい。

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2011/04/13

又兵衛桜に逢う

大宇陀の又兵衛桜を見に行く。
ちょうど満開で、しみじみこころにしみるような感動を味わう。涙ぐみたくなるようなけなげさ。有り難さ。

後藤又兵衛は、黒田如水の家臣、豊臣方で大坂の役を戦い討ち死にしたというのが、定説であるが、命を拾われてここ宇陀の山里に隠遁したという言い伝えもある。
その屋敷跡とされる石垣に、いまも樹齢三百年以上とされる枝垂桜が残る。
瀧のように落ちる瀧桜とも、また館の主の名をとって又兵衛桜とも呼ばれる。

多くの人が訪れて静かに飽かず眺めていた。
野暮な花見客などいなかった。

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2011/04/12

それでも春は

朝の畑仕事の帰り道、川沿いの公園の桜が遠くから見えた。
近くで幼稚園の入園式でもあったのだろうか、田んぼや畑に囲まれた公園にはスーツ姿のパパやママと一張羅(とは最近は言わないか)の園児が桜や菜の花畑をバックに写真を撮っていた。
こんな穏やかな日々は、日本中どこにでもあると思っていたが・・・
あれから一ヶ月がたった。あらためて黙祷を捧げる。

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2011/02/11

雪の古都

めずらしく奈良に雪が積もったので、東大寺の大仏殿から二月堂にかけて雪見に出かける。そういえば、二月堂はそろそろ修二会である。雪が少なくなった昨今では、地元に住んでいてもなかなか見ることのない風景だが、今日の観光客はラッキーというべきか。立派なレンズを装着したアマチュア・カメラマンも多数いらしたが、なかなか入江泰吉のようなわけにはいかないよね。
丘の上で、鹿がビーッ、ビーッと鳴いていた写真をアップします。

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